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海のはじまり 第4話感想

そこにいてね

私は散々、noteやTwitterで語ってきたけれど、「海のはじまり」という物語は『水季と海の親子の会話』から始まり、『夏と海の不思議な関係性の会話』で終わると思っていた。だがこと第4話においては、まったくの逆であった。
カメラでお互いを撮り合いながら、海辺でにこやかな時間を過ごす夏と海を、車内から眺めていたのは朱音と翔平夫妻だった。
「どうするのかしらね。」ぼやくようにこぼす朱音に対し、翔平は感慨深く声を漏らした。「水季が生きていてくれたらなぁ……。」
ふたりの目には、夏と海と、水季が見えていた。海辺で遊ぶ3人の姿は誰が見ても家族でしかなくて、幻覚を周知させるほどだった。
だが、オープニングと同時に水季の姿だけが消える。無情に現実を突きつけてくる演出は、美しくも切なく、寒いほどに寂しかった。

『パパになる』『パパをやる』。

第3話で海はこの些細な感情の機微に言及していた。『パパだからいなくならないでほしいけど、パパやらなくていいよ』。寂しがり屋で水季を喪った悲しみを傷として抱えている海は、その日津野に電話していた。
「海行ったの。楽しかったよ! 」「よかったね。」穏やかな中にもどこか緊張感が宿る会話の中で、海は天真爛漫に言ってのけた。「津野くんも今度一緒に行こう! 」電話の向こうの津野の表情が、停止した。「『夏くん』がまた連れてってくれるよ。」
『月岡さん』と呼んでいた津野が『夏くん』と呼んだのは、海を想ってのことだろう。津野は「海ちゃんが僕に会いたがったことなんかないですよ」と言っていたが、津野が思っているよりもずっと、海は津野に懐いている。
「なんで前みたいにいっぱい会えないの? 」だからこそ、海は津野に会いたがる。「海ちゃんのパパじゃないからかな。」対する津野の言葉には、どこか嫌味や諦めもあり、彼の水季への消えない気持ちを感じさせた。

津野は海のパパになりたかった。

でもそれは、彼が水季に好意を寄せていて、海を愛おしく思っているから。それでも彼の好意の初めにあるのは水季への想いだし、彼が海の幸せを願うのも、水季を想ってのこともあると思う。
じゃあ津野は、水季の子どものパパであればよかったのか? 水季の子どもが海じゃなくてもよかったのか?

物語は、弥生と夏のシーンへと移り変わる。お互いに話したいことがあるからと弥生の家に集まった中、口を開いたのは夏だった。
「一応決まったこととしては、できるだけ一緒にいることにした。一緒に住むとかじゃないんだけど……。」口ごもりながらも目を見てはっきりと言う夏に、弥生は厳しい目を向けた。
認知はするってこと? そういうのって、居住地とかいいの? 法律的に。」「そういうのはっきりさせるのは、もう少し先延ばしにして。」「先延ばしって……そんなの無責任だって。」弥生の詰問は止まらなかった。
「本人が望んでること優先したいし。」「でも子どもの希望とは別に、あるでしょ? 親権とか。」「形にこだわってもしょうがないし。」夏も珍しく気圧されず、思考を言葉少なに紡いでいたが。「こだわるとかじゃなくて、戸籍とかってちゃんとしないと。後々困るのって海ちゃんだし。

この瞬間、イマジナリーラインが超えた。イマジナリーラインとは映画の撮影用語のひとつであり、ふたりの対話者の間を結ぶ仮想の線を指す。簡単に言えば、ふたりの表情とも右側や正面から撮っていたところから、いきなり逆側から撮る。そのため突如移動したように見えてしまうことが起きる。
基本的に、イマジナリーラインを超えることは厳禁だ。じゃあなんで超えさせたか? 止まることのない弥生の詰問を止めたかったから、夏と弥生の流動的に急いた時間を変えたかったから。理由はどちらもだろう。
「待って、決めさせようとしないで。」夏が時間を制止した。
「弥生さん、何も強要はしないけど、それは助かるんだけど。決めてないってことすごい責めるよね。」この、月岡夏という男は……! 人を見ているからこそ人の本質をやんわりと理解しているのだけれど、それを普段は言わないのにここで言うのか……! 当の本人も、言ってしまったと感じたのかもしれないが。
「今すぐアパートでふたりで暮らすなんて現実的じゃないし、学校とか会社のこととかもあるし。めんどくさくて先延ばしにしてるわけじゃないよ。考えて、想像して、想っているからこそ『現状維持』を選んだ夏。夏はそれを、その責任感を、弥生にもわかってほしかったのだろう。
弥生はそんな夏の言葉を噛み締め、口角を固く上げて何度も頷いた。「ほんとそう。決めさせたかったのかも。」

「この前から、なんで? なんでそんなに?」ここで強く詰問したり、ため息を吐いて会話を諦めたりしないのが、月岡夏という男『らしさ』だと思う。
重々しく本音を聞こうとする夏に対し、弥生はあっけらかんと答える。「海ちゃんのお父さんになってほしいし、私もお母さんになりたいから。」

早くお母さんになりたいんだよね。

弥生の言葉は、あまりにも軽薄でむしろいびつであった。
「何に焦ってるの? 」夏の疑問が、ふたりの間でぽとりと落ちた。


弥生の回想が始まる。数年前の弥生は、喫茶店で元恋人の悠馬と向き合いながら、はにかみつつエコー写真を見せた。
だが、悠馬が言った言葉はどこまでも残酷だった。「いつするの? 手術っていうか、早い方がいいんでしょ? お金も、もちろん全額出すから。」赤ちゃんができた、と話す弥生に対してのその言葉は、有無を言わさぬ中絶の申し出だった。
「……ありがとう。」せめて相談したかっただろうに。弥生は相手に反論することもできず、全部全部感情を飲み込んで感謝の言葉を口にした。「普通だよ、ちゃんと責任取らせてよ。」最悪だ。場を丸く収めるために感謝の言葉を選んだら、向こうが『優しい人』になってしまった。
「仕事、大丈夫なの? こういうのって日帰りでできるもんなの? 」「いい選択だと思うよ。普通に仕事続けて、キャリア築いてさ、お互いのいいタイミングで普通の順序で、ちゃんとした家庭築こうよ。」選択したのはお前じゃないか。主導権は全部お前にあるんじゃないか。弥生の身体の話なのに、弥生の意見をひとつも言わせていないじゃないか。優しい振りをして容赦なく弥生を傷付けているじゃないか。
「やっぱり、今日仕事しようかな。大事な時だし。ここで仕事してく。また落ち着いたら連絡するね。」それは弥生の『限界』の合図だった。もうひとりにして、あなたの感情の機微を推し量る気力を私に割かせないで。
弥生は相変わらず笑顔だったが、視聴者からしたら彼女がそう思っていることは、火を見るより明らかだった。
「ありがとう、相談に乗ってくれて。」弥生の言葉に返される言葉は、やっぱり残酷だった。
お大事にね。
お大事に、お大事にね? 女はひとりで妊娠するわけじゃない。男が射精したから妊娠するのだ。それなのにまるで弥生ひとりの体調不良で、責任は弥生にしかないような物言いで、それでいて主導権は全部自分が握っているような。
弥生が必死に押さえ込んでいる、彼女がやり方を忘れた怒りに、わなわなと震えた。

悠馬はにこやかに去り、弥生はその背中が消えるのを見届けてから、涙ごと飲み干すようにコーヒーを飲み干した。そして横切る店員を呼び止め、お代わりを注文する。「同じものを。」伝票を確認した店員は、「ノンカフェインコーヒーでよろしかったですか? 」そう、訊ねた。
普通ので。」弥生に、表情はなかった。「ブレンドでよろしかったですか? 」「普通ので。
弥生の前に置かれた『普通の』ブレンドコーヒーに、弥生が手をつけることはなかった。
もう、ここに関しては語るまでもない。弥生はお腹の子を想ってノンカフェインコーヒーを頼んだのだ。でもそれを否定され、諦めるように『普通の』ブレンドコーヒーを頼んだ。でもそれを飲めるほど、まだ諦めきれられもしなかった。
残酷で丁寧で繊細で痛々しくも美しい描写だと、そう思った。


回想は、水季へと映る。子どもができた、産まない、堕ろすと決めた頃の、まだ夏と別れていない頃の水季だった。
相手は誰なのか、付き合っている人なのかと質問を重ねる朱音に対し、水季はうんざりとした表情をうかべる。「大丈夫、もう話した。堕ろしていいって言われたし。」「堕ろせって言われたの?」朱音の声が、怒りに震える。「言われてないし、そんなこと言ってないし。私が堕ろすって言って、いいよって。」『うんざり』、水季の仕草はまさにそれだった。
命を軽視している。朱音はそう思ったのだろう。「水季に会うまでどれだけ大変だったか、何回も何回も話したよね? 水季に会いたくて、お母さん頑張って頑張って。」不妊治療は辛かった。それでも水季に会いたかった。それなのに、水季は残酷なことを言う。
「水季じゃないでしょ。」水季だよ。咄嗟の朱音の言葉も、耳に入らないらしかった。「お母さん、水季に会いたかったんじゃないよ。子どもが欲しかっただけでしょ? 母親ってポジション欲しかっただけでしょ? 」
あぁ、違う、違うよ水季。私はいわゆる毒親に育てられた虐待育ちだけど、親を捨てた側の人間だけど、それでも水季はそうじゃないと言い切れる。

子どもは生を選べないけど、水季はたしかに望まれて産まれてきたんだよ。

うざい。水季は言う。
「母親って、そうじゃない女よりえらいのかよ! 治療して妊娠したら、そうじゃない奴よりえらいのかよ! なんなんだよ、自分の苦労ばっか。知らないよ産まれる前のことなんか。頼んでないもん! 」
残念だったね、一生懸命頑張って妊娠してできた子がこんなで。お母さん可哀想。
誰もが頼んで産まれてきたわけじゃない。水季はそれをわかっていて、自分がうまく子どもを育てられると思わないから、両親に親孝行できていない自分が嫌だから、あえて朱音を傷付けるような言葉で傷を露呈した。
そんなことを言っても、朱音は水季の手首を掴むだけだった。あぁ、手をあげないんだ。そう思った。
子どもが親を傷付ける言葉を選ぶとき、自分が深く傷付いているのだと思う。親に「あんたなんか産まなきゃよかった」と散々言われたとき、「産んでなんか頼んでない! 」と叫んだことがあった。あれはたしかに傷で、でも本当なら「そんなこと言わないでよ」など、親の傷をケアする言葉を選べばよかったんだろうなとは思う。それができなかったからこそ、殴られて閉じ込められたのだと、そう思っていた。
でも今回このシーンを観て、私の価値観は違っていたのかもしれないと感じた。傷を露呈して親を傷付けるような言葉を言っても、手をあげられていい理由にはならないんだ。
少なくとも水季は、そういう愛され方をしてきたんだ。


対して、弥生は違った。手をあげられるわけではない。それ以前の問題だ。弥生の母親は、弥生に対して関心がなかった。
弥生は母に、電話をかける。相談がある。そんな声に、母はぶっきらぼうに「何?」とだけ返す。そして「妊娠した」と言えば、「そう」とだけ言う。
「どうしたらいいかな。」『普通の』コーヒーを飲めなかった弥生は、相談に乗ってほしかった。『弥生はどうしたいの? 』と訊いてほしかった。あわよくば、『弥生の好きにしていいよ、協力するよ』と言ってほしかった。
「相手に言ったの?」だが、弥生の母は無情だった。「言った。あんま産まないでほしいみたい。」「じゃあ堕ろしな。」息を吐く暇もないほど、矢継ぎ早に覆い被さる言葉は、悪意よりもタチが悪かった。
「ひとりで、育てるのってさ。」弥生の声は、願いだった。協力するよ、は無理なんだ。じゃあせめて、産みたいなら産みなとか、大変なときは……くらいは。「私、無理だからね。」願いが、ぱちんと弾ける。「無理だから。」念を押すように言われれば、優しい弥生が意見を口にすることなんか、できるはずもなかった。
「……そう。そっかそっか。……了解。」きっと弥生はこれまでも、親の無関心や強すぎる主導権によって振り回されてきたのだ。そのたびに意見することを諦め、心の奥に本音をしまい込んでしまったのだ。誰かの手がないと取り出せないほど奥にしまい込んでしまったのに、誰もそれを引き出そうとしてくれないのだ。「お金、ちゃんと出させなさいね。」弥生の母は、1度も弥生の体調を想わなかった。


視点は、またもや水季に移る。水季と弥生の対比は、いっそ残酷なほどだった。

「こんなの生まれてきたら怖い。こんな親不孝なの出てきたら怖い。」父翔平とふたりきりのとき、水季は本音をこぼす。
水季は親が大切で、深く感謝しているのだ。それは『好き』という言葉を遥かに超えた愛で、だからこそ彼女はそんな親に対してすら素直で愛らしくなれない自分が嫌なんだろう。そして「産みたい」と素直に言えば、全面的に協力してくれるという確信があるからこそ、両親ふたりにまたひとり『自分に似た生意気な子』の命を背負わせるのが嫌なのだ。まさに、ただ無条件に産みたかったのに否定ばかりされたから産めなかった弥生と、対極である。

「親不孝かどうか決めるのは親だよ。子供が勝手に決めないでくれる? 」

今回、私が1番身構えた台詞がこれだった。「存在が親不孝だ」と言われてきた私にとっては、どうしてもネガティヴな意味に捉えられてしまったからだ。でも、翔平が言うそれは違った。私が親からかけられた言葉が存在の否定ならば、翔平から水季の言葉は存在の肯定であった。真逆だった。
「自覚あるくらい親不孝なの。」「そう、勝手に言ってなさい。」翔平は、優しかった。穏やかで優しく、水季の傷を丸ごと抱きしめるような愛に満ちていた。余裕があった。その余裕は、水季が生きてくれているだけで幸せだと、本気で感じているからこその余裕だった。

「ほんとは産みたいの? 」翔平は、水季に訊く。「相手に似るなら、産みたい。」翔平の優しい声色で絆されるように、水季の本音が顔を出す。
「相手に似て欲しいって思えるだなんて、それはもう、ねっ。」からかうような、愛おしいような。そんな声を、翔平は隠さなかった。そして翔平がわざわざ言わずともわかった。水季が、夏をどれだけ愛しているか。
「迷惑かけたくない。」「迷惑ねぇ……。」
「責任負わせたくない。」「責任ね。」

夏はとにかく、人を大事にしすぎて主体性がない。だから水季くらい主体性がある人が彼のような人を好きになると、こうやって感情の蓋を固く閉ざし、夏に見えないようにするのだ。
もしバレたら、夏が人生を自分に捧げてしまうから。妊娠はふたりの責任なのに、水季は夏のために全部背負おうとした。そして夏は、それを知らずに生きてきた。
たしかにある愛が、ふたりの責任に厚いヴェールをかけてしまったのだと思う。

でも親になるには責任がいる。産みたい、だけでいいのか? マイペースすぎるが故、自分でもコントロールできない水季は、自分の中の『産みたい』に懊悩する。
そこへ手を差し伸べたのが、また翔平であった。水季に朱音が書いた母子手帳を読むのを勧めると、彼女はいろんな感情を抱きながらもしっかり読んだ。「読むところいっぱいあるよ。お母さんいっぱい書く人だったから。」

そして水季は、決意を固める。「母子手帳貰ってきた。」まだ名前を書いていない母子手帳を、翔平に見せながら表情を硬直させた。
「こんな、お母さん大事にしないやつでも、お母さんになれる? 」それは絶対、弥生が訊けない質問だった。
「いるんでしょ。じゃあもうお母さんだよ。そう簡単に始めたりやめれたりするもんじゃないよ。」そしてその答えは、弥生も欲しかったものだった。
責任とは射精から始まる。もっと言えば、交際から始まる。産む産まないはこちらの選択でしかなく、妊娠すればもう親なのだ。それは変わらないのだ。産もうが産ままいが、親であることには、親だったことには変わりないのだ。
「正直言うとね、孫楽しみ。すっごい楽しみ! 」翔平の言葉に、水季の表情がゆるむ。どれだけ相談を重ねられても、まだ名前もついていない海は、祝福されて産まれてくる子どもなのだという証明だった。

「産むことにした。大丈夫、ひとりで産んでひとりで育てるから。」帰宅した朱音に、水季は言う。朱音からしたら寝耳に水、翔平と水季がどんな会話を交わしたかなんて知らないから、当たり前だ。
「あんたわかってないのよ、どれだけ大変なのか。」「わかるわけじやん、やったことないもん。」「あるとかないとかそういう問題じゃないでしょ……」「でもやってみなきゃわかんないでしよ。」「そういう簡単なことじゃないの。」
真剣に『海』の命を考える母娘の姿を、父翔平はにこやかに眺めていた。


ここで一瞬、また弥生が映る。ひとりで木漏れ日の中、揺れる水面の中で人工妊娠中絶同意書に名前を書く弥生。
そして同時に、母子手帳を見ながら陽のあたる縁側で、夏に別れの電話をする水季が映った。
「内緒ぉ、秘密ぅ。」るんるんとした声色を努めながら、夏に別れの言葉を言いながら、夏と別れることで夏を尊重しながら。水季は母子手帳に『海』という我が子の名前を書いた。

「あんた、人に『可哀想』とかいうのやめなさい。」

これは、母朱音の言葉だ。「知らないと思うけど、お母さん幸せなの。水季産めて、生意気に育って、わかま言われて、幸せなの。」
『可哀想』という言葉は、なぜあんなにも攻撃力が強いのだろう。同情しているはずなのに、憐憫を向けているはずなのに、相手の存在や価値観を全否定しているような攻撃力がある。『あんなの聞かなくていい。』第1話で、海を『可哀想』という声から守る夏を思い出した。
「嘘だ。」水季はひねくれる。「勝手言ってなさい。でも『可哀想』とか言うのはやめなさい。」生意気で、自分勝手で、マイペース。そんな水季が娘らしく、母の言葉に納得した瞬間だった。


前回、私は『弥生は元気付けて見せたいとき、“!”を使う』という話をした。今回でも、それは見受けられた。
ひとりで病院へ行き、ひとりで堕ろした弥生。夏とふたりで病院へ行き、堕ろさなかった水季とはまるで違う。対極だ。そして弥生は、空っぽになったお腹を重く引きずるように歩きながら、悠馬への返信をする。あえて、『!』をつけて、空元気を見せながら。

その日、弥生は帰ってからひとりでお風呂掃除をしていた。浴槽の中ですべってしりもちをついてしまう。その瞬間、弥生はとっさにお腹を守った。そのせいでお腹に泡がつき、じわりじわりと服を悲しみとともに侵食していった。

もういないんだった。

弥生の涙が、溢れ出した。キュ。温水のレバーを回す音がいやに響く。弥生はシャワーでお腹をあたためるように、服に着いた泡を流した。そしてそのまま、涙を洗い流すようにして、顔にシャワーを当てた。彼女の泣き声は、細くか弱く小さかった。

以前もちらりと言ったけれど、私も同じ泣き方をしたことがあって。とめどなく水を流すシャワーは、いやに涙腺を刺激するのだ。代わりに泣いている、とでも思っているのだろうか。わからないけれど。
ノンカフェインコーヒーを選び、『ひとりで育てる』という重い言葉を口にし、咄嗟にお腹を守った弥生は、たしかに母になる覚悟があった。産みたいと思っていた。でも周りの反対を押し切るほど周りの人のことが嫌いでもなくて、ひとりで良い母になれる自信もなかった。弥生と彼女の親のことは最低限しか描かれていないけれど、彼女の家庭環境を思えば致し方ないことだろうとも思う。

その点、水季は『ひとりじゃなくても』頼れる存在がいるとわかっていた。水季が弥生のような環境だったら、産みたくても産めない。でも水季は水季としてあの環境で生きてきたからこそ、親孝行じゃないと後ろ向きになって1度は産むことを諦めた。対して弥生はあの家庭環境だったからこそ、最初から産みたかった。このふたりの対比は、どこまでも残酷だった。

苦境に陥ったときって欲しい言葉が存在していて、大切な人がそれをくれたら意思が行動として形になるんだと思う。

でも弥生の場合誰もくれなかったから、意思はあるのに形にできなかった。水季は意思が曖昧だったけど、欲しい言葉のおかげで形にできた。命は、奇跡の上に生まれているのだと、改めて思う。


物語は、過去回想を終え、現在へと戻る。夏に対してすら本当の気持ちを言えなかった弥生は、なんとも言えないわだかまりを抱えながら夏の連絡を眺めていた。
「伝え忘れた。海ちゃんが、今度は弥生さんも海に行きたいって。」産めなかった、産まなかった自分が海の母親になりたいと思うのは、なぜなのだろうか。弥生自身、その問いに向き合うときが来てしまったのだ。

「話って言っても、ただの報告なんだけど。」ふたりは喫茶店で向き合って座る。弥生の前には、ノンカフェインではない『普通の』ブレンドコーヒーが置かれる。あの日飲めなかった、ブレンドコーヒー。弥生の表情がわずかに固まった。
「無理に話してくれなくても。」夏は相変わらず優しさを見せるが、弥生の覚悟は決まっていた。というより彼女自身、もう自分の罪悪感に耐えきれなかった。

殺したことある。産んでたら、今海ちゃんくらいだった子。

今度は、夏の表情が固まる番だった。「罪悪感みたいなのがずっとあって、良い親になって子どもに必要とされれば楽になれるって、無理やり思い込もうとしてた。」毒親育ちとしては、あまりにも身につまされる話だった。
自分のために、親になりたかっただけ。ごめん。」朱音との対比だと思った。朱音は水季が欲しかった。翔平と朱音の子として、水季に産まれてきてほしかった。対して弥生は、愛する夏の子どもなら誰でもよかった。懐かれていたから都合がよかっただけで、夏の子どもの母親として夏の子どもに愛されることで、良い親になりたかった。そうすれば、子どもを『殺した』罪悪感から逃れられると、そう思っていたのだ。
「俺は、別に……。」夏は相変わらず口下手だ。弥生はゆるされたいわけではないと知りながらも、思わずゆるそうとする言葉が口をついて出てきてしまう。「ごめん。ごめんなさい……。」案の定、弥生は謝り続けるだけだった。
ほんとずるかった。これを言う前に、海ちゃんと関わるのよくなかった。」弥生は命に誠実で、海にも誠実だった。でも誠実に生きるにはあまりにも罪悪感は重く、彼女の善性を揺るがすほどだった。
「俺もすぐ話せなかったから。」「ううん、絶対ダメだった。」
たしかに、弥生が海と初めて会ったとき、弥生は海が夏の子だと知らなかった。突然来訪してきた海に手を焼いた夏を助ける形で、弥生が世話をしたのだ。でも、すぐ話せるような事情でもない。そして子どもは、1度会って優しくしてくれた人のことを、案外覚えているものだ。大人よりもずっと『会ったことがある人』が少ないからこそ、ひとりひとりの容量が大きい。

言うだけ言って、弥生はブレンドコーヒーを飲んだ。あの日飲めなかったブレンドコーヒーだった。涙ごと飲み干したノンカフェインコーヒーと、罪悪感を飲み込んだブレンドコーヒーだった。

立ち去ろうとする弥生を、夏は手を優しく握ることで止める。そしてまた座らせると、たどたどしくも自分の本音を一生懸命言葉にした。
「俺は気にしないし、悪いこととは思わないし、海ちゃんの親になりたいと思ってくれたことは、本当に嬉しかった。」そういうこと、言われたいわけじゃないのは、わかってるけど。
弥生も夏も、人の感情の機微ばかり見ているから。弥生は敏いからこそ言われたい言葉を選べるけど、夏はそこまで器用でもないから、ちょっとズレた場所の言葉を選んでしまう。それでも、弥生の気持ちの機微はわかる、わかってしまう。
うん。弥生が頷いた。うん。
「ゆるしがほしいわけじゃない。ただ……、自分が無理で。自分で、自分がどうしたってゆるせない。」弥生の頬を、涙が伝う。彼女はこのとき、ようやく初めて、夏の前で泣けたのだった。
「こんなの、海ちゃんにも水季さんにも失礼すぎる。」「子どもにとっていいことなら……。」必死に弥生を肯定しようとする夏を、泣きじゃくりながら弥生は首を横に振った。

罪悪感ってそういうことでしょ?
殺したって思ったって、そういう言葉最初に使ったの、月岡くんだよ。

罪悪感、罪悪感。勝手に子どもを作ったのに、自分の都合で生かしたり殺したりする。無責任で、命を軽視している。それに向き合うために、誠実で真摯な夏は「殺した」という言葉を使った。でも、その誠実さは、彼も知らないうちに弥生を傷付けていた。
「ごめん。それ言うのもずるいよね。」言われたい言葉がわかる人の、言葉の攻撃力は高い。もちろん、夏のように自分に厳しい人の攻撃力の方が、ときには遥かに高いのだけれど。
夏に歩幅を合わせてきた弥生が自分の足で夏のもとを去ったとき、夏はなにもできなかった。それが月岡夏という男だった。


再三言うが、夏は無責任なわけではない。むしろ誠実で、真摯で優しく、想像力に長けた人なのだ。彼は人の顔色を窺うところがあるが、それは別に人に嫌われたくないわけではない。むしろ『誰の人生にも名前を残さないようにするため』の処世術ですらあるだろう。
だが彼が優しく生きている限り、それは土台無理な話なのだ。現に彼は今、弥生を傷付けながらも愛され、海の居場所となっている。
「弥生ちゃんは? 」夏とふたりのとき、海は訊いた。「連絡したけど、返事なくて、ずっと。忙しいんじゃないかな。」夏は曖昧にごまかすが、それでごまかされるほど海は鈍い子でもなかった。そこは水季に似たのかもしれない。
「なにか傷付けること言ったんじゃない? 」「……なにそれ、急に大人みたいなこと……。」急におしゃまなことを言う『海先輩』たる背中の大きさで、海は夏を諭した。なんというか、やはりこのふたりはまだ家族ではない。そう感じる、心地好い空気感だった。
「それはまぁ、そうかもしれないけど……。さすがにここは来たくないよな……。」夏はちらりと水季の遺影を見ながらこぼす。……そういうところやぞ月岡夏。海ちゃんの前でそういうこと言うんじゃないよ。
「違う違う、海ちゃんに会いたくないんじゃなくて……! 」が、当の本人はそんなこと全く気にしていないようだった。海は畳の上にごろりと寝そべり、水季の方を見て大きくて小さな背中でアドバイスまでしてみせた。「電話してみれば? 」
もうちょっと待ちたい。対する夏の言葉は、やっぱり夏らしかった。

「なにも複雑じゃなくない? シンプルだよ。」スピンオフドラマ、『兄との始まり』の第2話で夏の弟大和に水季がかけた言葉である。大和から改めて夏の家庭環境を聴き、水季はあっけらかんと答えた。
そういう、当事者がどうしても複雑に考えてしまう現実を、あっけらかんと受け入れてくれるのが水季なのかもしれない。そしてそんな水季に、海は似たのだろう。

「夏くん、弥生ちゃんに会いたがってたよ。寂しそうだった。けんかしたの? 」驚くことに、海は弥生に電話をかけた。夏がいない場所で、朱音と翔平に見守られながら。
「へへ、してないよ。」弥生は驚きながらも、いつも通り、柔和な物言いで返事をした。「夏くんが悪いこと言ったの? 」「ううん、違うよ。私がね、悪口言っちゃったの。」
子どもらしい無垢さで質問を重ねる海に、弥生はひとつずつ丁寧に答えていった。彼女の感情の整理の時間でもあった。「それで傷付いてるんじゃないかな。会えなくて寂しい、とかじゃないと思うよ。」

「夏くん、好き? 」

無垢だった。弥生の罪悪感をちくちくと刺しながらも、心にしんみりと染み渡るような声だった。苦くて味がしないブレンドコーヒーとは全く違う、優しくてあたたかい声だった。
そしてそれは、弥生にも伝播する。「うん、好きだよ。」「海も! 」海の声が喜びに弾ける。
「そっか、一緒だね。」「じゃあまた3人で遊ぼ。」弥生は母になりたくて、良い親になりたくて。だからこそ彼女が海に言う言葉はどれも、彼女が欲しかった言葉なんじゃないかと思ってしまう。
「うーん、どうかなぁ。」曖昧な返事を返す弥生に、海は淡い疑問を形にした。

ママじゃないからだめなの?弥生ちゃん、海のママじゃないから、夏くんと一緒にいれないの?
海のせい?

ちょっと、泣きそうな声だった。子どもに罪悪感を抱かせることは、なによりも辛い。「違うよ。海ちゃんは何も悪くない。」そしてそういうとき、弥生はまっすぐ否定できる人なんだよ。生まれそうな罪悪感を綺麗に拭きさろうとしてくらる優しさがある人なんだよ。幸せになってほしい人なんだよ。
「弥生ちゃん悪くないって、夏くん言ってたよ。誰も悪くないのに、みんな好きなのに、夏くんと一緒にいちゃだめなの?子どもの考えは、シンプルだ。誰も悪くない、みんな好き合っている。なら離れる必要はない。誰も悪くなくて好き合っていたのに死によって別れなければいけなかった水季のことがあるからこそ、出てきた言葉なのだろう。
そして弥生も、そんな海の言葉で覚悟が決まったようだった。決まってしまったようだった。「そうだよね、そういうことじゃないのに。自分がゆるせないなんてね。」弥生の言葉は、独り言のようにぽつりと滲みて消えていった。「そのまま、自分だけその気持ち持ってればいいだけだよね。」
海には、聞こえたようで伝わらない言葉だった。

弥生は、もう子どもではない。そして無垢な海と関わってしまった。もう後には戻れない。だから腹を括った。自分が永遠に罪悪感に傷つけられようとも、関わってしまった責任に向き合い、好意だけを見せて家族になる1歩を踏み出す。それがどれだけ重いか。少なくとも海は一生知らないのだろう。

でも、知らなくていいのだ。それが子どもであり、守られるべき存在なのだ。
「弥生ちゃん呼んだ? 」公園にてふたりで遊びながら、海はあどけなく夏に訊いた。「呼んだけど、来るかわかんない。」感化されてか、海に対する夏の声もどこかあどけなかった。
「弥生さんのことすき? 」まるで恋バナでもするように、夏は訊く。次回予告で弥生に「ふたり、片思い同士みたいだよね」と言われていたが、まさにそんな距離感であった。
「うん、夏くんも弥生ちゃんのこと好きでしょ?」
人の感情ばかり気にする夏の思考が、びたりと止まる瞬間だった。わかりやすくわたわた動揺し、まばたきの数が増える。そしてそこへタイミング良く、弥生がやってきた。

「夏くん弥生ちゃんのこと好きだって〜! 」「照れちゃってまったく〜! 」弥生と海の物言いは、完全に恋の話を楽しむ女子トークだ。可愛い。家族じゃなくとも心地好い。ふたりとも、楽しいという感情に素直な表情だった。別に照れてないけど……。夏の呟きは、今回唯一の癒しですらあった。

「人見知りとかないんだ、月岡くんの子なのに。……水季さんね。」公園の砂場で初対面の子と遊ぶ海を眺めながら、ふたりはベンチで話していた。父と母ではなくとも、保護者ではあった。
「誰とでも仲良くなれるタイプだったから。」弥生は水季を知らない。でも海を通して、その透明さと眩しさに目を細めた。「それってあれでしょ、引っ張ってくれるタイプ。人に相談とかしない、自分の意思貫く感じ。」弥生から見ても、水季は眩しいのだろう。二度と会えないからこそ、だろうか。
「私はね、意外と相談したいタイプ。大事な人にまず話して、ちゃんと共有したいって思うタイプ……だった。」最初、夏が弥生や水季に惹かれるのはよくわかるという話をした。主体性が強く、人生を切り拓いていく。そのマイペースで引っ張ってくれる優しさは似ているが、夏のために全部を隠して決断した水季も、全部自分で決められるように振る舞っていただけの弥生も、完全に強くはない。水季は翔平や朱音との会話があったからこそ決断できたし、弥生の過去にはそんな人がいなくても、今も寄り添ってほしいと思っている。
「ほんとはもっと、人に寄りかかりたい。一緒に悩んだり考えたりしてほしかったんだけど、そのときの大切な人がみ〜んな、自分の考えをポイって置いていく人たちで、……寂しかった。」

その点、夏は弥生に無視されても、しつこく電話したり家に押しかけたりしなかった。他人に干渉することが恐ろしく、必要以上に怯えてしまう夏らしいが、よく怒らないな、とも思った。
「そこがいいんだけどね、待ってくれるとこが。」そう言いながらも、弥生は軽口を叩く。「悪く言えば自分がない、悪く言えば他人に委ねすぎ。」「……悪くしか言われてない。」夏は拗ねたように口を尖らせたが、弥生はそれを愛おしげに笑った。
「その決めきれない感じ? 迷っちゃう感じ。たまにいらっとするんだけど、でも、一緒に迷えるのは、助かる。寂しくない。「……すごい悪口言われた気がする。」夏ははにかんだ。この『悪口』という言葉に、第1話の水季と夏の別れ話を、思い出した。
夏はあの日、最後だからと水季に『悪口』という愛情表現をした。そして第4話で、弥生は夏にそれをした。

いつか夏が、別れじゃない日常の時間の中で、それをできる日はくるのだろうか。


知らないことって知ろうとするしかないのよ。夏休み、ちょっと住んだらいいんじゃない?

海が住む水季の実家へ初めて足を踏み入れ、水季の遺影に挨拶をした弥生は、長居もせずにひとりで帰った。「海ちゃんとの時間を大切にしたい、夏休みも海ちゃんと過ごしたい」という夏の気持ちを尊重してくれたが故だった。そしてその優しさは、鈍感な夏よりも朱音により濃く伝わったようだった。その上で、彼女は夏に提案してくれたのだ。
「1週間、ここに住んだら? ふたりっきりになるのが不安なんでしょ? 」「生活のイメージ、できないでしょ。お風呂って1人で入れると思う? 歯磨きは? 着替えは? 」

人と人なんて、知らないことだらけだ。でも家族において、そんなことを言っちゃいられない。この子はなにができるのか、なにが苦手なのか、なにが好きなのか。どういうときに、心が弱ってしまうのか。
一緒に生活することでわかることは、たくさんある。

そして本当なら、それはこれからも水季と紡ぎあげていくものだった。
場面は、病室の水季と海に映る。第2話でも出てきた『くまとやまねこ』という絵本を読み聞かせると、海は悲しそうに声を上げた。「死んじゃったの、かわいそう。」
「でも生きてた時幸せだったかもしれないよ。」
『いるよ』のときも思ったけど、水季も欲しい言葉をくれる人だよな。そういうところは、やっぱり弥生と似ている。弥生と違って、屈託もなくくれるからより一層信憑性が増して、子どもの心にすんなりと滲みてくるのだろうけれど。
「わかんないけどね。幸せって、自分で決めることだから。」「ママは? 」病床で、病院着を着て、点滴に繋がれて。それでも水季の笑顔は、生きる喜びに満ち溢れていた。

すっごく幸せ!


家族は責任だ。それは子どもにも親にも付随すると思う。ただ、未成年の守られるべき子どもにはない。でも、機能不全家族だとそんな当たり前なことすら守られない。子どもは平穏のために気を配らなきゃいけなくなるし、逆に大人は自由気ままに振る舞う。それが機能不全家族であり、毒親や虐待を生む。
そう考えると、『海のはじまり』の大人たちにその片鱗は全く無い。だからこそ、元虐待児の自分でも安心して観られるのだと思う。
みんな海の幸せのために心を砕き、自分の中の負の感情にも目を瞑り、海の意見に耳を傾けてくれている。『海ちゃんは、どうしたい? 』あえて言うなら、唯一夏だけが『悲しいときは悲しみな』と寄り添ったわけだが。
そして、夏が自分の気持ちを言葉にして相手の行動を変えたのも、海の涙だけだと思う。だが、第4話を観た後だと、弥生を呼び止めたときもそれに値するのではないかと思う。
少しずつ、少しずう。本当に亀もびっくりするほどのゆっくりとした速度だけれど、夏は夏なりに、自分の中の『誠実でいたい』という感情を行動に出力していっていると思う。だからこそ、これからどんな『海』になるのかが、毎回楽しみになってしまうのである。

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