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創作大賞応募作品【小説】 お願いだから、死んでくれ

おぼろげな記憶の中に、忘れられないことがある。
眉間にしわを寄せて、酒を飲む父の姿。その頃の父は、暴力的で手が付けられないほど荒んでいた。喉は酒でしゃがれていて、一触即発、触れれば破裂してしまいそう癇癪玉。周りには腫物のように遠巻きに見られていた。
吐く息はいつもため息交じり。何かにひどく苛立ってみえて、父と一緒にいる空間は地獄でしかなかった。向けられる視線が絡むと、その視線から感じる憎悪に肌が粟立ち、声も出せず涙だけが溢れていた。
悪意、殺意、憎しみ、ありとあらゆる負の感情を詰め込んで閉じ込めたパンドラの箱。俺はきっと、感受性が強かったのだろう。無数の針が刺さるような殺気を過敏に感じ取っては、歯鳴りをさせ、震えている。
視線が合うたびに湧き上がるような嫌悪と焦燥にまみれたその表情。吐き気を催すようなアルコールの匂い、何もかもに嫌悪していた。
強すぎる毒にあてられたように、息が上がって苦しい。
鉄の足がさびるガラスのテーブルの前を陣取り、タバコをふかす青ざめた表情の父は、いつも何かを小声でつぶやいては俯いている。
灰皿には吸い殻が刺さりピンとたって押し付けられ、時折自身の子供にさえもタバコを押し付ける。世にも醜悪な表情をし、滴るほどあふれる悪意を持って。
腕についた丸い火傷は年を増すごとに増えていく。冷淡な表情は崩れず、そのうち泣くことも忘れ、淡々とその行為に慣れていく。
泣いたって喚いたって殴られるだけで、助けなんて来ない。頬の内側の肉を噛みながら、熱さ痛さで正気を失いそうな自分を抑える日々。
物心つくころには、神様なんていないのだと悟った。大人になりさえすれば、ここから逃げられる。そうすればまともな生活を自分の意志で送ることができるのだと信じていた。
安タバコでむせそうになる部屋の隅で、いつか自分は自分の力で「まとも」や「普通」を手に入れてやると決意し、虎視眈々とその時を伺っていた。
しかし、年を増すごとに暴行も激化をたどれば、どこかの時点でその野望は潰えてしまった。毎日、毎日、父親の意識が向かないように。刺激しないように。そればかりに気を張り、いつも緊迫した空気が張りつめ、じくじくと己を刺す。
薄暗がりの部屋には、窓の外の明かりさえおぼろげだ。公園の冷たい水で体を洗えば、好奇の目で見られ、ひそひそと井戸端会議のネタにされる。そして誰かを生贄みたいにこちらに寄こし、好奇心とさげずみを隠した同情を差し出される。
「あなた、大丈夫なの? お母さんとお父さんはお風呂に入れてくれないの?」
 含み笑いが隠し切れず、口元が歪んだのを見落とすほど、子供ではなかった。環境が人を見抜く力をくれたのだ。
「大丈夫です……」
 子供ながらに彼女らは自分を救う寄る辺にはならないと知っていた。話のネタが欲しいだけ。もし本当に助ける気があるのなら、とっとと行動に移し、同情ぶった言葉を投げかける間もなく保護するのだろう。
 俺に与えられた世界は淀み濁っていた。いつも公園の遊具に隠れるように眺めていた。子供が親に手を引かれ、楽しげに話しながら家に帰っていくのを。
親子は湿疹もかぶれもないきれいな肌。頭をかくだけで、ぽろぽろフケが舞うような自分とは程度遠い。
あの子供とは全然違う。空がざわめき木々が揺れ、葉がこすれる音を聞いて身震いする。暗雲が立ち込め、夕立を予感させる湿った空気が流れ込んできて、不意におかしくなって笑う。
今更、こんなことが怖いと言ったら、笑われるだろうか。カラスの鳴く声が怖い。自分の手のひらさえ視覚することができない暗闇が怖い。己を見る人の声と視線が怖い。何もかも全部怖い。
おかしな話だ。あんな怖い父が家にいるのに、比べれば他愛のないことだとわかっている。わかっていたはずなのに、全部が怖かった。
空の端から暗色が忍び込んで、夕闇が侵食するのが目に入る。香ってくる食事の匂いに腹を鳴らし、公園にある蛇口をいっぱいにひねって水で胃を膨らませる。
その時、少しだけ目を閉じて考えるんだ。もしも、もしも普通の家庭に生まれていたら、優しい母親が自分の手を引く想像をしてみる。目頭が熱く、涙がにじんで水を吐いた。
酸っぱい味が口に広がった。それでもその想像は俺の心の拠り所だったのだ。
もし、もし自分が――なんて都合のいい妄想だろう。
優しさの一つも知らないくせに、見よう見まねの家族ごっこを頭に想像することしかできないくせに。それなのに、想像だけは優しかった。夕闇の光が涙で滲んでいく。
声をあげて泣けたなら、誰かが優しく抱きしめて慰めてくれたなら、今より少し心は軽くなるんだろうか。
せっかく飲んだ水分が減る。また腹が減る。少し前まで、慰められたいとか、優しさが欲しいとか、自分が大人になったらそれが全部手に入る。自分で手に入れることができるのだと、信じて疑わなかった。けれど、それはあとこの生活をどれだけ堪えれば得られる話なのか。
かすれるのだ。何度も自分の願いが打ち砕かれるたび、願いは薄れ、希望はかすれて、自分が何を願っていたか思い出せないのだ。
きっと涙が意味を持つのは、真っ当な人間関係の中にいるときだけだ。何故なら、俺にとってその演出は父を烈火のごとく怒らせるだけで、不利益しか生み出さない。
夕日が赤いから、涙が血に見えた。
時間がたつにつれ、赤さと眩しさを増し、最後の抵抗をみせては、ついには潰えて暗闇にのまれていく。
「惨め」
己に抱く感想があまりにも滑稽極まりなく、嘲るのも躊躇うほど救われなかった。
それでも、捨てきれずにいた。俺は父に愛されたかった。父に情を求める心があった。親子だから無償の愛を注ぐべきだとか、優しく子供に接するべきだとか、そういうのはまともな親に求めるものだ。
けしてこのろくでもない親に求めるものではないと今ならわかる。どれだけの願いを打ち砕かれても、それだけは捨てきれず、願望は心の中から消えない。
だから殴られるたびに思った。どうして自分は大事にされないのかと。納得のいく言葉などあるはずもない。それが得られるような父ならば、こんなことになっていない。
それでも、求めてしまわずにはいられなかった。幼心に愛を求めていた。愛される幸せが欲しかった。けれど、それはいとも簡単に踏みにじられてしまう。
俺が十を迎えた年の大みそか。有名な神社の近くにあったうちは、深夜になっても参拝客が途絶えず、にぎやかな声や屋台の匂いが家まで届いていた。
ぼんぼりに明かりが灯る道から、甘ったるいりんご飴の匂いとソースの焦げる匂いに腹の虫が鳴り、食べたこともない屋台飯を想像していた。
おいしそうな匂い。布団にくるまりながら、土壁に寄り添ってぼんやりと煙たい部屋の中を見渡す。きっと一生食べられないんだろうな。百八つの鐘が鈍くしびれる低音を響かせる。 その音が響くたび、父の貧乏ゆすりと舌打ちが増えていく。
「なぁ……」
 父が珍しく俺に声をかけた。
「な、……なに?」
 俺の返答を聞くことなく、父は俺のそばまで来て俺の首をつかむと締め上げた。
「恭一、お前知ってるか?人間はクズだって」
 突然のことで目を白黒させながら、父の野太い腕をつかむ。とんでもなく冷たく、がたがたと震えていた。父の顔を見上げると、父は涙を流していた。憎悪、哀惜、苦悩、そういったものを初めて父に垣間見た。
「人間はクズだ。俺も、お前も例外なく。俺の家族は火事で死んだ。群がった野次馬が邪魔で救急も消防も間に合わなかった。俺だけ残してみんな死んだんだ」
 父に殺されかけたその時、初めて知ったことだった。首を絞められ、口からあぶくを吐きながら、心底父親に同情していた。
 家族を奪われたことにではなく、せっかくできた家族でさえも大事にできないで殺そうとする愚かさに、だ。父親の手がぎしぎしと骨をきしませる。苦しさで開いた口の端から唾液が流れ、喉の奥から泡が溢れてくる。声にもならない呻きを出すのが紛れもなく、自分だということに現実味がない。
 いつからか、心と体の線を自分で切ってしまった。体はちゃんと苦しんでくれるのに、心から切り離してしまえば苦しいのは体だけだと気づいた。だから切り離した。痛みが付きまとう感情を殺したのだ。
 視界が白くかすんで、おぼろげにでも見える父の形相をみて、自分はいつからこの父の暴力を悲しまなくなったのかと記憶を巡らせた。期待しない。どうせどうにもならない。そんな言葉じゃ比較にならないほど、父を事象として認知した。
自分は不運だった。こんな親の元に生まれて、人として子供として恵まれるべきものをないがしろにされた結果。
悔しい、悲しい、恨めしいが付きまとう。逃げられない。何度も思った。でもその感情が父から自分を救い上げてくれない。努力して行動して、助けてほしいと懇願したところで、愚かしいほど自分は無力な子供だった。空気が一気に頭に上るような感覚に、身震いする。もし俺がここで死ぬとしても、大した後悔はない。
死ぬのが怖いなんて生きるのが怖くないやつの言い分だ。毎日毎日、一触即発の空気感の中、痛みに怯える俺が、怖がるはずのないものだった。
タバコを押し付けられるなんて、平気なはずがなかった。泣き叫び暴れて「嫌だ、やめてくれ、やめてくれ」と声がかすれるほど、抵抗して家を飛び出したかった。「助けて助けて」と誰かにしがみついて懇願して、救い出されたい妄想にどれほど憑りつかれたか。発狂し、正気を失えば、この苦しみから解放されるのか。
いいや、違う。
その時点で自分は殺されるとわかっていたから、歯を食いしばって、泣くのを我慢するしか選択肢がなかった。そんな俺が何を悲しめばいいのか。
頬に雫が落ちる。
もうそれすら感情が伴っていない。悲しいがわからない。もう何も、目に映らない。瞼の裏は真っ暗で何も見えない。自分の口から泡になってこぼれる唾液の感覚も、もう今や遠い。
自分のことばかりなんだ。
すれ違う度、可愛そうな目で俺を見るくせに、通報も何もしない傍観者も、自分の妻が死んで子供に暴力を繰り返す父も、全部、目先の苦しみから逃げたいだけの逃亡者だ。
みんな、みんな大嫌いだ。でも、逃げなければ壊れてしまうとわかっているのに、これ以上をどう頑張ればいいか、俺だって、他の人だって、わからないのだ。
だから願うんだ。不確定多数の誰かを、誰でもいいから、不幸な目に合ってくれと。自分から大事なものを奪った不透明な誰でもない出来事に復讐している。
畳にこぼれた自分の唾液と泡が頭部を浸す。
もうだめだな……。そう思った瞬間、父は我に返ったように手を放す。
狭くなった気管に大量の空気が入り込む。必死に息をするたびヒューヒューと変な音が鳴った。意識が飛びそうなほど咳き込む。喉の奥に詰まっていた何かを吐き出す。咳をする、呼吸をみっともないほどに繰り返す。
人生でこんなに懸命に呼吸をしたのはこれが最初で最後かもしれない。
 父はおびえたように頭を抱え込んで震えている。頭を畳に擦り付けて、咽び泣きながら否定ばかりを口にして、許してくれと喚く。
「違う、違う、……違うんだ」
 振り向きもせず、うわ言のような謝罪はただつぶやくだけの音と化す。許してほしいのは自分だけ。俺に謝ってない。自分が自分を許せないだけ。俺のことなんか考えていない。
「……殺す気がないなら、最初からこんなことするんじゃねぇよ……」
 そういうと、父は顔を真っ赤にして言葉にならない唸り声をあげて俺を壁に投げつけた。
 土壁がへこんだ。ばらばらと砂が落ちる。
 落ちくぼんだ壁のおかげで、そこまでの衝撃ではなかった。けれど、背中を強く打ち、心臓が止まりそうになる。背中が痛いはずなのに、なぜか今度は心臓が早鐘を鳴らす。息がうまくできない。
せりあがる気持ち悪さに支配され、嘔吐する。何度も胃液を吐き、喉が爛れる感覚。ヒリヒリと痛む喉奥。
胃液が何度も上がって吐く「どうして」ばかりが頭を埋め尽くしていた。父が近づく。またよくわからない咆哮を上げて、俺を無我夢中で蹴り続ける。大柄な父の蹴りの一発一発は重い。蹴られるたび、意識が白んで、呻いている自分が惨めに思えた。
心の中で、祈るように唱えたのは。
「お前なんか死んじゃえばいい。お願いだから、死んでくれ」
 本当は当たり前が欲しかった。想像もつかないけど、手を上げない両親が欲しかった。毎日お風呂に入れてくれる、寝るときに何か話をしてくれて、怖い夢を見たら手を握ってくれるようなそんな家族が、当たり前が欲しかった。
幸せになりたかった。ただそれだけなのに、それはこんな情緒の崩壊した父と一緒ではなれない。こんな肉親に死んでもらわないと叶わない。汚い自分の思想に反吐が出る。人の死を望むなんて、それも唯一の父親の死を。
けれど、きれいごとを吐けるほど、もう夢も理想も抱けない。
あの父から生まれた俺がクズじゃないわけがない。ゴミはゴミしか生まないし、きっと父はこの出来事がなくても腐っていただろう。逆恨みしなければ生きてさえいけない。なんて、さもしいんだろう。俺も、父も。
死んじまえ、俺なんか。死んじまえ、みんな。
大事に抱えて温めていればかえるような、幸せの卵は存在しない。
この両の目で見据える父親の、苦悶に満ちた怒号の醜さ。それが向けられる俺の惨めさ。もうこのどうしようもなさ。耳も目もこの体のすべての五感よ、全部いらないから消えてくれ。
遠のく意識の中、サイレンの音が聞こえた気がした。
意識が戻ると、白い清潔なベッドの中にいた。傷だらけの体はきしむように痛んだが、それでも自分が求め続けた清潔なベッドと体を見て、優越感に浸っていた。
もしかして俺は父と離れられるのではないか。そんな淡い期待が真実味を帯びたのは警官の話と児相の職員が来てからだ。
この一件で、俺は児相に保護された。
安全な生活を送る一方で何かがつまらなく感じていた。吐き気のする人間の群れの中に放り込まれて、他人の見え透いた嘘がちらちらと横切る度、目に映る全ての行動に吐き気がした。
父に向けられていた殺意が、自分の中で肥大化して持て余しては誰かを恨む。そんな生活に代わっていった。死んでしまえ、死んでくれ。
例えそれが誰の「死」であってもかまわない。変わらないのだと。孤児院でいくら待っても引き取りにもこなかった父に教えられた気がしていたのだ。
 潔癖になり、全部が腐って見えて拒絶反応を示す。それも、年を取るごとに表面上は穏やかになっていった。生き方を学ぶとはそういうことなんだと思う。顔面に笑顔という仮面を接着し、人を上手く使えるようにずるくなる。それを常識として、体中に張り付けて上手く進むしかない。

 俺は十五までは施設で育ち、その後、弁護士をしている親戚の養子になった。
 皆月ケイという親戚の叔父さんは、結婚をしないことをご両親に責められ、子供だけでも養子で迎えるようにと勧められ、俺を養子にしたという経緯がある。
顔合わせをした時、興味のなさそうな表情で、けしてこちらに視線を合わせなかった。
きっちりしたスーツを着たやせ型の男性で、黒縁眼鏡をかけて少しげっそりと頬が痩せているのが印象的だった。あと何かわからないが、柑橘系のさわやかな香水の匂いがした。いい匂いがする。なんとなくとっつきにくい印象ではあるものの、彼は父よりはいくぶんも優しかった。
「何かあれば、報告するように」
 それが口癖だった。なんとなく、こういうのがきちんとした大人の匂いなんだろうとぼんやりと思った。父はいつもアルコールとタバコの匂いしかしなかったから。
 ケイさんと話をするうちに、彼は同性愛者であることを知った。そういう世界があることを知った衝撃はそれなりにすごかった。
けれど、愛もなにも知らない俺にとっては、彼が頬を染めながら少しだけ無表情を崩して笑うその姿が、どうしてもうらやましく映った。
 ケイさんとは、年頃の少年には悪影響だと一緒に暮らしたことはない。愛に偏見というものがあるのを知ったのも、その時が初めてだった。
 ブラックコーヒーの水面は鏡のように、彼の悲しげな目を移している。
「偏見があるから、君がそういう好奇の目で見られるとこちらが気を使ってしまう。何かあれば絶対に行くから、君は別のところで暮らしなさい」
 そういって俺は一人暮らしを始めた。その暮らしは必要最低限もなかった父との暮らしよりも遥かに豊かだった。
机と椅子とテレビ、調理道具も一通りそろえてある。施設にいたころにある程度の生活の知恵は施設長の金井さんというおばさんから学んだものの、わからないことも多かった。
そんな俺は困ったことがある度、買ってもらったスマホでケイさんに連絡した。電気ケトルの使い方がわからない。電子レンジも施設で使ったものより、ボタンが多く壊してしまうのが怖くてさわれなかった。
そのうちケイさんは一通りの家事などを教えに、うちに通うようになっていった。包丁の使いからある程度の料理のレシピまで、ケイさんはいろんなことを知っていた。
今思うと、ケイさんはかなりの料理好きだったのだろう。キャベツの千切りが異様に早くて、なんで料理人にならなかったのか聞いたほどだ。
キッチンに立つ背の高い彼の髪から整髪剤の匂いがする。きちんとした身なりで、高そうな香水をつけて、きちんとした職業についている。
それなのに、彼は恋人の話をするとき嬉しそうで悲しそうだった。憂鬱そうにうつむき、自虐的に微笑む彼を見るたび思ったのだ。
どれだけ本人が清廉潔白の真人間で、立派な仕事についていても、陰りのない幸せをつかめるかなんてわからないんだと。
 キッチンに立ち、包丁の使い方を教えてくれる彼の横顔が、寂しそうだったのが忘れられない。
「ケイさん、俺。ちゃんとした人生の轍をたどれば、幸せになれると思ってた」
 そういった時、ケイさんが少し悲しそうな表情をして眉をひそめる。
「僕は不幸に見えるかい?」
「……見えない。でも、大変だなって思う」
 正直な意見だった。けれど彼を傷つけてしまったのか、それっきり彼はうちに来ることが少なくなった。
ケイさんがこなくなっても、教えられたことをこなしていった。掃除、洗濯、料理に買い出し。気が付いたら俺は酷くまっとうな生活を送っていた。
埃一つのこさないよう床を濡れ布巾で拭くたび思った。普通のフローリングってこんなツルツルなんだと。父と暮らした家のフローリングはねっとりとして、ヤニが分厚く張り付いていた。
黄ばんだ父の歯を思い出す。タバコのヤニがどれほど部屋を汚染するか知った。
あんなにヤニが厚みをもって壁や床に張り付くほど、タバコを吸っていたのか。父がどれほどタバコや酒に依存していたか知った。
窓を開ける度、はいり込む新鮮な空気に。冷たさが残る朝露の透明さに心底感動していた。それが当たり前なんだって、受け入れられない。ずっと欲しかったものを前にして、全部を拒絶した自分がいた。
初めての何不自由ない生活の中で、まっとうに生きているのに。それがどうしてかわからない。

学校で始めて友人ができ、仲良くなった女の子の一人に一目ぼれだと告白され、付き合いをすることになった。
黒髪の長い、優しそうな目元の華奢な女の子。頬に少し赤みがあり、目を細めて笑うと愛らしい。話をする時に必死になって伝えたいことを懸命に伝えようとするのが、可愛いなと思っていた。ちゃんと自分の事を好いてくれているのだと実感していたのだ。
俺はあまりに人との付き合い経験がなかった。はじめこそは緊張して上手く話すこともできなかったけれど、彼女はそれでも笑って俺の言葉を待ってくれた。優しく微笑んで俺に触れてくれた。
俺の筆おろしをしてくれたのも、彼女だった。
 豆電球だけつけた部屋の中。ぼんやりと闇の中で見える白っぽい足を撫でた。
スカートのチャックをずらし、現れた白い肌の素足に目が奪われる。内腿を滑らせるように、彼女を下着の上からたどたどしく触れてみる。知識のない俺は、痛がられるのを恐れ、優しく丁寧に彼女の体に触れ、反応を見ながら恐る恐る下着をずらした。
内臓だって思った。思ったより生々しく、それなのに自分の息が上がっているのがみっともなくて惨めに思った。
カッターシャツのボタンを一つ一つ外していくたびに、知らなかった女性の肌があらわになって、肌から甘くくらくらするような匂いが脳に焼き付いて、気が遠くなりそうだった。
違和感がよぎる。彼女は平気そうな表情をして、俺の手を自分の胸にもっていく。
「触って」
 彼女は慣れているのかもしれない。女性がこんな簡単に自分の体を触らせると思っていなかった。触れた肌はなめらかで温かい。女の匂い。その瞬間、母親はこんな感じなのかと切なくなる。
 彼女の胸の先端に触れた瞬間、嬌声が部屋に響いた。
「……なめていいよ」
 欲に浮かされた目をした彼女が嬉しそうに微笑んで言葉にする。
白い肌に咲く、薄桃色の突起を何度も指で軽くひっかいては、舌でなぶって吸い付いた。これが正解なのか、それとも間違いなのかわからず、何の知識もない俺は夢中になって彼女の体に触れる。
カーブを描く胸のふくらみを下から掬い上げるように柔さを味わう。
細い腰にキスを落とし、彼女の穴を探るように指をいれては突き上げる。甘い嬌声が苦しそうで、けれどその苦しそうな声が余計に下半身にくる。
彼女が下着を少しずつずらして、脱ぎすてた。
彼女の裸を見て、血が沸きだって思わず目をそらす。ひどい罪悪感と後ろめたさの後からついてくる劣情に嫌悪した。それなのに彼女は恥じらいもなく、その素肌を晒す。下着に透明な糸が引いているのを見て、不安が少し和らいだ気がした。
彼女はその美しい体を晒しながら、俺の近くに座ると、少し流し目で遠くを見るように考え込んだ。
「初めて?」
 鈍器で頭を殴られた気がした。
「うん……」
 恥ずかしさで俯いていると、彼女は少しうれしそうに頬を赤らめて、俺の下着に手をかけた。みっともなく立ち上がった性器に思わず謝る。
「う……っ、ごめん」
彼女は優しい指使いでそっと撫でるように性器に触れて先端にキスをした。腹の奥がぞくっとした。火が付いたようにじわじわと劣情が抑えきれなくなる。頬が腫れるみたいに熱く痛みが走る。思わず快感のため息が出た。
「私が、初めての女なんだ」
 舌を這わすその彼女のぬめった温かな感触に思わず、声を上げる。予想以上に口の中は柔らかく、慣れたように舌を動かす彼女に少し先端を吸われ、呻いた。
脳が性器にのっとられる。こみあげる感覚にたまらなくなって彼女の頭をつかむ。乱暴に彼女の喉奥に先端を押し付けて揺さぶった。衝動というよりも本能に近かった。
 彼女が涙目で苦しそうに息を上げる。その温かな息さえも下半身に余計に熱をもたらすだけで、どうしていいかわからなくて意識が飛びそうになる。
肌を裂く容赦のない冷たい空気に、あえぐ息だけが白く溶ける。
 それは体温が混ざるような生暖かい性交などではない。わずかな熱を奪いあわなければ死に至るとでもいうような、乱暴で粗悪な性の交わしだった。漏れ出した声にもならない吐息に似合わず、彼女の眼光だけが深々と俺を串刺しにする。
指を這わせただけで血の線を作る鋭利さが彼女にはあった。見据えるだけで相手をひるませるだけの、威嚇にも似た防衛本能。
彼女との交わりで絶えず感じるのは、自分がひたすらに卑劣な悪漢だということ。
快楽に狂った自分は、まるで酔っぱらいの嘔吐物さえためらいなく漁るドブネズミ。彼女の吐しゃ物さえ喜んで食らいつくすほどの飢餓に襲われている。
痛感するたびに惨めさが襲い、情がゆえに死にたくなる。自分を軽蔑するのは、自傷かもしれない。無駄に膨れ上がった自尊心が、ズタズタに切り裂かれ、彼女を好きになればなるほどに自分に反吐が出た。
彼女の白いなだらかな陶器の肌に舌を這わせ、この世で一番醜悪な表情で言葉にするのだ。
「ねぇ、気持ちいい?」
白いシーツに横たわる彼女の肢体は、シミ一つなくなめらかで少し冷たい。
舌が鋭敏に感じ取る、肌のしょっぱさと自分からしみだす、えげつない欲の味。
肌から香る女特有の甘酸っぱい色香に惑わされ、頭がくらくらと回っている。このまま、意思もない傷つく心も持たない生きる屍と化したい。
波打つ肌色の海に応えるように、にやりと表情を崩す。きっとセックスが好きなんだ。
女を組み敷く優越感と満たされる支配欲が好きだった。全能の神様になった、そんな気にさせる。
けれど、欲が増せば増すほど、無遠慮に彼女を犯す悪漢だと錯覚し、死にたくなる。
精を吐き出し、互いに冷静になると我に返って急に嫌悪が強まり、吐きそうだった。
体から染み出す彼女の匂いに先ほどまで恍惚としていたのに、頭の端がつんと冷たくなって離れる。
 甘ったるい匂いが気持ち悪くなって服を着ながら聞いてみる。
「香水、つけてる?」
「いい匂いって思ってほしくて」
 真っ赤になりながらうつむいた彼女に罪悪感を抱きながら、その柔い唇にそっと自分の唇を合わせた。今感じた嫌悪を隠すように。
 誰かと抱きしめあいながら眠ったのは、その日が初めてで俺は彼女が眠ってから声も上げずに泣いた。
 誰かのぬくもりに涙が止まらず、体温を離すことができないで夜をこえた。
 ケイさんが言っていた恋愛について、これがそうなのかとおどおどと怯えながら確かめて理解した気になっていた。
幼い頃から傷ばかり増える心に、初めてひとときの幸福を知る。味を占めてしまったのだ。包まれる感覚と、優しい誰かを支配した錯覚が、この世で生まれて初めての幸福だと信じた。
けれど、信じた彼女は俺とのセックスを、他人に吹聴していた。自分と彼女だけの秘密を暴露されてしまい、頭に血が上って怒鳴った。
「別に普通のことなのに。女々しい。女の子みたい」
 そういわれて、優しい人だと思っていたのに、酷く裏切られたと怒りが収まらなくなって彼女と別れた。
しわがれた声で納得させるよう「そんなものだ」と言い聞かせる。帰宅途中の薄暗い曇り空を眺めて、きっと誰と関わってもそんなものだ。
 人間関係なんてどこかしら、空しいものだ。真っ当で満たされる関係なんてない。だってそうでなければ、こんなに人間が真っ当な愛を求めたりしない。
 降り出した雨粒を吸って服が重い。髪から垂れる雨粒が自分の代わりに泣いてくれてる。俺はもう泣きたくなかった。キリがないから、泣きたくなかった。

 濡れた服を着替えることもしないで、体を床に横たわらせた。冷たい床に水滴が落ちる。身震いして自分を抱きしめる。悲しさを演出する秒針の音しかしない部屋の中で、スマホを握って電源を付けようとしては、何度もやめる。
電話帳にはそれなりに登録した電話番号がある。けれど、こんな自分の話を話せるだけの気安い友人はいない。憂鬱さがぶよぶよの膜を作って体を覆っていくようだ。一人ぼっちなのは、幸せなことだと思っていた。父が憎く、安全な場所が欲しかったのに、今どうしようもなく寂しい。
心が砂でできた城のように、簡単に壊されてしまった。
誰かにすがりたかった。愛したかった。それが許される環境にいても、自分はそれにどん欲に手を伸ばすことができない。低空に居座る秒針の音を遮りたくて、嗚咽を吐いて泣いた。 スマホの電源を入れてSNSをダウンロードした。
泣きながら、ワード検索をする。
「助けて」
 たくさんのSNSの中の「助けて」を読んでいった。結婚したが、配偶者のDVで苦しんでいる人、友人に借金を背負わされた人、ホストに貢がされて体を売ってまで愛を求める人。 
いろんな経験や体験談の中には完全に心を壊してしまった人間たちの悲痛な叫びと異常な孤独が混じり合っていた。ふいに訪れるのは彼らから滲み出る恨み、つらみ。
 誰かが傷ついて誰かが非難されれば、それで心が癒されると信じて疑わないそんな強烈な加虐の心。知っている。それは確かにあの時、俺が父に感じた感情だった。
あの時の自分は、己を汚物のように感じていた。誰かを殺したいほど恨まずにはいられないほどの憎悪を、悲しみを。愛されたかった無念の矛先を知りもしない人に向けるなんて。
なんてさもしいのだろうと、思っていたのだ。
感情を外側から見つめれば何ともない。ただの逆恨みでしかない。けれど、それはまぎれもなく真実で。
辟易とするほど、SNSは悪意であふれていた。
 紡がれる悲壮な叫びを見るたび、こんな卑劣な感情を抱くのは、自分だけではなかったのだと。無数に広がる悪意と悲しみの海に沈んでいけば、少しの慰めになった。これが人間なのかと見くびれば、自分もまた下劣な自分を認められる気がした。
この歌詞の曲が自分の心情を歌っていると言われれば、その投稿のURLを押して曲を聴く。
 あるアーティストのある曲のある歌詞。
「生きていくには金が足りねぇ、この痛みに耐えるための錠剤にさえも」
 流れていく薄暗い曲の歌詞に、なぜだか父親が浴びるように飲んでいたアルコールの匂いばかりを思い出していた。あれも一種の鎮痛剤だったのだろう。そう思えば思うほど、あの頃の父に対して同情とじわっと広がるような悪心を感じて、嗚咽を吐きながら泣いた。
スワイプを続けていけば、無数にある投稿。ふとスマホを動かす指を止める。
「心の傷は癒されることはないんだって。忘れることはできても。消えることはないんだって」
 彼女の投稿はそれだけで、ほかには何もなかった。投稿時間は九分前。青みのある光を放つ、スマホの明かりに目を細くしながら、俺は指を動かした。
「こんな返答、求めてないかもしれないけど。俺も、心の傷がふさがらないです」
 それから返答があるまでそんなに時間がかからなかった。
「コメントがあるなんて思いませんでした。よければ、DMで話しませんか?」
 それからだ。彼女とDMでやりとりするようになったのは。
 俺は彼女に自分の生い立ちを話すことはなかった。ただ暴力を受けてから人を信じることができなくなった。とだけ話した。
 彼女は正直な人で「どうして素性も知らない俺と話してみようかと思ったんですか?」と聞くと「友人や家族に心の話をしたくなかった」と言って自分がいじめにあっていたことを話してくれた。
彼女も詳しくは話さず、ただ卒業するまで自分が黙っていれば、耐えていれば、きっと全部うまくいくと信じていた。
彼女は、学校ですべての人間に無視をされ、先生すら自分を避けていると話す。家でさえ気丈に振舞っていなければならない。心の置き場がないのだという。
逃げ道を絶たれ、地獄にいる彼女を不憫に思った。
「道路の真ん中で懸命に車をよけて歩道までふらふらと向かっているみたい」だと話す彼女。
その表現になんとなく自分を重ねていた。
彼女の話を聞くほど、前向きで自己犠牲的で、他人優先なところが鼻についた。私が悪いの、私が、私が。全部自分が悪いとばかりしかいわない。
自己犠牲の棘は自分にしか切っ先を向かない。偽善者だと思ったのだ。人は人に傷つけられると他人を恨む。他人を嫌う。本音では嫌いなんでしょう? なんて無神経なことも何度も聞いた。
けれど彼女は言うのだ。
「自分以外が悪いのなら、その人が正してくれない限り私は苦しめられる。私が悪い方が都合いいの。私が悪いなら私が直せば済む話だから」
送られてくるDMたちをみて、ああ、かわいそうな人だな。そうやって一生自分に棘を向け続けるんだと心底、軽蔑し、憐れんだ。
 彼女は鏡。誰にも心の内を話せない俺に似て、可哀そうだった。
ケイさんにもネットの人と会うなと言われていたし、自分も得体のしれない存在に利用されるのはまっぴらだった。けれどもし、彼女に会って話をして、信頼関係を築くことができたのなら、まっとうな関係を築けたとするなら。
 それは幸せで、心を満たせることなのかもしれないとぼんやりと思った。

 その日の彼女のDMはどこか変だった。
「助けて。お願い助けて」
 そればかりを連続して送ってきて、「どうした?」と聞き返しても「わからない。どうしていいかわからない」としか言わなかった。
 なんとなく、ああ、この子はもう駄目なんだな。そんなあきらめにも似た実感があった。何があったかはわからなかったけれど、もう限界を迎えてしまったんだなって。
「今、どこにいる?」
 気が付いたらそう、送っていた。
「追田市の警察前のコンビニ」
 それを見て、俺は顔も知らない彼女を探しに玄関を開けた。外は雨。湿った秋の空気で少し寒かった。
 透明なビニール傘を開くと、俺は小走りで向かう。県外だったらどうするつもりだったのだろう。でも違った。彼女は隣町の人間だった。だから余計会いたくなった。
 会って話をしたくなった。どうしたのか、何がつらいのか、俺にどうしてほしいのか、そうやって、俺がしてほしかったことを彼女にしてあげたかった。それは彼女自身を救いたいというより、過去の自分に手を差し伸べる行為だった。
雨に濡れた木の葉が重さに耐えきれず、幾度も幾度もしずくを落とし、ぼたぼたと傘と衝突を繰り返す。
 向かう途中、なぜだかパトカーの音がやけにあたりを騒がせていた。
 上下する肺を必死に整えながら、コンビニにはいる。イートインコーナーにいるらしい彼女を探す。
長髪の白いパーカーを着た女の子が、瞼(まぶた)を真っ赤に腫らしながら泣いているのが目に入った。透明な雫が何粒もあふれて止まらない。赤い頬は腫らしたような痛々しい色をして、部屋着のまま飛び出したような格好の彼女はこちらに振り返った。
彼女の顔を見た瞬間、頭のてっぺんからつま先までビリビリと電流が走ったようだった。
「……ごめ、……んなさい」
 息も絶え絶えで、涙はあとからあとからあふれて止まらないほど泣いているのに、それでも彼女は俺に謝っていた。
「なんで、謝るの?」
「わざわざ、きてもらったから」
 鼻はぐずぐずでしゃくりあげるその姿、目が涙できらきらしていた。色白なせいだろう、腫れたぼったい頬の赤さが目立つ。
「待ってて」
 俺はそれだけ言うと、そのままコンビニで冷えたお茶を買い、彼女のほほに押し当てた。
「行くとこないなら、とりあえずうちにおいで」
 彼女は肯定も否定も何一つ示さなかったけれど、黙って俺についてきた。狭いビニール傘を彼女のほうに傾けながら歩いた。肩が濡れ、雨ざらしになるけれど、なぜだか悪い気はしなかった。
彼女は頼りなく俺に抱き着いてきた。それが過去の幼い自分に見えたのだ。あの時助けられなかった子供の自分に。
 そうやって家についてから、彼女の少し濡れた髪をタオルで拭いていた。
「なんで?」
「なにが?」
雨水を含む髪が乾きやすいように、エアコンをつけ毛布を掛けてあげると彼女はこちらをにらんでいう。
「なんで優しくしてくれるんですか?」
「……」
 俺はその理由を言うと傷つけてしまう気がして黙ることしかできない。
「雪に優しくしちゃ、ダメなの?」
 彼女の本当の名前は知らない。アカウント名は雪と名乗っていた。雪は震えて歯鳴りを響かせるだけ。外は雨で、日も暮れて夜になる。
「暗くなってきた。……ご両親は心配しないの?」
 その言葉を口にしてからはっとする。自分にはそんな両親は存在しないのに、何を知ったかぶりしてるのか。そんな自分が少し恥ずかしくなり、顔を見られないよう俯いて隠す。
「心配してくれるのはお兄ちゃんだけだった」
 雪がそういってひどい恥をかいたように俯いたのを見た。
「おなじだ」
 雪は赤くなった顔を上げる。
「俺も心配してくれる人……いない」
 親近感は心の壁を崩すようで、彼女は少しずつ言葉を話すようになった。それは他愛のない一言だけの返事だったけれど、それが少しずつ増えていくことに安どしていた。
「帰りたくなったら帰ればいいよ。しばらくここにいればいい」
布団にくるまりながら二人で窓の外の雨を見つめる。
長い沈黙のあと、雪がぽつりぽつりと話し出す。
「ねぇ、京さん。あなたの本当の名前はなんていうの?」
「皆月恭一。雪、君は本名何て名前なの?」
「私は雪のままだよ。神崎 雪」
 彼女の雨を見る目は少し寂しそうで、今にも壊れそうで、それでもひたむきに優しさを求める強いまなざしをしている。
強烈に惹かれるのだ。
愛情や優しさをなんの疑いもなく求められるその無鉄砲などん欲さに。
その日、俺は家族に愛されなかった自分のことを、初めて誰かに話した。父親に暴力を受けて悲しかったことを。詳しくは話さないけれど、それでも一言でもつらかったんだと言葉にすると、涙が出た。今まで情けなくて人前で泣けなかったのに、不思議と呼吸するように泣けた。
 だくだくと流れる涙を彼女は少しおかしそうに舐める。湿った舌の感触がくすぐったくて、少し鼻で笑う。
 外の明かり以外何も見えないから、俺たちは触れることに抵抗がなかった。まるで自分に触れるように拒絶も怖さもなかった。
互いに求めあった。狭い繭の中で寄り添ってドロドロに溶けて、成虫になることもしないで死んでしまいたい。
悲しいことを忘れるようにお互い、悲しく微笑んでは涙を流した。慰め、共感し、悲観して、見つめあって縋るように抱きしめる行為に許された気がした。
彼女のとのセックスは、何も怖くなかった。寂しさを埋めるように、優しい肌の匂いを嗅いだ。
どうすれば、高尚で美しいだけの愛になるのかわからない。きれいなだけの愛じゃないと、自分は父のように欲のままに誰かを傷つけるかもしれない。
愛ならいいのに。彼女に抱く感情全てが美しく穢れの知らない優しいだけの、愛ならいいのに。
嗚咽を吐きながら俺は口をつきそうになる度、唇を強く噛み、涙を落とす。とても口にできない。違ったら、もし父のように雪に暴力をふるったら。
もうそれが恐怖でしかない。
暗闇の中に映る彼女の赤らんだ頬を優しくなでて、彼女に涙を落とす。その涙の一雫さえ、あの父と同じ血を濾して作られたと思うだけで、罪悪感が首を絞める。
「ごめん、ごめん……」
 何に対して謝っているかわからない。わからないのに、初めて生きててごめんなさいと心から謝罪した。
 そんな様子を見た彼女はそっと俺の頬に触れて、こんな俺を求めるように口にする。
「愛してるって、……言って」
言いたかったその言葉に鍵をかけて、何度も口をつきそうになるたび殺した言葉を許される。たったそれだけのことなのに、呼吸もできない海の中から引き上げられたみたいに、堰を切ってあふれ出した。
「……愛してる」
 かすれた声を絞り出して、やっとのこと言葉にできた。
それが彼女に届いた瞬間。
表情はやわらいで微笑む雪はきれいだった。
「嘘でもいいの。お願い、もっと言って」
 彼女の真摯なまなざしを見つめたくなくて、目を閉じた。あの表情を見た瞬間から、恋焦がれていた。彼女を好きな気持ちは嘘なんかじゃない。
でも愛に理由をつけないと言葉にしてはいけない気がして、言葉にできなかった。何度も彼女の頬を撫でて、顔にキスを落とす。唇に、頬に、体に。優しい肌の匂いを自分と混ぜるように。雪と同化していつか自分が消えて雪の一部になればいい。自分なんか消えてくれればいい。
 涙声が部屋に響く。
「ごめんね。ごめん。……ごめん」
 いう度、惨めで涙が彼女の肢体に落ちてくすぐったいのか身をよじる。
「愛してる」を言うたび彼女は、とけていく。やわらかい表情に。
 彼女が何か話そうとするたび、キスで塞いだ。無遠慮に舌を突っ込んで言葉を奪う。細い指を絡めて動かないように、拒否できないように。彼女からの言葉は何一つ聞きたくない。
 粘膜と粘膜をこすり合わせて精を吐き出した頃には、数時間がたっていた。荒い息を吐く雪を後ろから抱きしめる。拘束するみたいに。
願うのはただ、この一瞬ができるだけ遅く過ぎ去ってくれることばかり。
秒針の音しか聞こえない静寂の中、布団の中で後ろ向きの雪を抱きしめる。彼女の息遣いを耳で聞きながら、彼女の熱を感じていた。
俺より少し低めの体温、なめらかな肌の感覚、甘いような心安らぐ女性の匂いに安堵していた。腕の中の雪が振り向きもせず聞く。
「皆月くんはなんで泣いてたの?」
「えっ……」
「なんで泣くの?」
「……」
 いつもこうだ。言語化できない。何を言えば満足するのか、他人の都合のいい言葉ばかりが先走り、本当の理由まで言葉が届かない。
「あの、えっと……」
 言葉に迷う度、彼女は助け舟を出す。彼女は身をよじって布団の中で俺を抱きしめる。
「好きって言って」
 許可されないと言えない。強制されないと言えない。
どうしてそうなってしまったかなんて、言われなくてもわかってる。嫌われたくない、ただそれだけ。
情けないほどに言えない。愛情の表現なんて、「好き」「愛してる」なんて、言われたこともない自分にとって、嘘になってしまわないか怖いんだ。
理解もできていない感情を、知ったかぶりして。もし違ったらと思うと、恐怖でしかないのだ。
彼女に想いが言えない。そんな生活を延々と繰り返していた。
「ねぇ、俺たちって付き合ってるの?」
「好きでもないのにこんなことしない」
 彼女の体をなぞってすべるシーツが足元に落ちる。なだらかな曲線(きょくせん)を描く体の美しさに生唾を飲み込んだ。彼女の狐目が美しい。美人よりの顔立ち、吐く息すら白くかすんで幻覚を見ている気分になる。
彼女の清潔な匂いは、空間に漂い、儚く消える。
 白くなだらかな背中は小さい傷が多い。だから余計、噛みついて汚したくなる。そうやって彼女というキャンバスを傷物にしたい。そうすれば、誰も彼女を欲しがらなくなって、誰も俺からとったりしない。独占欲の言い訳みたいに浮かんだ「愛してる」が、みすぼらしくて、どうしようもなく恥ずかしかった。そういうのは嫌われる。そうやって飲み込んだ言葉がどれほどあっただろう。だからいつも「は」をつけて言う。
「俺は愛してるよ」
 吹き出すように彼女は笑うのだ。まるで俺をあざ笑うように。
 凍り付く無表情は、美しい瞬間を切り取った写真みたいに、見る側の視線を奪う。
「ねぇ、雪。キスしていい?」
 彼女は少し頬を染めて、悔しそうに俺を見る。
「なんで聞くの?」
「許可はとらないと」
 そうやって彼女の作り物みたいな青ざめた唇に顔を寄せるのだ。湿った柔らかい唇の感触、なぶって何度も感触を確かめる。
好物を食べる瞬間の、刹那の悲しさ。
口に入れて咀嚼し、飲みこんでしまえば、好きでたまらない味わいは消え去ってしまう。彼女とのキスは、それが何度もよぎる。怖くて目すら開けられない。彼女が嫌がってしまえば、途端にまずくなる。
心が欲しい。彼女だけの心が欲しい。そう望んでいても、愛し方も愛され方も俺はわからない。素肌で抱き合う幸せを知ってしまうと、離れがたかった。
 長いキスは夢に酷似して、夢中になればなるほど記憶を掘り返される。
柔らかい唇を軽くはむ。薄く開いた口の中を少しだけ舐める。唾液を怖々舐めとって一瞬だけ満たされる。今が、幸福だと信じたがる。口をついて出そうになる「愛してる」を何度も心の中で殺していく。
彼女を目に映して、飽きるまで眺めていたい欲を、何度も塗りつぶす。嫌われていることが怖くて、開いてしまいそうになるその薄目を見えない糸で縫い付ける。彼女の頭を押さえて、深くなるキスにあえぐ彼女が愛おしくて苦しい。息も整わないまま、いうのだ。
「俺以外としないで」
 彼女は笑うのが下手なだけなのだと知っているのに、まるで嫌われている気がして。不器用に笑った彼女を息もできないほどきつく抱きしめた。
 人を愛すことでこんなにも苦しめられる。みじめで情けない自分を愛されるなんて、苦しいのに幸福な、そのどうしようもなさ。
 
 そんな生活が一年たち、彼女が静かに変化を迎えていた。
ささやかなことでよく笑うようになっていった。俺に向ける眼差しが雪解けを迎えたように、穏やかになっていった。そうして雪の固く閉ざされた蕾は花開いていくように、明るくなっていった。
そんな雪の表情を見る度、後ろめたい罪悪感が付きまとう。彼女がこのままどこか遠くに行ってしまう。そんな恐怖から、ずっと泣いて俺に縋るような生活に戻ってほしいなんて。
人を執着で縛るなんてこと、不健全で関係の破綻に招く。だからしない。しないはずなのに怖くて、終わりを求めたがる。どうしたことか、雪の幸せを願えない自分がいる。
彼女は美しく変化する蝶。変体を繰り返し、醜い芋虫から蛹の中でドロドロと溶けて美しい蝶へと変化する。そんな彼女と対照的に俺は、蛹の中でドロドロに溶けたまま、変わらないことに安堵する。
そうやって誰も傷つけることのない蛹の中、二人で何者にもならない遮断された世界で死んでいたいのだ。
俺は変わらないことを願うのに、彼女だけが変わっていくことが怖い。
花を乾燥させてドライフラワーを作った人間の気持ちがよくわかる。蝶を殺して標本にした人間の気持ちがよくわかる。とどめておきたいのだ。美しい姿のまま、誰かを好きなまま、凍り付いて眠っていてほしい。

「クリスマスにイルミネーション見に出かけない?」
俺は頭をかきながら、頷いた。
空が夜闇に染まり、一番星が見えだす頃あいをみて外に出ると、彼女は寒さで鼻のてっぺんが赤くなっていた。
赤鼻のトナカイというどこかで聞いた話を思い出す。ああ、そうだ。孤児院で見た本だと懐かしくなって少し笑った。
「俺あんまりクリスマスわかんないんだけど、トナカイの鼻が赤いのは知ってる」
 雪は俺の話を聞いて抱いた疑問を投げかける。
「クリスマスのお祝いしなかったの?」
「さぁ、どうだろうね」
 話題を変えたことで雪は黙ってしまい、二人で白い吐息を吐きながら、道路のラインに沿って歩き出す。
「ここの線から落ちたら、地獄行きね」
 子供のようにはしゃぎ、線からはみ出ないように慎重に歩き出す。俺はわざと彼女の後ろを歩き、彼女が勝手に始めたゲームから離脱する。
空がきれいだったから、星を見上げた。
まるで美しい街の光をそのまま空に打ちあげたような夜空。満点の空にキラキラと輝く星々の光。空気に揺らされて瞬くその様は、まるで小さな光の粒のようで。
街明かりのない暗い田舎道でも、星を見れば寂しくはない。純粋でよどみのない漆黒の闇の中で、それは儚く頼りなくとも、確かな篝火だった。
彼女はティンクルティンクルリトルスターと、口ずさんで歌いだす。小さな歌声と白くかすむ息を見ながらきらきら星の歌詞を思い出していた。

きらきらひかる夜空の星よ、まばたきしてはみんなを見てる

 きっとこの歌の作者は、誰にも見向きもされていないから、歌詞に願望を乗せたのかもしれない。言うかもしれないが、幼い自分はそう思っていた。
 どうして歌うのか、どうして何かを作り上げるのか。その疑問に首をもたげて考えてみれば、どうしても動機には寂しさの発散としか浮かぶ答えはなかった。
「ねぇ、雪」
 声をかけてから「なに」を返ってくるまで少し間があった。
「俺、子供の頃。夜空って神様が時間になると、地球に暗幕をかけてるんだって思ってたんだ」
「へぇ。じゃ星は何だと思ってたの?」
「その虫食い穴から漏れた光」
 そういうと彼女は少しおかしそうに噴きだした。
「変なの」
 小さい頃、俺は押し入れに隠れることが多かった。
 押し入れの中で薄い布をかぶって眠ることが多かった。それで寒さがしのげるはずもなく、朝になってその布の虫食い穴から漏れ出す光が星に見えたのだ。
 そうやってきっとそうだ。と想像を膨らませ、学びも教えられもしない本当を知ったかぶりをしている。
 孤児院で物事を教えられ、文字を教えられ、恥をかくたび知識を得ようと本にかじりつく。そうやって空のタンクに満足するまで知識を放り込む。知識欲からではない。ただ恥ずかしかったから。
 変なんだろうな。当たり前のことを、当たり前の感性を、決定され教育される常識を知らないのは。いまだに俺は知ったかぶりをする。まるで自分は虐待やネグレクトにあったこともないようなそぶりを向ける。
 恥も外聞もかなぐり捨てられるほど、俺は自分を捨てきれない。
 俺の手を引いて歩く雪の長い黒髪が揺れる。優しい手のひらのぬくもりを感じる。彼女は優しい。そして俺を否定しない。
初めての彼女とあんなことがあったから、女性が嫌いになっていた。愛情を与えるふりをして、条件のいい男に寄り添って、愛してると求愛する。
自分の私利私欲で、相手の気持ちを汲み取ることもなく、与えられるままに金も情も何もかも得て、何もかもを造作もなく捨てる。汚らしくいやらしいドブネズミ。
なにがドブネズミだ。それはまぎれもなく俺自身じゃないか。彼女に愛されることで、自分は価値のある存在だとすがっていた。自分が許された気になっていた。でもきっとそれは、名前も忘れたあの女と何も変わらないのだ。

 イルミネーションの会場につくと、申し訳ない程度のイルミネーションがあった。ウサギの形の電飾が張り付けられた、なんとも地味なイルミネーション。明らかに電飾が足りず、ぽつぽつと光るアーチ。子供だましもいいところだ。今どきこれじゃ、子供すら見ない。
これは本当にイルミネーションと銘打っていいのかと疑問を抱く。あまりに小規模で残念な気持ちになったし、見に来ている人もまばらだった。
「本当にこんなところでよかったの?」
 俺は心配して聞いてるのに、彼女は嬉しそうに笑うだけ。
「いいの。独り占めしている気になるでしょ?」
 その笑顔が本当にうれしそうで、俺はまた俯いてしまう。嬉しいはずなのに、上手に笑えない。彼女が笑おうとすればするほど、最後の思い出を作ろうとしていると勘ぐってしまう。
 人気のないベンチに腰掛けると、人も少ない会場を見渡し、持ってきたトートバックを探る。
「雪、水筒に温かい紅茶淹れてきた。飲む?」
保温できる水筒を取り出すと、湯気の立つ紅茶をコップに注いだ。
「ありがとう……」
 雪の笑顔は初期にくらべれば、嘘くさくない。表情に真実味を帯びて、本当に幸せそうだ。けれど、お前のお役目は終了しましたと言われるようで、彼女が自分のもとから離れていくことばかりに怯える。
彼女はベンチに座り、イルミネーションそっちのけで、空を見上げている。
「あの砂時計みたいな形の星座の名前、昔お父さんに教えてもらったのに、思い出せないや」
 彼女の指さす方向を見ると、そこには冬の星座のオリオン座が鎮座していた。
「オリオン座だよ」
 トートからブランケットを取り出し、彼女にかける。
「結局、イルミネーション見ないんだな」
 呆れた顔で彼女にマフラーを巻くと、暑がった彼女が「心配性だよ」と俺の手を制止した。
「思ったよりイルミネーションしょぼかったね」
 柔らかな笑顔を見るたび、うれしい反面、頭の奥が心と冷える。お別れのカウントダウンを疑う。幸せが信じられないんだ。心のどこかで、自分が地獄へ落ちるのを神様が笑いながら待っている気さえする。
幸せなんて大それたもの、限られた人間にしか与えられない。お前は偶然与えられ、たまたま壊れずに手元にあっただけだと子供の自分が耳打ちする。
幸せはうれしいのに悲しい。どうせ無くなってしまうんだと、被害妄想だけを信じてしまうから。
「ねぇ、皆月くん」
 彼女が口を開く。彼女のそのまなざしが覚悟を決めたと言わんばかりに緊張していて、俺はただもう圧倒されるばかり、震える体を自分のブランケットに隠してひたすらに抑え込む。
「なに?」
「家に帰ろうと思うの。だから……」
 雪の言葉を遮った。
「別れよう」
口にすることが怖かったことなのに、自分の口からその言葉がでる残酷さに心が痛んだ。泣くのをぐっとこらえる。
 彼女は唇を震わせて大粒の涙を何度も流した。
「えっ、なんで?」
「なんでも、だよ。これから先、雪はいい人ができるから。俺となんかいちゃいけないから」
 涙が流れる彼女の目元を何度も拭う。俺はひどいやつだと思う、泣いている彼女を見て心が満たされているのだから。愛されていると、こんな歪んだ形でしか感じられないのだから。最低で醜いドブネズミだ。
「俺はさ、今まで逃げてきたんだ。いろんなことと向き合えなくて、結局誰かに依存しなきゃ生きていけない。そんな不健全さが、いつか一緒にいる人を傷つけてしまうから」
「嫌。……嫌だよ」
「なんでなんだろうね」
 熱い涙がこぼれた。体の熱を全部、涙にとられたみたいに痛みを感じる。喉の奥が痛くて、まるで薄く切った皮膚から血を流すように涙が出て、何もかも痛い。
きっとこれを悲しいというんだ。けれど「悲しい」の処理の仕方がわからないんだ。どう行動すれば幸せになるか、不幸になるかすらわからない。
頭が悪いんだ。たくさんあるはずの人生の選択を全部取りこぼすことなく、間違い続けて、どうしたらいいかわからないんだ。
ずっと心の中にくすぶっている誰かを傷つけるかもしれない。あんなに憎んだ父と同じことをするかもしれない。愛情を知らないのに、誰かを大事にする自信がない。知っていることしか、暴力しかわからない。立ち向かえるほど、不安を殺せるほど、自分のことを話せるほど、俺は強くなかった。
本当に弱かった。噛み占めた唇から血が出ても、握った右手の爪が食い込んでも。苦しい選択をしてでも、自分をこの恐怖から救いたかった。自分をあんなに傷つけた人間と同じにしたくなかった。
「なんでこんなに怖いんだろうね。大事にできる自信が持てないんだろう」
 俺は決して、雪に触れなかった。
 彼女がぎゅっと俺の服を握って泣き縋っているのに、抱きしめて慰めることもできなかった。しちゃいけないと思っていた。
 煌々と光るイルミネーションの下では、星なんか微かにしか見えない。オリオン座も本当は大して知らない。俺は本当に何も知らない。
 もしも、俺の両親がまともで、愛情を正しく子供につたえることができる人だったなら。もしも彼女とこんな出会い方ではなく、普通に出会えていたのなら。けれど、もしもはもう過ぎ去った。変えたい過去よりも先の未来にいるのに、何をどう悩んだって意味なんかなさない。
「嫌だよ。……嫌」
 泣いているのに手を差し伸べられない自分を呪う。
「誰かを大事にできる人になりたかった」
 それが別れの言葉になった。

 まともになろうとか、人に優しくなろうとか、それはどの程度他人に尽くせば、何をどう優しくすればなんて、そんなマニュアルは存在しない。子供の頃に親にされたことを鏡のようにまねて、そこに愛情が存在するかのようにふるまおうにも、俺は愛がわからない。
 何度も何度も、試行錯誤して距離を置かれ、度が過ぎれば嫌煙され、利用されて、捨てられるのが世の常なので。
 それからの俺がどうなるかなんて明白だ。
 いつの間にか覚えた酒とタバコ。合法ハーブなんかをやっては、この虚しさをごまかす日々。バイトはしていない二十の学生。そして籍を置いているだけで大学にも行っていない。
 毎日、この鬱憤を晴らすために外をふらついては、悪い仲間とつるみ、酒と女におぼれている。
 路地裏で酒に酔い、嘔吐している時に呟いた「ああ、死にたい」が本心なことに気づいて、吐きながら泣いた。
 惨めだって見上げた夜空には、一番星も見えない。オリオン座も見えない。
野良猫が腐った残飯(ざんぱん)を漁り、吐しゃ物にネズミが群がっていた。汚いので、ネズミを踏み潰した。変な鳴き声とねちゃっとした肉の感触が気持ち悪くて、さらにこみあげて胃液を吐く。ゲロみたいな人生だ。
 ネズミのつぶれた死体を見て、涙を流した。
 雪が救われたがる反面、死にたがっていた理由が、その時なんとなくわかった。罪悪感に触れているのだ。雪は自分が気づかなかったから兄が死んだのだと思っていた。
 罪悪感に擦り切れるほど触れて、それで自分が生きることを諦めたいのだ。そうでもしないと、自分を追い詰めないと、死ぬことがままならないほど生に執着してる。惨めで情けない。苦ずっぱい口の中を握っていたワインボトルの赤でゆすぐ。このところ、死ぬことばかり考える。薬が頭に回る時だけ天国にいて、あとはずっと地獄の中をさまよっている。
 見えない洞穴の中を彷徨って、途中でこの先に道はないことを知ったように、目の前は闇に閉ざされている。
 雪の幻覚をよく見る。
 きれいな匂いがした彼女の体を思い出す。きっと今の自分には触れられない。彼女が俺の手で汚くなってしまうから。
純白は簡単にけがれてしまう。一滴の赤い血だけで、濁って色づいて、たったそれだけのことで純白は色を得てしまう。
色を得た白は穢れたことで価値を失い、さまざまな色に混ぜられてだんだんと黒に近づいて見向きもされなくなる。
だから、色を与えられない。どんな苦痛も幸せも、彼女に与えて一緒に汚れてあげられない。
雪は俺の聖域で優しい夢だった。
 そう思うことにして、今日も酒瓶を抱きながら路上で眠るのだ。いまだに心の中でさえ俺はいうことができない。雪に、愛してるを。いうことができないままだ。
 酒に酔いつぶれ、座り込んだ公園でじいさんに出会った。じいさんはベンチで伸びていた俺の隣に座る。
 そしてふいに「お前は今、不幸か?」と聞いた。
 じいさんが俺を見る。切なげに細められる目を見て懐かしくなった。誰かに似ている気がした。思い出せないけれど、酷く懐かしい匂いを脳が覚えていた。
「……わからない」
「幸せになりたいか?」
「……わからない」
 俺は今、なに一つとってもわからないのだ。それがすごく恥ずかしいことも見たいに感じて、目を赤く腫らしてはらはらと涙をこぼす。
「お前は今、わからなくなりたいんだよ。怖いんだよ。自分がどうしたい、こうしたいって理解するのが、すごく怖いんだよ。だからわからないふりをしてるんだ」
 そういわれ、腑に落ちたけれど責められた気がして、俺は震えて前後不覚の意識でも言い返したくなった。それなのに出てきたのは全然違う言葉だ。
「もう、責めないでくれ。許してくれ。……もうわかってるから、怒らないで。お父さん、お父さん。ごめんなさい……」
 顔を抑えて必死になっていた。声が震えて、体の奥が震えて上手に気持ちが言葉になってくれない。
「もう、……俺を許してほしい」
「あのなぁ、恭一。恨んでいいんだぞ。人間は怒っていいんだ。恨んでいいんだ。世界で一番大事な自分を守っていいんだ。誰かの気持ちを優先しなくていい。お前は本当は怒ってよかったんだよ。……俺は、じいちゃんはな。お前が生きててうれしい。うれしいんだ」
 そういった瞬間、この人は母方の祖父だと気づいた。年老いた目元から男泣きの涙が、あふれて止まらない。それを見て気が抜けた。視線が悲しく絡む。だくだくと流れる涙をもう、我慢しなくていいんだ。
 慟哭(どうこく)と崩壊した感情の濁流(だくりゅう)が、俺をぐちゃぐちゃにしていく。
許してほしいとずっと思っていた。怒りたいと思っていた。けれど、自分を守ってあげなくちゃ、自分を助けてあげなくちゃいけなかったから、本当は怒りたいのに、怒れなかった。泣けなかった。
 ああしなきゃ、こうなきゃで、自分の感情を一つ一つ首を絞めて殺し続けた。だから、押し込めた感情が苦しいんだ。本当は悲しいって言いたいんだ。ただ悲しい気持ちを分かってほしい。
俺は叫ぶように泣きながら「どうして」と「ごめんなさい」が口の中で暴れ狂った。疑問なんか持ってない、ただ納得いかない。
 子供を愛すことが当たり前であってほしい願望、自分の望む普通が父親に与えられないことを不満に思っているのに、罪悪感が常に付きまとう。それは求めすぎなんだって、数えきれないほど自分をいさめた。
 でも、本当は全然いさめていなかった。我慢も納得もしない。親に愛されたかって思うことはそんなに悪だろうか。そうじゃないだろう。そうじゃないって、誰かに肯定してほしかった。
「これから先、お前は苦しむだろう。自分を守ろうとする心と恐怖がずっと誰かといる度、付きまとうだろう。だから、俺だけはお前の味方でいる。これは誓いじゃない。事実だ。それが俺の示せる愛情だ。だから、お前はもう一人で苦しまなくていい。俺と一緒に苦しんでくれ。その度俺が何度だって肯定してやる。お前を信じてやる。なぁ、恭一。お前は俺の大事な孫だ。これから先死ぬまで忘れるな。じいちゃんがお前の味方だってことを」
 この人は俺の本当の家族だと本能が理解した。
 その後、俺はケイさんに祖父と一緒に住むことを告げ、苗字が違う祖父のもとで暮らし始めた。
はじめこそはぎこちなかったものの、今ではじいちゃんが好きなスーパーカップバニラを取り合うほどに打ち解けられるようになった。
 大学にも復学し、本屋とアイス屋でバイトを始めた。今までの自分を恥じるように、まっとうな人間のレールに乗ろうとした。バイトを始めたのもその一環で、まじめに仕事を覚えて必死になって働いていた。バイト先の先輩も、にできた後輩もみんないい人で、優しく接してくれて、時々泣きそうになった。けれど、はっとして気づく。
 いいや、違う。これが普通なんだと。現実を生きているはずなのに、夢の中に生きている錯覚がする。俺はまだあの父と暮らした部屋の中で、今がただの夢のではないか。
 もしそうなら、と何度も首をもたげる。自分がこんなに幸せでいいのかと、過去の自分が指をさし、こんなの夢だよと告げるのだ。
 俺はいまだに、幸せになることが怖かった。その度、じいちゃんに話をした。
「幸せになっていいかわからない」と。
じいちゃんは笑わずに頷いて、話すんだ。
「お前、人を殺したことがあるか?」
「……えっ」
「俺はあるよ。戦争でな」
「そんなの……、しょうがないんじゃ……」
 俺は必死になっていうけれど、じいちゃんの悲しそうな顔を見た瞬間、何も。言えなくなった。
「空襲で助からない人を見捨てた。おかあちゃん、おかあちゃんと泣く独りぼっちの子供に手を差し伸べなかった。煤だらけの何もかも燃えた町で、人が焼けた油が浮いて、べたべたする肌をさすりながら自分の命のことだけ考えたんだ。ものが焼ける匂いが今でも苦手だ。人じゃなくなった何かを踏み砕いて、生焼けの肉を踏みつけて、知らない誰かの泣き声に耳を塞いで、生きようとした自分を俺は死ぬまで許せない。でも、お前の言う通り、仕方ないんだよ。仕方ないけど、当事者はそうじゃないだろ? だから当事者じゃない誰かが許すしかない。お前はさ、幸せになっていい。俺もばあちゃんに許してもらった。何度も。何度も。そうやって許しあって生きていくんだよ」
 じいちゃんは目を細めて俺に微笑む。柔和な誰も傷つけない匂いがした。優しいだけの匂いがした。数なんか数えきれないほど、ずっとそうやって許してもらったのだ。
じいちゃんに何かしてあげたかった。だからこそ、じいちゃんの好きなアイス専門店でバイトを始め、バイト帰りにはよくじいちゃんにアイスを買って帰るようになった。
じいちゃんは豪胆(ごうたん)な人で、大きめに丸めたアイスを一口で食べる。それを見ていると、少しおかしくなって笑う。
 たぶん、初めて家族らしい家族だと思える人がじいちゃんだった。
 そうやって、大学三年生になり、俺はじいちゃんの影響で小説を読むようになったのもあり、遅いけれど文芸サークルに入ることになった。
じいちゃんが、青春に青春らしいことをしないと、「早く老けるぞ」とうるさくて、入ったサークルだった。
サークル棟の中庭に座り込んで、トランペットを吹く学生を通り過ぎる。植えられた葉桜の木漏れ日が漏れ入る窓を開けて外を眺めると、授業中で人の少ないサークル棟だけが別世界に思えた。
春風の少し冷めた空気が頬を撫でる。中庭で吹くなんの曲かわからないトランペットのメロディーに少しホッとする。
じいちゃんは昔の文豪が好きだった。太宰治とか芥川龍之介、夏目漱石。
自分よりはるか昔を生きた人間の思うことなんて、わかるもんか。そんなふうに思っていた。けれど、じいちゃんが読む小説の中にみすぼらしい自分に似た誰かが苦悩して生きていた。
そうやって生きた彼らの生きざまを、まざまざと見せられて、俺は指が震えて本が持てないほどに感化された。自分より昔を生きていたはずの人が、まぎれもなく自分と同じだった時。いや、昔とか今とかで括って、俺は周りを拒絶していただけだった。
熱のこもった涙が流れていく。滾るように熱く、まるで傷口を絞って流している血みたいに痛くてたまらなかったのに、なぜだか心が軽くなった。
救われた気がしたのだ。
最初、文芸サークルに入るといった時、じいちゃんは「年より臭いな」と笑ったが、否定することはなかった。心を打つ何かに出会えたのは、いいことだからと。ただそれだけ言って本に目線と落とした。
じいちゃんが読んでいる本は失楽園だったのが少し笑えた。
年の割に元気なじいさんだ。

文芸サークルは人との関わりをあまり重視しないサークルだった。
話しかければ話すし、静かにしたい時は黙々と小説を読んだり、書いたりする。PCのキーボードをカタカタとならし、好きなことにまっすぐな部員たちがいる自由な空気が俺は好きだった。
けれど、全員が全員と顔見知りなわけではない。
だから、そのサークルに彼女がいることを俺は知らなかったのだ。最初は見間違いだと思ったけれど、何度も見返して確信を持つ。半袖のシンプルシャツにキャミソールワンピースを着た雪は、額を汗ばませて文庫本に視線を落としている。
静謐な空気の中、彼女は表情を崩すこともなく、ただ小説に視線を落とす。何を読んでいるのだろうかと小説のタイトルに見る「罪と罰 ドフトエスフスキー」
 そのタイトルにぞくっとした。いつか雪が言っていた言葉が忘れられない。
「死んだら天国に行くっていうけど、自殺したら天国には行けない。お兄ちゃんは天国にはもう、いけないから。お兄ちゃんを止められなかった私も罪人だね」
 その言葉が頭をよぎった瞬間、俺は雪の腕をつかんだ。驚いたような顔の雪が顔を上げる。その瞬間、雪は泣きそうな顔をした。眉間にしわを寄せて縋るような、泣きそうな顔をした雪に、俺自身がなんて残酷なことをしたのかと、震えた。手放したくせに、手放しちゃいけなかった。
「……話したい」
 それだけが精いっぱいの言葉だった。雪は黙ったまま席を立って、俺についてきた。
振り返って眺めた雪は、無表情でニュースでよく見る犯罪者が警察につれていかれるときの、すべて失くした表情をしていた。
死にそうだった。
命を絶ってもおかしくない不幸の匂いがしていた。かび臭くて塩味の強い、つらい人が体から染み出させる、悲しみの匂い。
心の中で彼女に約束させたかった。死なないでくれと、自分で命を絶たないでくれと、約束させた後、消えたかった。けれど、きっとそれは無責任なんだ。
ずっとそばにいて彼女の心を救わないと、それはわがままの押し付けだ。彼女を離したくない。自分のそばに置いておきたい。愛してほしい。でもそれらはおこがましい、彼女の幸せじゃない。
 だって俺はちゃんとした愛のある生活をしてない。
 言い訳のように頭をぐるぐる回転させた。本当は自信がないんだ。誰かを幸せにするなんて大それたことする自信なんてない。
 生きてほしいなんて口が裂けても言えないのに、もしも、本当に口が裂けても言いたかった。
 
サークル棟に併設されているカフェテラスに来ると、カフェラテを二つ頼んで席に着いた。彼女はうつむいまま一言も話さなかった。
「……ごめん」
 一番最初に出た言葉は謝罪だった。彼女の顔をおそるおそる見ると、彼女はまったなしで泣いていた。涙と鼻水を必死に腕で拭いて、赤い目元をさらに赤くさせて、彼女は泣きじゃくりながら恨み言を放つ。
「なんで突き放したの? どうして」
 心底悲しそうに顔をしかめて、はらはらと涙をこぼす彼女の手を上から重ねた。彼女の冷え性な冷たい手の甲が懐かしい。
 彼女は泣きじゃくって、自分を押さえつけるように、きつくこぶしを握っている。爪が食い込んで、血がにじむほどにきつく握られたこぶしをみて、俺は選択肢を間違えたのだと痛感する。
相手の気持ちを慮ることと押し付けることは違う。簡単なことなのに、全然わかっていなかった。不安なら話をすればいい。理由を話し合あえれば、お互い折り合いをつけることができる。譲歩できる。納得だってできる。それなのにどうして、絶対に自分の考えだけが正しいなんて思えたのか。
 俺は深く呼吸をして覚悟してから口を開いた。
「……俺、虐待されて育ったんだ」
 そういうと、彼女は静かになって俺を見た。涙のあふれる目を見て、彼女が俺の話を聞こうとする姿勢を見て、過去の自分がバカだったことを嫌ってほど感じた。
 彼女はいつも、話をしようとしてくれていたのに。
「今まで自分の話をしなかったのは、虐待を受けていた頃、周りの俺を見る目があまりにも迷惑そうだったから。自分のことを話すなんて、選択肢も浮かばなかった。受け入れてもらえることも、想像もしなかった。もしも、俺に手を差し出してくれた大人がいたなら、もしも、誰か優しい大人に辛かったねと抱きしめてもらう経験があったなら。俺は、ここまで頑なにならなかった」
 彼女は目を細めて息を整えている。少し手を伸ばすと、驚いたように雪は身をすくめた。涙をぬぐった俺を見て、少し恥ずかしそうに視線を逸らす。
 大丈夫だ。どうなっても、納得できるならちゃんと前に進める。そう確信して、カフェラテを口につけてから、またゆっくりと話した。
「俺は親や大人から愛情を向けられたことがない。風呂も入れてもらえなかった。食事もみ気まぐれに与えられた。当たり前に与えられる親の情を知らない。笑いたくもないのに媚びへつらい、貪欲に求めなければ生きていくことすらできなかった。だから、今でも、幸せってものがなに一つ分からない。幸せになっていいかすらわからない。だから……、だから、それがずっと……恥ずかしかった」
 みっともなく震える自分の手を、雪はそっと両手で包んだ。見上げると雪は悲痛な表情をして、声を震わせる。
「皆月くんは、いつも。話してくれないから……。いつもいつも、自分のこと話してくれなかったから」
 怒っているのかと思い、口ごもってうつむく。けれど、彼女は思いもよらないことを言う。
「ありがとう」
 思わず、顔を上げると彼女は困ったように笑った。
「あのね。ちゃんと話をしようよ。私の話、皆月くんの話。全部聞いてどうしたいか、話をちゃんとして決めていこうよ」
 そういった彼女は優しく微笑んだ。
「私はずっと皆月くんと一緒にいたいよ」
 そういった雪の優しい声色に、涙があふれた。
 いつも待ってくれないと決めつけていた。自分勝手に他人に求めないことが正解だと思っていたんだ。だから話をするなんて簡単な選択肢を、ずっと見失っていたんだ。落ち着いてから、お互い困ったように笑いあって雪は話してくれた。自殺したお兄さんの話を。
 
 雪の兄、昴は優しい人だったそうだ。
 例えば雪が昴のものを欲しがったりすると、なんでも与えたそうだ。大事なものも、宝物でも、いやな顔一つせず、それが幸せだと言わんばかりに何でも与えた。
 今思えば、昴の行動は異常だった。
 子供なんてわがままで、どんなできた子供でも何もかも欲しがる妹なんて嫌がるし、可愛いと思えないだろう。
 それでも彼はいつも笑顔を絶やさず、雪を守り続けた。両親は放任主義といえば聞こえはいいが、雪の世話一つしなかった。その代わり、昴が全部雪の世話をしていた。
 兄というよりもどちらかといえば、親みたいな存在。きっと互いに共依存のような関係に陥っていたのかもしれない。
 昴は雪の世話することを自分の存在価値として置いていて、雪は昴を助けてくれる唯一の砦だと思っていた。
大人なった雪が思い返してみれば、昴は自己犠牲に酔っていて、自分がどうしたいこうしたいという意志を殺し続けていたように見えたという。
きっと本当はしたいことも多かったと思う。
幼い雪に言葉を教えたのも、毎日の食事を与えたのも、勉強やお風呂、眠るまでの間のすべてを、昴が担っていた。それでも嫌な顔一つしなかった。
昴は執着していた。自分が兄という存在であることにアイデンティティを感じ、それ以外の自分を無価値に思っている。
子供に無関心な両親は異常で、放任主義を通り越して、ネグレクトだったそうだ。食事も作らない、洗濯もしない。顔を合わせても声すらかけない。まるで子供がそこにいないようなそぶりすら見せる。
昴の心を慰めたのも、雪の心を慰めたのも、互いしかいなかった。
その要因もあって、二人は互いの価値に執着していたように思う。昴の献身は雪が年を重ねるごとに強くなっていった。
 そんな関係に少しの違和感を抱きつつも、雪が中学生になった頃の事件があった。
「お前ら兄妹、できてんじゃねぇの」
同級生からのからかいはきっかけだったそうだ。
雪が学校でいじめにあったのだ。最初こそは、持ち物を隠される、無視される、などを軽度ないじめであった。けれど、次第に雪は暴行を受けるようになる。
雪は初めて、人から暴力を受けた。運動部にも武道の心得もなかった雪は、腹を強く蹴られ、初めてその痛みに怯えた。人生で感じたことのない、強い恐怖と激痛。
命にさえかかわるのではないかと思うほどの、暴力。雪は何度かそれで股から血を流した。
「いまだに病院にすら行ってないけど、私。子供産めないと思う」
 彼女はそういってうつむいた。
 服で見えないところに痣が増え、泣きながら謝り続けているうちに彼女は性暴力にもあったそうだ。
 服を脱がされ、体をまさぐられ、恐怖で体が動かなくても、彼らが雪に気を遣うことなどはない。初めて体の中に出されたものを見た時、血の気が引いて思わず嘔吐したそうだ。
集団での行為、それでも雪は昴にそのことを言えなかった。
ストレスで隠れて何度もトイレで嘔吐をしていた。涙を浮かべながら、どうして自分だけがこんな目に合うのかと何度も何度も、自分も周りも呪った。
けれど、それでも昴に言うことはできなかった。優しい昴に対して雪はいつも、引け目を感じていた。これ以上、負担をかけてはいけない。その思いが雪を常に支配していた。だから口が裂けても絶対にいじめのことを昴には言わないと心に決めていた。
 それでもその時は来た。
 いじめっこが雪の家に奇襲をかけた。耳を覆いたくなるような罵詈雑言。雪が暴行(ぼうこう)にあっている写真を郵便ポストにいれられ、何度も玄関ドアをけりつけた。当然そこまでされて、昴がそれに気づかないはずもない。その時の昴の表情を雪は忘れられないという。
 地響きのような低い声で怯えて謝り続ける雪に「大丈夫」と呟き、振り返った兄の表情は無表情だった。声だけいつもの優しいトーンだったのが、余計に恐怖を引き立たせる。まるで体と心が噛み合っていない。
ちぐはぐな昴は玄関をあけて出ていった。手には傘。雨も降っていないのにどうして傘なんて持っているのか。知りたくない答えが頭をよぎったけど、もう考えることを雪は放棄した。昴が放つ殺気だった無表情が、ただ、ただ怖かったから。
 閉められた玄関ドアの向こうから悲鳴が聞こえるのに、座り込んで動けなかった。
雪は廊下のフローリングに顔を付けて、謝り続けていた。いじめ加害者ではなく、兄にずっとごめんなさいと。
昴は傷害事件を起こした。当時、それは結構な騒ぎになり、地方新聞にも載ったらしい。
 傘の先端で被害者の眼球をつぶして、何度も腹部を蹴りつけたそうだ。近所の人が救急車を呼び、ようやく玄関ドアを開けられた雪は、警察に連れていかれる兄を呆然と見た。まるで地面に縫い付けられたように。喉をつぶしたようなくぐもった悲鳴、通行人のつんざくような声と怒号。現実味のないはずなのに、頭が冷たく俯瞰的になっていく意識。来てはいけない異世界に迷い込んだ気分だった。
 テレビを見ているような現実感のなさが自分を包んで、口からはうわ言のように吐息のような声しか出なかった。
 雪は警察に何も言うことができなかった。筆談で説明しようにも、指が震えて文字が書けなかった。罪悪感、自分が行動しなかったせいで、兄が凶行に走ったことも、つぶされた片目に眼帯を付けて、自分を見下すように見たクラスメイトも。
 何もかも現実味がなく、何も自分から発することができなかった。
「お前のせいで」
 クラスメイトに言われた言葉にびくりと体を震わせる。必死に声を上げようとするのに嗄れた声が痰を絡ませて、声まで到達しない雑音になり果てる。
「違う、あなたのせいでしょ。なんで私が悪いの? あなたが私に」
そう言い返したかったのに、涙ばかりが出て何も言えない。けれど、このままにしておけない。雪は被害者のクラスメイトと警察の前で服を脱いだ。今更羞恥などなかった。つけられた残酷な痣だらけな体が晒される。
雪はクラスメイトをにらんだまま、指を刺した。
「違う!」
 クラスメイトは酷く狼狽え、怯えたような目で「こいつが全部悪いんだ」と何度も繰り返すだけだった。
そこからの学年調査からいじめが発覚はしたものの、兄の刑罰が軽くなることはなかった。
 そして昴は拘置所で刑事裁判の判決を待っている間に、室内の洗面所に吊り下げられていたタオルで首をつって亡くなった。それがあの日、俺をコンビニに呼んだ日の出来事だったらしい。兄の自殺は問題になり、ニュースにもなったと後から知った。深く深呼吸をする雪の背中を優しくなぜて、ため息のような言葉を聞いた。
「愛さなければよかったって思ったの。愛さなければ苦しまずに済んだって。幸せだった思い出も、優しい思い出も全部幸せにカテゴライズされるはずなのに、本人が自殺したことで全部、嘘に思えたの。全部真っ黒に塗りつぶされたの。だから、皆月くんが救いだった」
 ぎゅっと握られた手の力強さに顔を上げる。
「私を宝物のように扱ってくれた。私の体は汚いのに。私を触れるときまるで宝物のように触れてくれた。いつも声を震わせて愛してるって言ってくれた。皆月くんにわかる? 私にとってそれがどれほどの救いになったか。優しい皆月くんの行動がどれほど私を殻を壊したか。本当はあの時、一回家に帰って皆月くんとずっと一緒にいられるようにしようって思ってたの。ずっとずっと、これからもずっとに一緒にいたいって思ってたの。知ってた? 私いつも顔をこわばらせて泣かないようにしてたの」
 雪の手は温かく震え、俺はその手を握り返した。
「知らなかった。……ごめん。ごめん……」
 涙が出た。悔しくて唇をかんだ。
愛してるって本当はずっと言いたかった。声を上げて手を握り合って俺たちは泣きあって話をすればよかった。ちゃんと話をして、分かり合おうとすればよかった。それをしようとしなかった己の弱さが憎らしかった。
「ごめん。本当に弱くてごめん」
 雪と久しぶりに抱き合った。誰もいないカフェテラスにトランペットの知らない曲だけが響いていた。

 次の日、俺は大学を休んで昔住んでいた実家に出向いた。
 雪と向き合うと決めてから、ここに一度けじめのために来ようと考えていたのだ。実家はあばら家と化していて、昔よりもひどい荒れようだ。ところどころ屋根は落ちくぼみ、瓦もまばらな廃墟と化していた。インターホンはもはやオブジェと化していて、押しても乾いたプラスチックの粉がパラパラとつくだけで、音などならない。父親の持ち家だったが、この様子だと父親は住んではいないだろう。
 俺はそっと敷地に足を踏み入れた。
 謎の鍋にいつのものかわからないような汚水が入っていて、腐ったそれはほんのりカップラーメンの汁の匂いを漂わせている。
 ぼんやりと昔の記憶がよみがえる。いつも飯は気まぐれに与えられていた。欲しそうな顔をすると、指ほど小さいパンのかけらをまるで鯉にエサをやるように投げ与えられる。情けない、惨めだ、それでも食べなければ生きていけなかった。
「おとうさん、おとうさん」
 聞こえないぐらい小さな声をさらに押し殺し泣いた。愛されたい、愛されればこんな生活しなくて済むのかとずっと思って耐えていた。
母さんは物心つく前に死んだ。死んだ理由を俺は知らない。興味もわかなかった。目の前にいる親は父しかいない。
子供ながらにいない人に縋るような愚か者ではなかった。頼る存在はこの親しかいない。媚びへつらい、なんだってやろうと決意していた。そうすることで、いつか手酷い形で父親を裏切って地獄に落とそう思っていた。
そして絶望しながら死んでほしいと、そんな憎悪を抱いていたんだ。
「お前、誰だ?」
 声をかけられ、振り返るとそこには祖父と同じ年ぐらいのおじいさんが立っていた。
「ここ、おじいさんの家?」
 うつむきながらおじいさんをひたすら見ないようにして問いかけると、そのおじいさんは突然涙を浮かべて俺の足にしがみついてきた。
「ちょっ! なんですか!」
 どう見てもホームレスなその老人を振り払おうと必死にもがいたが「恭一、すまんかった」とその老人が呟いた瞬間、冷たい汗が背中を伝った。
 こいつは、父親だ。 あれから何年経っただろう。大体、五十代ぐらいだが、とても五十代には見えなかった。恐ろしいほどの老いさらばえた姿に俺は生唾を飲み込んだ。言葉が出ない。自分を苦しめた人間の悲惨な末路にざまぁみろと喜んでいるのか、わずかでも憐憫を感じて嘆いているのか、自分でもわからなかった。
 時間が止まったような感覚。汚いものを見るように最大限できる嫌悪感を混ぜながら父親を睨んだのに、父親はにやっと気味悪く笑い、そんな嫌悪感むき出しの俺になど気づきもしなかった。
 ああ、そうだった。昔からこいつは俺なんか見えてないんだと、また頭の中がカッと熱くなる。振り払うように父親を蹴り飛ばした。
「なぁ、お前俺になにしたのか理解して謝ってるのか? そんな簡単な謝罪だけで許してもらえると思ってるのか? なぁ!」
「痛い、痛い」
 その老人は大げさな身振りで痛がるそぶりをみせる。
「親父……生きてて恥ずかしくないか? そんな醜態さらして誰にも見向きもされないで、恥ずかしくないのかよ!」
 腹の底から憎しみが溢れてくる。声が震えて今にも憎悪という嘔吐を吐きそうなほど気持ち悪い。その時、たまらないほどの喜びを感じていた。筋肉質だった父親はもう見る姿すらない。今なら、あの頃できなかったことができる。
あの頃できなかった自分と同じ目に合わせることができる。死んでしまえ、殺してやる、その思考が交互に来て足元に来ては縋りつこうとする父親を、目を見開いてみていた。
「しん……じまえ……」
 絞り出すように出た声が、父の死を望む言葉だった。
「しんじまえ……死んじまえ!」
 涙をボロボロ流しながら、俺は父親に何度も繰り返した。その言葉は決して人に向けてはいけない言葉だと知っていて、俺にその分別はついていると、錯覚していた。
「死んじゃえよ! 俺をボロボロにしてきた分、全部背負って惨めに死んでしまえ!」
 じわじわと自分の足に沁みついた血の跡に気づいて我に返る。言葉だけじゃない、俺は父親を無意識に血が出るほど蹴り飛ばしていた。
「今までどんな苦しい思いをしてきたと思う? お前のせいで! お前のせいで何も信じられなくなったじゃないか! お前のせいで、生きているかわからなくなったじゃないか! 何も! 何も幸せなんか見つけられなくなったじゃないか! どうしてくれるんだよ、お前が家族を大事にしたことがあったか? 家族が火事で死んでだからどうしたんだよ! どうしようもないことで誰かに当たって正当化して、ただの駄々だ! ただの八つ当たりだ! なんでそんなことも気づかないんだよ!」
「ごめん、ごめん、恭一」
 父親の顔面を何度も蹴った。警察も呼ばれなかった。こんなに大声をあげて暴れているのに、誰も見向きもしなかった。
 それがこの人の行為の結果だと思ったら、悲しくて涙が止まらなかった。俺は流血した父親を置いて帰宅した。もう、どうでもよかったから。

 無言で帰宅した俺を見てじいちゃんは察しがついたようで、黙って温かいお茶を出してくれた。
「疲れたろ、風呂はいりなさい」
 それだけ言うとじいちゃんは、部屋から出ていった。
 時計の針が頭にチクチク響く。こんなに時間をゆっくり感じたのはいつ頃だろうか。俺は風呂の追い炊きボタンを押し、しばらくしてから風呂に入った。天井から冷たい水滴が落ちて水面に波紋ができるのを見てから少しこみ上げてしまい、ぐっと唇をかんで我慢してから湯舟に入る。
 足からゆっくりと湯に入ると、じんわりと熱く体が温まるのを感じた。息が、荒くなって顔を何度もこすった。何を感じているかわからないのに、涙が止まらない。きっとこの声は聞こえていると思う。それなのに、風呂場のこだまする嗚咽に気づかないふりをしてくれた。じいちゃんは本当に優しい人だと思った。
風呂から上がると、じいちゃんが「スーパーカップのバニラ買ってきた」と嬉しそうに笑って一緒に食べようと居間に俺を呼んだ。
居間にはこたつとつけっぱなしのテレビがうるさく、アナウンサーが事故のニュースを報道している。耳の遠いじいちゃんのいつもの音量は俺にはうるさい。
こたつに入ると、スーパーカップのふたを開けてスプーンでひとすくいし、口に入れた。甘いバニラの味が口に広がり、その甘さが妙に落ち着く。
じいちゃんは俺がへこむたび、いつもアイスを買ってくれた。だから、アイスを見たまま、じいちゃんに話しかけた。
「……何があったか、聞かないの?」
「大体わかるわ」
 じいちゃんはアイスを美味そうにほおばり、ただ一言こういった。
「お前は優しい子だ」
 アイスに視線を落としていた俺は、はっとして顔をあげる。ふいにじいちゃんと視線が合い、じいちゃんの優しい顔を見た瞬間、それだけのことでまた涙が込み上げた。
「……じいちゃん、俺」
「わかってる。父親とあったんだろ」
 じいちゃんはただアイスを食ってニュースを流していたテレビを消した。
「そんでこんなに傷ついて泣いてる。わかってたがな。お前はちゃんと人を愛せる子だよ。優しい子だ。誰が何と言おうと俺がそういうんだから間違いない。……だからもう、楽になんな」
 そういってじいちゃんは俺が泣き止むまで俺の背中を撫でてくれた。
 泣くのに必死になって、息も絶え絶えになって、ぐちゃぐちゃになって、それでようやく正気に戻ってはっとする。自分の分のアイスがない。
「俺のアイス食ってたの?」
「俺が買ったアイスだからな」
 じいちゃんの口の周りにはアイスのバニラがべったりとついていた。

 その晩、夢を見た。記憶もない母親のおそらく想像の夢だろう。母親はどうしてあの親父と結婚し、俺を産んだのか。母親と優しくもない父親の偽装(ぎそう)した記憶が夢として繰り広げられている。
 穏やかに笑う父親と写真でしか見たことのない母親が、俺の手を引いて公園を歩いている。とても暖かな日差しが、白く世界を霞ませる。
「ねぇ、どうしてお母さんは誰かを愛せたの?」
 幼い俺は何の疑問も持たず問う。木々が揺らめく春の風が母親の髪をなびかせて、顔の見えない母親が屈託もなく微笑む。
 花が咲くような可憐な笑顔でなんもためらいもない答えを出す。
「だって幸せになるために生まれたんだもん」
 声が誰かに似ていた気がした。
 鳥のさえずりが聞こえ、目が覚める。あの夢と同じようにカーテンから漏れる日の光が白く部屋を霞ませ、現実か夢が曖昧にさせる。
 呆けていた頭が、ふいに鼓動が激しく打っているのに気づく。顔に熱がたまるように頬を火照らせ、目頭が熱く零れ落ちた涙があまりに熱くて目から血が流れているのかと思った。
 声をくぐもらせ必死に泣いた。
 何故か母親が告げる言葉がたった一つ、自分が心から欲しかった言葉に思えて涙が止まらず声を必死に殺して泣いた。絶望も悲しみもない。ただあるのは、自分はちゃんと人を愛せる人間だという安堵だった。
 涙が枯れてから深呼吸して吸い込んだ空気はやけに冷たく、新鮮に感じた。
 歯を磨いて顔を洗って風呂場でシャワーを浴びて、大学に向かう。
 太陽の光を速さで遮るような電車の中、窓から漏れる光を見ていた。どこか牢屋の中にいたように、明かりに安堵している。冷たい床しか知らなかったように、日差しのぬくもりに感動している自分がいる。
 輝くような太陽は照りついて、肌を焼くようにぬくもりを伝えてくれる。日差しの中で、雪ばかりを想っていた。
 悲しそうに笑う彼女が不憫で仕方なく、愛おしくて狂おしい。
 人を愛したことがない人間が、誰かを愛そうなんておかしいのかもしれない。でももしかしたらそんな自分が変われるかもしれない。そんな期待が炙るようにじわじわ焦げ付かせるようだった。
 できるならその人に幸せでいて欲しいと思うのは、愛情なのか。
 押し付けがましいその感情を、愛と呼んでもいいのか。それを誰が決め、誰が定め、誰が突き通すというのか。
 きっと俺は誰かに指示されたわけでもない選択肢が怖いんだ。責任転嫁できない、自分で選んだ道を歩くのが怖くてたまらないんだ。
 けれど、少しずつそんな不安定さの中を生きなくてはいけない。そうでなければ、何もかも自分で選べなくなってしまう。
 握りしめた指が合わさって皮膚に食い込む。
 自分が誰のせいにもしない人生を歩く決意がついた瞬間だったのかもしれない。
 それから、雪と俺は付き合い始めた。
 同じ文芸サークルで本を読み、作品を書いたりしているのが楽しく、穏やかな時間だった。お互いデートというものをしたことがなかったので、女性雑誌をこっそり購入して、一般的なデートが何か調べた。
 遊園地、水族館、映画、いろんなプランが書いてあり、おしゃれなレストランでディナーと書いてあるのを見て、顔を見合わせて笑った。
「合わないね。こんなの! 緊張して味がしなさそう」
「だな」
 そんな時間さえも愛おしく、大事だった。
 将来は何をしてどうするという話も、大学三年ということもあり、話したこともある。雪は図書館司書になりたいと話し、俺は漠然と本に携わる仕事をしたいと思うようになった。きっとじいちゃんの影響だと思う。
 古い本から最近の本まで、じいちゃんの書斎(しょさい)には本がたくさんあった。どれもほこりをかぶっているけれど、心打たれる作品であふれていて、古い紙の匂いのする書斎はあまりにも魅力的に見えた。窓から差し込む光に埃が照らされる。その明暗がはっきりと分かれる書斎の薄暗がりはとても俺には心地よかった。
「目ぇ悪くなんぞ」
 そう何度も注意されたけれど、じいちゃんも同じみたいで書斎に集まってずっと本を読んでいた。
 じいちゃんであってから書店員のバイトを始めて、思ったことがある。時にはひどいお客様もいるけれど、俺は本を売る仕事につきたいと漠然と思っていた。
 バイト先の店長に、就活で悩んでいるとぼやいたことをきっかけに、店長から正社員にならないかと話があり、俺は二つ返事で了承した。
 人生が好転し始める度、俺はまた何かのきっかけで不幸になるのではないかと不安をこぼすようになっていた。今が揺らぐことないほどに幸せだと確信するたび、何かあってまた不幸に叩き落されるのではないかと、底のない不安という穴に落ちていく。
 その度、雪が「大丈夫」となだめてくれた。なんで大丈夫なんだって言いたくもなったけれど、雪は何度も「不幸にはさせない。大丈夫だよ」となだめてくれるたび、心の中のわだかまりが解けていく気がした。

 そんな大学三年のクリスマスに、雪と夜景を見に行った。クリスマスらしいことをしてみたいというミーハーな性格の俺たちが、背伸びしない程度に頑張った結果が、夜景だった。
 車を借りて山奥まで来ると、都心よりは寒いらしく身震いが止まらなかった。
「早く、見て帰ろう」
 なんて青ざめた顔で雪が言うので、俺は用意していた水筒から熱いミルクティーをコップに注いで、ハーフケットを雪に巻いた。
 雪は少しほっとしたように展望台の近くのベンチに座る。
「夜景なんて初めて見た」
 呟いた声を震わせて、俺は手袋を取り出してはめて雪を抱きしめて暖をとる。
 よく夜景を宝石箱をひっくり返したって比喩することがあるけれど、俺には星空に見えた。彼女は感嘆のため息を吐きながら、口にした。
「あの時見たオリオン座を思い出すね」
 俺はそういった彼女の憂鬱そうな目が悲しくなり、雪から離れると箱を取り出した。別ベットの黒い箱にはペアリングが入っている。
 宝石の一つもついていないペアリングは、シルバーとピンクゴールドの同じデザインのもので、俺は彼女の手を取ると彼女の薬指にはめた。
「……いつ指のサイズなんか……」
 彼女は驚いて指輪をまじまじと見ている。
「こたつで寝てる時彼女」
 そういうとはおかしそうに笑って言った。
「幸せになっていいのかな」
 たまに彼女自身も口にすることだ。俺だってたまに思う。けれど、なぜだろう。雪にはたいしてははっきりと言えてしまう。幸せを願ってしまう。
 そういう気持ちを愛というのだろうか。だったら、最初から彼女には愛しか持っていない。初めて会った時から、恋よりも愛しか抱いていない。
「いいよ。幸せじゃないと許さない」
「なんでよ」
 彼女は恥ずかしさをごまかしながらつんけんと聞く。
「……愛してるから」
 気温は零度を切って寒いというのに、冷や汗が溢れるほど出ていた。恥ずかしさよりも何よりも、俺は彼女に愛してるというのが苦しかった。気持ちが溢れてこぼれそうになるから、苦しくてちゃんと言えない。
それを見て雪はおかしそうに、お腹を抱えて笑う。
「恭一くん」
 不意に呼ばれて顔を上げると、彼女は俺にマフラーを巻いた。
「愛してる」
 そう鼻を赤くして言う彼女の笑顔にまた泣きそうになる。俺は彼女抱きしめて、押し殺すような声で呟く。
「ずっと一緒にいて」
 小さい声で呟いたのに、彼女は気づいてくれて「うん」と小さくうなずいた。
 
時折、じいちゃんが母との思い出を語るようになった。それはいつも決まって天気のいい日に、何も植えていない花壇を見ながら。
「お前のお母ちゃんは陽だまりのような子だった」と。
 母は天性の明るさを持った優しい子だったらしい。周りにいる人間を自然と笑顔にさせて、幸福をばら撒いては自信も幸せになっていく、そういう人物だったと。
死んだ人間を美化しすぎだと思う。それでもそれに近しい人間だったのだとは思う。そうでなければ、あの根暗で暴力な父が母の生前は大人しくいい親父だったという話が信じられないからだ。
親父は好青年で、じいちゃんは「いい男を捕まえた」と母をほめたというエピソードまで聞いた。俄かには信じられなかった。
 じいちゃんが出してきた母の写真を見る。きれいな人だった。
「お前、付き合ってる女、いるんだろ」
 ふいにそんなことを言われたものだから、俺は焦って「女性って言って」と訂正を促す。
「一度、会わせてくれんか」
 普段笑わないじいちゃんが、真顔でそういうものだから、雪にお願いして祖父に会ってもらうことになった。
 雪は有名な和菓子のお店で適当な和菓子を買い、手土産に持ってきた。じいちゃんはそれをおいしそうに全部食った。それも孫とその彼女の分まで。
 雪は笑い、俺も苦笑いした。
「雪さんって言ったかな? こいつ、結構情けない奴だけど、どこがよかったんかな?」
「じいちゃん!」
 雪は照れて顔を真っ赤にしながら「優しいところ……です」とだけ言った。
「いいか、雪さん。いいところがない奴ほど建前で優しいところっていうんだよ、孫は本当に優しい奴なのかい?」なんてじいちゃんは意地悪を言ったが、雪は笑わずに。
「おじいさんはわかってるでしょ? 恭一くんは優しいって」
 そういった瞬間、じいちゃんは大きな声で笑った。
「ははっ! いい嫁になるよ。雪さん。この子をお願いします」
 その時どうして、じいちゃんが雪を呼んだのか、俺にどうして母の話をしたのか、薄々感じ取っていた。
 本当にどうなるかなんて、未来予知ができるわけではないから確信はなかったけれど。
「じいちゃん。アイスも買ってきたから後で食べなよ」
 じいちゃんは幸せそうに笑って、冷蔵庫をさっそく漁っていた。

 大学を卒業することになって、じいちゃんが脳梗塞で亡くなった。資格取得のための合宿から帰宅し、じいちゃんが死んでいたのを目の当たりにした。急いで救急車を呼んだが、手遅れだった。
 なんとなく、その前からじいちゃんが亡くなるような前触れはあった。何度も何度も、もし俺がこの先死んでも、お前のせいじゃない。運命だと呟くようになっていたから。
何か悟っていたのかもしれない。
 大きな葬儀は開かなかった。雪と俺と二人だけで喪服に身を包み、じいちゃんが檀家をしていた寺の坊さんを呼んで、いろいろ指示を仰いだ。
 読経をしてもらい、骨を燃やしてもらっている空き時間に坊さんに話しかけられた。
「悲しいですか?」
 ふいにそう聞かれて無表情なまま「悲しいです……」とだけ答えた。
 坊さんはじいちゃんの生前、よく俺の話をしていたそうだ。
「あいつは誰にも愛されていないと思っているが、俺はあいつをとても大事に思っている。もし俺が死んだら、それを伝えてやってほしい。生きてる間には言えそうにないから」
 その話を聞いても俺は泣けなかった。ああ、じいちゃんはじいちゃんのまま、ばあちゃんに会いに行ったんだと思っただけ。
「くそジジィ」
悪態のはずなのに、その自分の声が妙に優しかった。

 遺骨を黙々と拾い、入りきらなかった頭蓋骨を火葬場の人が細かくした。
「きれいに骨が残ることは珍しいんですよ、健康だったんですね」
 箱に入れられ軽くなったじいちゃんを持ち上げて、家に帰った。納骨の日までまだある。
「俺のアイス、盗み食いばっかりするからだ。あの世に行っても、腹壊してんだろうな」
 泣くつもりなどなかったのに、声が潤んで震えていた。ぐっと耐えて、じいちゃんの大好きなスーパーカップを遺骨の前で食べた。
 誰も仏間には来ずに、じいちゃんと俺だけだった。
「じいちゃんは、本当に親父を殺したのか?」
 骨になったじいちゃんが答えるはずはなかった。本当に死に際まで教えてくれなかったのだ。
「俺、親父を蹴ったんだ。衰弱しきった弱い親父を気が済むまで。なぁ、じいちゃん。本当は俺が殺したんじゃないのか?」
 もしそうだったとしても、今更どうしようもないのかもしれない。それに、俺の暴行で死んだにしては、時期がやはりずれるのだ。だから、何がどうやって死んだのかあの時知ろうとしなければ、誰も教えてくれるはずもないのだ。
「じいちゃん。いろいろ背負わせてごめんな。あのな、じいちゃん。俺、じいちゃんと家族になれて幸せだったよ。俺はちゃんとじいちゃんを選んでじいちゃんと家族になったから」
 視界が歪むのに、涙を拭いもせずに話したいことを一方的に話した。
 じいちゃんが死んで、家族が誰一人いなくなった。けれど、また選ぼうと思う。自分が好きだと思った人と添い遂げられたらいいと思う。

 火葬を終え、納骨が済んでしばらく、誰もいない家の中で雪と過ごした。古びた家の中をきれいに掃除して、雪は部屋を明るくしてくれた。
「恭一くん、庭にお花植えてもいい?」
「うん、好きな花、植えて」
 静かに過ぎていく時間の中で、雪を繋ぎとめるために結婚という手段を考えた。けれどそれが卑怯な手のように感じて、どうしても言えずにいた。
 家族が欲しいから、結婚したいなんてひどい気がした。
「ね、恭一くん」
「なに?」
「皆月恭一を愛してる」
 彼女はそっと俺を見つめていった。
「愛してる。恭一くんのことは初めて私が選んだの。私が一緒にいたいって流されずに選んだの。ずっと大事にする覚悟をもってあなたと一緒にいるの」
 俺はあっけにとられて言葉を失った。
「結婚しようか」
 声が出ないで、見つめあう間いろんなことが頭を駆け巡った。何を言うのが正解なのかわからなくて、自分の覚悟のなさを自覚した。
「よく、考えて言ってる?」
「考えてるよ。言ったでしょ、初めて自分で選んで決めたって。おじいさん亡くなった時から、もう決めてたよ。恭一くんがプロポーズ言いたいだろうって思って言わなかっただけ」
「結婚って、わかってて言ってるの? 俺の人生に乗っかるってことだよ」
 背中に汗をかきながら必死になって言う。
 けれど彼女は真っすぐな眼差しでいう。
「違うよ、乗っからない。一緒に生きるってことだよ」
 その言葉に俺は少し動揺してうずくまった。
「結婚……していいの?」
「いやなの?」
「嫌じゃない! 嫌なはずない……。でも、怖いんだ。大事にできなかったらどうしよう、幸せを親父みたいに壊したらどうしよう。そればっかり考えて」
「大丈夫だよ。本当に幸せを壊す人はそのことに怯えない」
 言い切った彼女が初めてかっこよく見えた。
「なんで今日、そんなにかっこいいの」
 そういうと彼女はにやりと笑う。
「恭一くんを誰にもとられたくないから」
 言い切った彼女に戸惑いしか抱かない。わからない、どうしてそんなことが言えるのかわからなかった。
「恭一くんはまだ信じられないでしょ? 私のこと」
「……」
「でも、だから、私も踏み込もうと思うの。恭一くんが安心して生きていけるように。だって幸せになるために生まれたんだもん、私たち」
 その言葉を聞いた瞬間、彼女を抱きしめずにはいられなかった。たどたどしく、震える手で抱きしめた彼女は、優しいにおいがした。
 初めて父の気持ちを理解した。夢の母と同じことを言う彼女を愛してしまったから。それはあまりにも残酷な希望に見えて、一生飲み続けなければいけない毒みたいに思えて、求めずにはいられなかった。
そうしてようやく悟った。
父にとって母は代わりのいない存在だったのだと。そしてそんな母を亡くして、自暴自棄にしかなれなかった父を想った。「悲しい」がジクジクと化膿して治らずに腐敗して腐って性根まで腐って。そしてきっと永遠に治らないことを知って。
何一つ大事にできないまま、母をさんざんに裏切ったまま死んだ。
ぼんやりと父の死因は、自殺だと思った。人を愛するのはこんなに怖い。これじゃまるで、治らない病と同じ。一度発症すれば、もう二度とその恩恵なしに生きてはいけない。それなのに愛さずにはいられない。
惨めさに泣いた。
細い彼女の体を抱きしめながら惨めで、惨めで、仕方なかった。それでも温かい背中に回された腕にすがる。人を愛さずにはいられない、一人で生きられない。そんな人間味がまだ自分にはあったのか。
「結婚してください」
 彼女は幸せそうに微笑んで言う。
「はい」
 生まれてきてよかったなんて口が裂けでも言えない。それほどまで過去に足を取られる。苦しめられる。けれど、出会えてよかった人がいる。
痛みを分かち合う人がいる。だから、大それた勇気をふり絞って決意する。幸せな未来を歩くために、臆病で人を拒絶する自分よ。お願いだから、死んでくれ。そして幸せになることを許してくれ。
なくならない過去も、愛されなかった子供の自分も、懸命にもがいたのに、ままならなかった過去も。全部、抱えて。


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