貞節の勝利

 貞節の勝利、というオペラがある。女ったらしのチャラ男が、ついにトラブルから殺されそうになり、かつて純潔を奪い、それでも身を挺して自分を助けてくれた娘の心やさしさに改心して、二人は結ばれ、関係者が皆祝福して大団円…という、オペラの王道を行く四コマ漫画な起承転結、浮気ばかりの夫に悩む妻に修道女がこんこんと諭し聞かせるような内容なのだが、それでも最後まで聞かせてしまうスカルラッティはさすがである。

 貞節、は女性の美徳だと言われ続けてきた。古今東西、いちばんのヒロインは、オデュッセウスの長い長い旅の間、他の男を寄せつけずに待ち続けたペーネロペーではなかろうか。キリスト教も貞節を訴え続けた。ということは、歴史家としては、つまり、貞節を守れる人って珍しかったんじゃないかしらねえ、と考えて然るべきところなのだが、賢明なるペーネロペーが、他ならぬ夫婦の寝床の秘密で彼のアイデンティティを確かめる、という肝心な箇所の欠けるキリスト教の道徳観は、今も南欧には「神父というのは、誰からも”父”と呼ばれる人である、例外はあって、彼の実の子ども達だけは、彼を”叔父さん”と呼ぶ」という定義があるそうで、そんな実態との乖離ともあいまって、たいそう評判がわるいが、大きな社会的影響力を持ってきた。

 真心で彼を改心させなさい、は、いかにも女性の方にそういう衝動がないかのような扱いだが、オリジナルの聖書の方には、そもそもアダムをそそのかしたのはイヴだ、という原罪の問題がある。そういう神をも畏れぬ悪女を想定した上で、聖母マリアについては”無原罪の御宿り”、という甘ったるいフィクションで目を逸らし、さらに性的に放縦なサタンの僕である魔女というキャラクターと三つ並べ、いずれを選ぶか迫る、という、ややこしいことをしてきたせいで、キリスト教の性道徳は薄っぺらいとも思われがちだ。実際には、どれか一つ選ぶような類ではなく、どれも人間の姿なのだから。モンテーニュは次のようなエピソードを紹介している。金持ちの放蕩息子が、行きずりの貧しい娘の純潔を踏みにじった。泣きじゃくる女に名前を尋ねると、彼女は自分は「マリア」だと告げた。その瞬間、彼は自分が侮ってきたキリスト教の真実に気づき、呆然とした後、深く悔いて剃髪し、修道僧になった、と。

 一巡りして自分で気づくまでは待ってあげなさい、は、しかし、いずれにしても一つのパターンには違いない。もしそれが人間にもできるなら、ってことではあろうが。

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 イギリスITV制作の人気ミステリー、『バーナビ―警部』の原作は女性作家だという。

 穏やかで美しいイギリスの村で起こるどろどろの惨劇、と言うのは、アガサ・クリスティ―以来の定番だが、それが第十四回シリーズまであるのが『バーナビ―警部』だ。日本人にとって、おじさん警部の奮闘する『小京都殺人事件』『湯けむりシリーズ』や、『家政婦は見た』と同じくらいなじみぶかく、また、ありがちだよなあ、とも思える話が展開するのは、つつましくも瀟洒な趣のあるイギリスの田園地帯なのである。

 テレビを見るくらいしか楽しみのなくなってしまった父は、ミステリーに関しては、イギリス制作のドラマの方が面白い、と言う。若い頃はコロンボもよく見てたじゃない、と言うが、いま見ると、コロンボの乗り込んでいくアメリカの豪邸だの小洒落たレストランだのはもはや古臭い上、初めからあやしげな犯人の嘘を暴いていくというパターンも、どうにも薄っぺらいという。『ナイトライダー』同様、コロンボの乗り回すアメ車には味もあるのだが、暴力やアクションで魅せるものには疲れてしまう、と言うのもわかる。

 確かにクリスティものでも、ルイスやモースのような”オックスフォードミステリー”でも、バーナビ―のような瀟洒な田舎を舞台にしたものでも、消費文化に寄りかからない上質な暮らし、が、まだどこかにある気がすることには、イギリス人の趣味はいいなあ、とも思う。問題は、殺人と言うかたちで露呈する、その穏やかなたたずまいの背後にある人の営み、なのだが。それだけでなく、クリスティが確立した偉大な伝統のひとつは、最後の最後まで、誰が真犯人かわからないこと、そして、動機は深く秘められているということだ。

 秘めごと、だから、性的衝動を引き金にした話も多い。今日の第53話はまさにそういう話だったし、タイトルからして”The Animal within”、内なる獣性、である。『野性の発露』と訳されていたが、獣beastではなく、動物animalになっていることと、最後の台詞は、愛妻家にして一人娘にはやられっぱなしのバーナビ―らしい、女性への労わりだろうとも思った。

 シェイクスピアこのかた、ジュリエットにしても、狂死のオフェーリアにしても、やんごとなき姫君たちにも秘められた恋への情熱があって、それは勿論、性欲だと言うこともできる。

 二十年余り前の、乱交パーティ。男数人と若い娘が一緒にベッドにもつれこんで写真を撮った。官能的な部分を解放したっていいじゃないか。自分の”本当の姿”を受け入れられないから、でたらめを言うなんて。

 だが、母親は母親だ。複数の男と獣のように交わり、興奮する若い娘こそ彼女の”本当の姿”だとせせら笑い、脅迫する男を、彼女の息子は断固として許さない。

 それは母親としての彼女は子どもには決して見せなかっただろう姿に違いない。関係者を次々と殺した息子はバーナビ―に言い放つ。「あんなやつらは、人類にとって必要がない」。だが、彼が殺したのは荒々しい性に興じた若い頃の母ではなかろうか。人類がどうやって子孫を残してきたかといえば、無原罪の御宿りのおかげではない。彼女をめぐる二人の男は、どちらも、自分の知っている方が真の彼女だと言い張るのみで、一人の女性を丸ごと受け入れてはいない。それが殺人にも至るのだ。

 私をよく見てまねびなさい、は、実在のマリア自身が言ったことではない。根強い中絶絶対拒否と共に、母性のみを人格として受け入れる人達もいなくなってはいない。そしてそれは、狂信の徒だけに限られた話だろうか。

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 カズオ・イシグロの『クララとお日さま』で、英国育ちの、どうみても精神を病んだふうの隣家の主婦が、クララと名づけられたAI搭載の人型ロボットに、生垣で区切られたイギリスの田舎が恋しい、と訴える場面がある。生垣はフェンスと同じではない。生垣は、そこにあって、それまでの歴史を負って、動かないのだ、と彼女は言う。

 『バーナビ―警部』の舞台は、架空の田舎、ミッドサマー、だが、どこにでもあるようで、生垣ひとつにも物語があり、今どきの若者達が、しかしそれを背負わされてもいる。逃げても、そこで生きていた痕跡は消えない。幼馴染が、昔から家族ぐるみで知っているおばさんが、そんなものうるさくて村を出たのに、また戻ってくるような。それらは、生垣と同じで、フェンスのように、まっさらな土地にデザインして引いたり消したりできる線ではなくて、もこもこと、どうにかまっすぐな一列になって、その土地に根を下ろしているのだ。

 


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