箪笥開き

 着物を着るようになった。

 そもそものきっかけは母の死だった。病院からなきがらが戻ってくるまでに、しきりに帰りたいと漏らす母に、もしかしたら見てもらう機会があるかもしれない、と飾っておいた雛人形を、臨終に駆けつけてくれた母の友人達と慌てて片づけて、布団を敷いて部屋を整え、病院からひきとったものを全部解いてあとかたもなくして、最後の洗濯物も洗ってしまった。そして、そういうバタバタした作業が、心の緩衝材になって、私は落ち着いて母を迎えることができた。

 まもなく、それこそ鬼ジジイと噂されていた、見かけからしてゴツい御前様がいらしてくれた。小学校のときの同級生のお父さんでもあったが、ストレートで東大に行った彼の厳父としてもつと有名だった。それで、座布団なんかどこにしまってあるのよ、と大騒ぎの挙句、どぎまぎしながらお茶をお運びしたのだが、御前様は、ちょうどその一年半前に、これまた母と親しかった妹さんを亡くされていたこともあり、驚くほどやさしく、慈しむように母に話しかけてくれて、読経のあとで、穏やかな口調で「かつらも、つけておあげなさいよ。」と私に言った。それで正気に返ったが、母はまだ別れの挨拶をするだろう人達がたくさんいたのに、抗がん剤をはじめてから二つめの、気に入っていた方のかつらも、捨てていいはずがなかった。

 パジャマのままの納棺後、真っ白な布がかけられているのにも「何か、お好きだった着物をかけておあげなさい。」とおっしゃった。それで、おそらく母も一年以上開けていなかったであろう着物箪笥を開けて、いくつか出したのだが、病み疲れた母の顔色に、年齢相応の落ち着いた色あいのものはよく映らなくて、あんたにあげる、と言われていた、淡いサーモンピンクの訪問着のほかは、どうしても着せたいと思えなかった。その着物と、たくさんのお花のなかで母を見送ったことに、私は満足している。

 母は自分のものはなんでも倹しくして、ちびた口紅や隅の方にしか残っていない粉白粉ばかりが詰まった化粧箱もしばらく捨てられなかった。入院してから、義妹にもらったものも含め、パジャマもいくつも新調してあげたが、自分では買っていなかったのである。多い時には一日二着も替えたのを、せっせと持って帰っては洗濯していたが、私がデパートに駆けこんで買ってきたものは、看護師さんたちにも、こういう淡い色だとなごむ、とか顔色が明るく見える、と好評だった。入院生活というのはパジャマのままひとに会うことが多い。そしてなきがらになってなお、人は裸で誰かと会うことはないのだ。痛みどめで意識がもうろうとしていた母自身には新しいパジャマかどうかもよくわからなかったかも知れないが、最後まで何かしてあげることがあったのは、周囲の人間にとっての慰めにはなった。

 そんな御前様だったが、納骨までこの家に置いておく、と、父がめずらしく駄々をこねた母の遺骨を、「いいえ、これはうちで預かります」と、きっぱり厳しく言い切って、四十九日法要からお寺において下さった。私は、正直言って、祭壇が片付くことにほっとしたのだが、そこではじめて、自分が出しっぱなしにしておいた着物も片づけることになった。そのときは自分で畳めないのをおっかなびっくりでしまった。

 自分よりはやく母が逝ってしまうなんて、想像だにしなかった祖母は、認知症が進み、さすがに弱っていった。介護施設にいるからこそ、なのかもしれないが、母に対しては、わがままも、悪態も辛らつで、最後の半年は母自身会いたがらなかったし、心身の負担を思うと会わせるわけにもいかなかったが、がっかりしたのだろう。私にとっては曾祖母にあたる自分の母の葬儀が明日ある、と行く度に訴えるようになったのはその頃からで、母が学生時代に初めてシテ役で舞台にあがった能楽部の発表会に、私、お花の活け込みでどうしても行けないから、代わりに行ってあげてよ、と切なげに頼まれたのも一度や二度ではない。「熊野なのよ。直子が熊野で舞台に立つんだけど、私、行けないの。」そんなふうに、ひそかにわるいと思っていたのだろうことが、ぼろぼろとこぼれるように打ち明けられるようになった頃である、私が、箪笥の着物を着て会いに行くようになったのは。

 箪笥のなかには、まさに乙女の意地が詰まっていた。母と祖母が思いっきり衝突したり結託したり、それがうるさくて仕方なかった頃の勢いで、いろんなものが整然としまってあるのだ。全部出して、カビているものは、曾祖母のことさえ知っている、おつきあいのながいクリーニング屋さんと相談して、干すだけでいいものはそのままに、言外に、八王子の芸者さん達の着物の扱いもあったことをほのめかすこともあるその人が、一度洗いましょうか、というものだけはお願いした。
 
 夜眠れないときには、施設の職員さんがトイレ介助のついでに祖母の話を聞いてくれたようだった。そこで繰り返し聞かされた話のひとつに、1944年、終戦の前年生まれの母の七五三を祝うのに、戦後の物資不足のなか、人形町の店を再開する力もないままの実家で、しかし曾祖母が初孫のために駆けずりまわって着物を手に入れてくれたから、無事水天宮で三つのお参りをすませることができた、というのがある、と後から聞いた。私の七五三の時には手ずから晴れ着を縫ってくれた祖母は着物への思い入れが人一倍で、箪笥の整理のなか、嫁入りの時持ってきた着物はほとんど食糧に換えたと聞いていたのが、婚礼衣装だけは出てきたのには驚いた。

 『風と共に去りぬ』でも、スカーレットが、レット・バトラーに金の無心をするのに、先ずしたことが、母が大事にしていたカーテンをひっぺがしてドレスに仕立て直すことだったが、介護施設の日曜映画鑑賞でも、あの映画の時には、おばあちゃん達の集中力がまるで違ったのでびっくりしたものだ。戦後、バブルまで続いた着物ブームでも、祖母も毎年のように自分の着物を仕立てていた。誰もが認めるおしゃれ好きは、年に一度は大徳で、と決めていたそうだ。負けず嫌いで趣味の華道の方でのおつきあいや、銀座松屋で毎年開かれていた華道展で着るものにはこだわりもあり、なにより、やはり人形町育ちの意地だろうなあ、あれは、と思う箪笥の中身ではある。

 一方で、嫁入り前に母のために誂えた着物は数えるほどしかない。婚礼衣装もレンタルだったそうだ。そもそも、嫁入り先の紋で誂えた着物は無地一着、ということに、そこはかとない意地悪さえ感じるが、あたしのあげるんだからいいじゃない、については、六十過ぎに母にも必要になった訪問着についてはそう多くはなく、紬ばかり山のようにあるのを、母は丁寧に管理してきたのである。棺に入れたサーモンピンクの着物も、たぶんおさがりか、中古で買ったかだろうと思うが、箪笥のなかには、まだしつけ糸もついたままで、父方の紋の入った、ミルクティの色の無地が一着あった。やっとこれから、もっと着物も楽しめる、というときに、乳がんになってしまった母は、“やわらかもの”を華やかにまとうのがよく似合う人だった。祖母の紬の着物は、ほぼしまったきりにされていた。

 あの母が生きていたら、ほぼすっぴんに眼鏡をかけ、祖母の紬をひっかけて出かけちゃう、なんて、今の私の流儀は、あるいは許されなかったかも知れないけれど。

 自分では着物が畳めないくらいなんです、自分から着たいと思ったのはほんとうに初めてなんです、とあらかじめ断ってから着つけを習いはじめた先生は、おばあちゃんとこ着てくんでしょう、ちょっと直ししましょう、と、いつも気遣って下さったが、でもあなたは、和服を着慣れてる感じがするわよ、とも言ってくださった。正確には、着せられ慣れていたので、裾さばきや、袖の扱いひとつ、ほんとうはよく知らない。それはやはり、和のお稽古事を通じて身に着けるべきことなのだろう。でも、とにかく当座は、祖母に、彼女の着物を着て見せることが目的だった。

 私が着物を着ていくと、祖母は、しかし、素直に喜んでみせはしなかった。ぱあっと嬉しそうな顔はするのだが、威厳をとりつくろい、ああだ、こうだ、と文句を言ってみせた。だが、私の方も、そうしてもらうことこそが目的だったから、それはそれでよかった。座ったついでに、帯が乱れると、すかさず直された。文句しか言わなかったが、孫の着物姿をチェックする時には目の前のことに集中して、思い出のなかにひきずりこまれてはいなかった。脳梗塞で倒れ、それでもしばらくは何か話したげにしていたのだが、寝ていることの方が多くなってから、一度着物でお見舞いに行ってみた。反応は何もなかった。ああ、いよいよだな、と思った。

 大雪の日に療養型の病院に移り、凍えるバス停や風の強い高架のモノレール駅で通うのに耐えかねた私が、いっそ、と自転車で見舞いに行くようになって、数カ月、通り道にしていたバイパス予定地の入り口にある公園に、藤の花が咲いた頃、祖母は逝った。担当の看護師さんが帰り、夜間の看護師さんが見回りにくる前の、ほんの小一時間の、誰もいない時に脈拍が乱れはじめた、と電話があった。走って家に戻った私は、父が晩酌にビールを飲もうと冷蔵庫の取っ手に手をかけたその刹那に間に合って、車を出してもらうことになった。

 あんな訛りのある田舎出の、背も低いし、と、母が初めて父を連れてきた時にはさんざんだったし、その後も、ほんとにあんなのと結婚するつもりか、と、それに反発しちゃって逆にぜったい結婚するって思っちゃったところもあるわ、と母は私に言ったことがある。ただ、その代わり結婚後はへんな遠慮もなく、下町らしい面倒見のよさも発揮してきたのも祖母だったと父は言う。母との意地のはりあいではさすがに父をウンザリもさせてきたが、あれだけ運転の巧みな父にはほんとうに滅多にないことに、暗い梨畑の間をゆく近道で病院に向かう時、車が縁石に乗り上げかけた。

 それは、都県境の尾根で一休みしている時のことで、それまで同行者に気遣って切っていた携帯電話のスイッチを入れたら、祖母のいた介護施設の看護師さんから幾つも留守電が入っていて、そのまま山を駆けおりて、二時間に一本のバスに間に合った。十二月のはじめのことだった。脳梗塞を起こす直前までその看護婦さんと話していたそうで、急に返事がなくなって顔を見たら舌をだらりと出していたので、即救急車を呼びました、ということだった。救急搬送先でも、もしかしたら、きちんと着替えさせた方がいいかもしれません、ということが一度あった。あと二週間以内にひきはらってほしい、と頼まれた直後だったが、それを施設に伝えたら、いつも洋服を選んでは着せていてくれていた介護士さん達が、ベッドの上にとっておきのおしゃれ着をいくつも並べておいてくれたことがある。祖母に関して、涙が出そうになったのは、ほんとうにあの時だけだ。思えば、あの施設に祖母は八年以上暮らしていたのだった。

 最後は、私物の持ち込みを最低限にする方針の療養型病院のレンタルパジャマだったが、私が叔父に、ちょっとだけ高くなるけど、でもそちらの方がいいのではないか、と、頼んだのは、その病院では、朝起きたら、夕食までは、昼用のパジャマに着替えさせる、ということを聞いたせいだった。果たして祖母は、夜用のパジャマに着替えさせてもらってから息をひきとったのだった。偶然かも知れないけれど。でも、祖母がほんとうに何もわかってなかったかどうかなんて、誰にもわからないのだ。

 

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