車窓から(1)
初めて京都に行ったのは、小学一年生のときのことだ。二月に、学校を休んで叔父の結婚式に出席したのだ。当時は新幹線だって、まだぴかぴかの最先端だった。それまで旅行といえば、東は父の車で奥会津まで、西は家族旅行の来宮までだったのが、一休さんの舞台である京都に行くと聞いてどきどきした。
一度おじいちゃんと一緒に、これまた最先端だったぴっかぴかの小田急ロマンスカーで箱根まで行った時には、慣れた様子で車内販売のコーヒーを買うおじいちゃんを心からカッコイイと思ったものだが、新幹線に乗る、ということは、当時の小学生には“八時だよ!全員集合を生で見た”というのと同じくらい自慢になることだった。勿論、私よりも先に「夏休みに乗ったけど」という子も周囲にいて「あんなの、乗っちゃうとそんなにはやいと思わないよ」とだるそうに言っていたが、きっと速すぎて何も見えないに違いない、と思っていた。
京都は雪になる、と言われていた。私は、当時母に与えられていた英語の絵本の、かしこいくまちゃんと、あわてんぼのくまちゃんでいえば、寒い日には下着から外套までぜんぶきちんと身に着ける“かしこいくまちゃんのように”厚手の毛糸のタイツにタートルネックに、おばあちゃんが買ってくれたよそいきの、まだちょっと大きいコートを着て、毛糸の帽子もかぶせられた。すでに東京駅のホームから寒かった。母のことなので、そんな折にさえ、駅弁ではなく、おにぎりとゆで卵が用意されていただろうと思う。雨でも降りそうな曇り空で、富士山を見た覚えはない。
私も弟も、電車のなかでは騒がない子どもだった。母が、怖い、というより、普段からぐずったところで全くかまってくれない人だったからだが、法事でも食事でも電車に乗るといえば三十分から一時間はザラだったし、私は、今でもそうだが、ぼんやり考えごとをする術は電車のなかで身につけたんじゃないかと思うくらい、黙ってきょろきょろと忙しくしていた。ママ達はおしゃべりに夢中でも、黙ってさえいれば何も言われないというのは自分には好都合であった。そうやって、中央線で弟と並んで外を見ていた時に、突然「バスクリン、バスクリン」と叫び声をあげたのは、御茶ノ水のお堀をのぞきこんでいた時のことで、あれには車内が一斉に笑いだしたのよ、と後から叔母に何度も言われた。ツムラのバスクリンが、さかんにテレビ広告をしていた時のことである。
母は、なんでもお見通しで、その京都の結婚式でも「それではこれより皆さまにも退場していただきまして、別室で記念写真を」という時に、狙いすましたように私がいなくなったのを、「ケーキよ、ケーキ!」と、ドアを開けて飛び込んできた。果たして私は、さっきまで新郎新婦が座っていた金屏風の前のウェディングケーキの傍らで、それがほんとうに砂糖菓子なのかどうか、ためつすがめつ吟味して、ちょっと触ったりしていたところで捕まった。こうして、無事記念集合写真にはおさまっているが、同じ理由で、買い物先でも、弟より迷子になることも多かった。手はかからないが、おとなしくしているからおとなしいわけではないのを知っていた母は、あの頃、台所に蛇が出たのも、玄関先にスズメバチがこっそり巣をつくっていたのも、全部私のせいにしたものである。
新幹線の車内で、あら、関ケ原はいつの間にか過ぎちゃったみたいねえ、というあたりで、しかし、やはり雪がちらつくようになった。午後になっていた。田んぼのなかの一本道を、赤いランドセルの女の子が一人歩いていく。「ほんとうに、何を思うか小学生、だわ」と母は大人しくしていた私のほっぺをつっついた。
京都では、いまのアニメファンの聖地巡礼、文字通り一休禅師ゆかりのお寺をめぐる旅になった。着いたその日に訪れた金閣寺が、すっかり雪化粧していたのは、子ども心にも素晴らしかった。ほんとうにあんな金閣寺は一生に何度も見られるものではないだろう。
翌日、結婚式は午後からで、私たちは着つけがあるから、と、私たちは仕事を終えてから前夜遅くに京都に着いた父に押しつけられた。近くに二条城でもあるから見てらっしゃいよ、と急き立てられたが、二条城は玉砂利の庭も、建物のなかも、とにかく寒かったことしか覚えていない。父は気を遣って時間前に私たちを連れ帰って、なにか食べさせてやればいいのに、と文句を言われ、いつものように喧嘩になっていた。子どもも父が気もそぞろなのに気を遣って、あったかいものを食べたいと言い出さなかったし、そもそも冬の京都の骨身に堪える寒さに耐えかねてお昼までなんかいられずに早々に帰ってきたんだろうと思うが、いずれにしても、京都ではいつもの多摩動物園や高尾山のようなわけにはいかないわけで、せっかく新幹線のなかでおにぎりで節約したのが、それでホテルで軽食を食べるなんて贅沢をしたのかどうかは覚えていないが、とにかく、結婚式は無事に済んだ。
父の方はその日のうちに東京に帰る、という、当時の“モーレツ社員”らしい退場だったが、翌日は祖父母も一緒だった。一休さん、一休さん、とせがんだので、おじいちゃんは、それじゃ龍安寺にでも行こうか、と、石庭に連れて行ってもらった。石庭にも意味があるから、そこで箒を使っているお坊さんに聞いてごらん、と言われたが、その人があんまり一心不乱に作業しているので、声をかけそびれた。他にもどこか寄ったかも知れないが、それで京都駅に向かう、という、一見さんらしい駆け足の冬の京都見物だった。
こうしてコロナと介護でどこにも行けないなかで大河ドラマを見ていたりすると、やっぱり京の都は遠いなあ、とも思うのだが、それくらい離れていればこその憧れの京都ではある。それにしても、最初にあのしんしんと冷える京都に接したのは幸運といってもいいのではないだろうか。