日本社会の歯車を動かすのは諦念か
わたしはビジネスコンサルタントの仕事をしている。
コロナ期入社の私は、リモートでの仕事がデフォルトに。毎日限られた刺激のみの環境にものすごく悶々とする日々を過ごしていた。
でもついに、今年に入りやっと出社機会が増えてきた。
お客さん先に出向くようになったのである。
そのお客さん先に出社してると、なんというか、いろいろと感じることがたくさんあった。
通勤という非日常
日本社会には、毎日秩序立った時間の流れがある。
大量の人間たちは一定の流れに乗って駅に吸い込まれ、電車によってそれぞれの場所に運ばれ、またそれぞれのオフィスに吸い込まれていく。
私はそんな秩序の流れに飲みこまれ、狭い電車に押し込まれ、オフィスへと流れていく。
大量の人間が集まると、このような秩序立ってるが無秩序とも言える人流が生まれるのか、と少し感心する。
ただ、そんな超人混みに飲まれるのが嫌になったので、基本早朝に出社し、オフィス近くのカフェでモーニングをするようになった。モーニングが食べられると思えば、通勤の苦痛もまだ耐えられるからだ。
そのカフェの窓越しにオフィスに向かう人の荒波を窓越しに眺めるのが習慣になった。
ヌーの大移動のようである。人間たちの動き方が。
ここまで同一の生物が集まりすぎるとなんだろう、なんかもう気持ち悪い。どんなに可愛いもふもふの犬たちでさえも、こんなに大勢いたらもはや可愛いとは感じないだろう。
オフィスは刺激がたくさんある
通勤は物凄くストレスフルだが、なんだかんだ出社にもメリットがあるなと思う。
例えば、オフィスに来て、会社のロゴを見て、首から社員証を下げるだけで、その組織への帰属意識が少なからず湧くところとか。帰属意識は組織への貢献欲を湧き立てる。
私が今出向いているお客さんは、日系大手メーカー企業のグループ会社だ。
それ以外にも、いろんな社員がいる中で仕事をするということもまた、新鮮な刺激である。
下半身の血流の滞りを検知して何度かお手洗いに立つことはリモートと変わらないが、お手洗いから見渡すオフィス街のパノラマ風景を眺めると、自分が大都会の真ん中にいることを認識してちょっとだけ脳内がビビッと痺れる。
まあでも、仕事の傍らふと周りの人たちを眺めてみると、なんというか、ザ日系企業って感じだなあと感じる。おかたい感じが。
私が勤めるコンサルティング会社は、どっちかというと服装も自由だしオフィスもどこか外資っぽくてキラキラしてる。だから私もキラキラしている、という演繹法は成りたたないが。
だが、お客さん先は、なんとも言えないお堅い空気を感じた。
みんな、ただパソコンとずっと向き合うだけなんだなあ。
自分の机があるのかあ。自分の資料とかいろんな私物が置いてあるなあ。
みんなあんま喋んないんだなあ。リモートでコールしてる感じもあんまないな、対面ミーティングとかはやってるけれども。
なんて、口を開けばとめどなく出てくるけど。
自分の今までの仕事の仕方と全然違う!
なんて少し面食らう。
でも、いろんなことを知れて、やっぱりおもしろい。
面白いけど現実も見えてくる
だが、オフィスで働いてみて最も強く感じたことがあった。それは、
みなお金を稼ぐためだけにこの場所に来ていて、やること済ませたら颯爽と帰宅しそれぞれの私生活に戻っていく
ということだった。
そう、つまりは、仕事とはそういうもんっていう諦念。
ワークからライフへの明確な切り替えの瞬間があっちこっちで見て取れた。
夢のない薄暗い現実を見たわけである。
ザ現実。
社会人になる前は、もっと仕事に夢を持ってた。
自分がやりたいこと、貢献したいことがそれなりにあって、それに向かって奮闘したい!そんな気持ちで社会に乗り込んだのは記憶に新しい。
でも実際の現実は、仕事はつまんなくて、とにかく生きていくために必要な作業でしかなくて、そこに野望とかワクワク感とかはない。
そしてだんだんと諦めていく。
そしていつしか、諦めの上で仕事をこなす人間が出来上がる、というわけである。
人々の原動力はもはや諦念なのだ。
現実を見た。
日本の企業って大半はこんな感じなんだろう。
やらなくてはならないから仕事をする人が圧倒的多数なんだろう。
日本社会の歯車を回すのは
少しの残業をし、表情のない人々が作り出す駅までの海流に乗って歩きながら、そんなことをずっと考える。
なんだろう、どうしてこんなに暗い気持ちになるんだろう。諦念の波はどんより重くて暗くて、この波に乗るだけで気分が下がる。
今駅に向かって歩く人たちは、どんな気持ちで帰路に着いてるのだろう。
ぎゅうぎゅうの電車の中で、買ったパンをつぶさないことだけを考えながら、帰宅する。ふうっと大きく息を吐くと、部屋の中にどんよりした気持ちが滲み出てくる。
未来に希望を持って働き始める若者たちよ。
わたしは絶望したよ。
日本社会の歯車の大部分は、人々の諦念によって動かされていたという事実に。
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