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またたび日記1「腕の傷」

 先日帰省してからというもの、実家の猫たちのことがひねもす気になって仕方ない。本を読んでいても、小説を執筆していても、履歴書を書いていても、マスをかいていても。いつだって頭の片隅には猫たちがいた。
 我が家では現在四匹の猫を飼っている。もともと四匹は祖母の家で飼われていた猫たちだ。だが、数か月前母猫が事故で死に、多頭飼いが祖母一人には難しくなり、そのうち二匹が実家にやってきた。もう二匹も現在病気療養のため、動物病院に近い実家に滞在中である。実家に帰ってきて驚いた。夢にまで見た猫が、うちに、しかも四匹もいるのだから。四匹のうんちを片づけたり、餌をあげたりしているうちに僕もすっかり情が移って、彼らのことは正真正銘家族だと思っている。

 しかし、どうして四六時中猫たちのことが頭から離れないのか。無論、彼らの国宝級のかわゆさ故、絶えず恋慕の情を抱いているというのもあるが、つまるところ心配なのである。
 彼らはまだ子猫だ。生後三か月にも満たない。少し、肉付きが良くなったとは言えまだまだわんぱく盛りで何をしでかすか分からない。何かヘンなものを食べるかもしれないし(彼らは近頃目についたもの何でもガブっといっている!)、棚から落っこちて骨を折るかもしれない(あんな枝みたいな手、たちまち折れてしまう!)、部屋の中で熱中症になるかも知れない(10年も使っているおんぼろエアコンだ。いつ壊れてもおかしくない!)、窓を開けて外に出てしまうかもしれない(ベランダなんて彼らの脚力をもってすれば簡単に越えられる!)。そんなわけで、もうそわそわして仕方ない。おちおち外出もできないばかりか、最近は夢の中にも猫たちが出てくる。『ノラや』を書いた内田百閒の気持ちが今なら分かる。きっと僕も彼らが疾走したら、ご近所に探索願いのビラをまきに行く。
 とはいえ、百閒がそうであったようにあまり心配が過ぎると、人はノイローゼになってしまう。最近の自分はややその傾向が見られた。

 だが、ある日、そんな風に猫のことで顔面を蒼白にしている僕を見かねた妹が
「心配しすぎ! 猫そんな弱くないよ! なめんな!」と一喝した。
 妹の豪傑ぶりに僕は目を見張った。とても我が妹とは思えない。神経の太さがまるで違う。僕が毛糸なら、彼女はしめ縄くらい。僕がまるで神でも見るような目を向けていると、妹はあきれたようにため息をついて
「……少しくらい放ってても大丈夫だから」と言った。そしてその直後に
「私も前まで猫ノイローゼだったよ」と付け加えた。
 僕は驚きのあまりにさらに目をひん剥いて彼女を見た。
「そうなの!?」
「うん、最初の頃は何してても猫のことばっかり考えてた……それこそ、夢にまで見るくらいにね」
 そう口にする彼女はありし日のわが身を顧みているのかどこか苦々しい顔をしていた。
「驚いた……とてもそんな時があったようには見えないよ」
 今の妹からはノイローゼの時の面影など微塵も感じられなかった。僕が見る限り現在の彼女は、猫たちと良好な関係を築けている。妹が帰宅すると猫たちはまず、妹にすり寄るし、妹も毎晩彼らとともに眠っている。慈愛の笑みを浮かべ猫を抱く妹を見ると、実は彼女が猫たちの母親なのではないかと思う瞬間すらあった。
 だから、今の彼女を見ていて、とてもノイローゼになったとは思えない。いったいどのようにそれを克服したのだろうか。僕はその疑問を素直に伝えた。そして、今後自分はどうすればいいのかも。
 すると彼女は眉間にしわを寄せ、宙を仰いだ。そして中空にある何かに焦点を定めようとするかのように視線を右へ左へ泳がせた。そして何かに納得したようにうなずくと、今度は僕の目を見据えて
「調べたんだ。納得いくまで」と言った。「けっきょく、不安をぬぐうためには、知るしかないんじゃないかな」

 その言葉は彼女自身に向けられているようにも感じた。妹は、それだけ言うと腕をかいた。僕はそこで気づいた。腕に無数のひっかき傷や、噛み傷があることに。言うまでもなくそれは猫によってつけられたものだった。僕はその傷を目にして、妹のしてきた「知る」努力がなんたるかを知った気がした。

 無傷では済まないのだ。「知る」ということは。きっと彼女は何度も、猫に拒否されてきたのだろう。そのたびに、ひっかかれ、噛みつかれ、血を流し、そして猫が何を欲しているのかを知ったのだろう。何が正解か分からない中、暗中模索しながら、答えを探し続けたのだろう。彼女は何も、もともと気丈だったわけではないのだ。今の僕と同じく不安になりながらも、必死で猫たちの面倒を見続けて、そうしてようやく一本の太い縄のような自信を手にいれたのだ。
「……ありがとう」
 僕がそう言うと、妹はうなずいて、足元にすり寄ってきた猫を抱き上げ膝に乗せた。猫は膝に乗るとすっかり安心して丸くなって眠った。妹は微笑みながら、猫の背を優しくなで続けた。
 僕はしばらくの間、優しい母親のような妹の横顔と、勲章のような腕の傷を眺めていた。

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