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またたび日記9「飼い主(ぼく)のこと」

ここ数日、抑うつが酷くてろくに文章が書けなかった。
そういうことは多々ある。調子のいい波が来てる時と、それが引いていくときがあって、ここ数日はまさに波が引く時だった。

波が引いている時は、とてもじゃないが文章を書く気なんて起こらない。案外、そういう時の方が文章を書いた方が心の整理に繋がっていいのかもしれないが、そもそも打ちのめされていてそんな気力もない。過去の失敗や現在の不安が大挙して押し寄せてきて、僕をぼろぼろにするのだ。

というわけで何の文章も書けなかったわけだが、じゃあその間どうしていたかというと、僕は読んでいた。過去自分がnoteに投稿したり、メモに書き留めたりした文章を。昔の文章を読み返すというのはなかなか恥ずかしい。それを書いた当時の自分の状態や、文章の癖みたいなものがありありと分かるからだ。ああ、当時の僕はこんなことで悩んでいたんだなあとか、体言止めを多用しているなあとか、そういうことが良くわかるし、今の自分なら一笑に付すような悩みや、絶対使わないような表現を使っているため、顔が熱くなってくる。

でもそれは当時の僕が全力で人生に挑んでいた軌跡でもあるわけで……
だから、まあ、今はその涙ぐましい努力を誉めてあげてもいいんじゃないかなって気にもなっている。ぶっちゃけ、当時の僕の方がある意味では今よりも輝くような文章を書いている場合だってある。

閑話休題。過去の文章を読み返して思ったのが、僕はかなりの頻度で「動物」に関する文章を書いているなあということだ。

例えばnoteの中で一番初めに生き物に触れたのは「悼む蛾」という記事だ。大学途中にある坂道に夥しい数の毛虫の死体があって、それに群がっている蛾を見て書こうと思ったのだ。


また、結構最近の話になるが「信行寺と猫」という短編小説も書いている。尾道の真行寺を訪れた折、境内で出会った猫について昔の記憶も織り交ぜて書いた。


他の小説で言えば「猫と歌うたい」という続き物も書いた。猫の宴会に巻き込まれた青年の物語だ。ちょうどそれを書いている最中、ひどい抑うつに襲われ、途中で更新が止まっているが、まあのんびり続きを書いていくつもりだ。


そして現在更新中の『またたび日記』。飼い猫との日々をフィクションを交えて綴っている。抑うつに悩まされながらも、比較的更新出来ている。目の前に愛くるしいにゃんこたちがいるわけだから書かずにはいられない。


とまあ、以上のように動物について書くことが僕は多いのだが、どうしてか考えた時、動物が好きという感情に加えて、動物の痛みとか、苦しみに対する感受性が高すぎることが挙げられる気がする。

僕は蚊が殺せない。昔は殺せたのだが、最近は積極的に殺すことはしなくなった。目の前に蚊が飛んでいても殺すことはせず、下敷きとかノートで扇ぐに留めている。別に熱帯の蚊と違い日本の蚊は病気を持っているわけでもない。刺されたら痒いだけだ。だったら殺す必要ないと思う。それに、僕の場合、殺したあとしばらく罪悪感がすごい。胸に鉛がせりあがるような感じがする。だから僕は多少痒かろうが蚊を叩き潰さない。

先ほど罪悪感の話をしたが、故意で殺した場合の罪悪感もさることながら、偶然殺してしまった時も、罪悪感でひどく憂鬱になる。
昔、大学のテラスで読書をしていた時、蟻を踏みつぶしてしまった。ベンチから立ち上がった瞬間だった。足裏に小さな木の実をつぶすような感触があり、足をあげてみるとそこには手足がおかしな風に折れ曲がった一匹の蟻がいたのだ。蟻は半死半生で、まだぴくぴく動いていた。「ああ……」気づけば嘆いていた。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……と心の中で何度も念じた。その間に、蟻は動かなくなった。石像みたいに静止した蟻はその後、すぐに他の蟻たちに運ばれ、巣穴の近くに捨てられた。

猫たちが病気をしている時も苦しかった。下痢で苦しんでいる猫を目にして彼らの腹の痛みを想像し、こっちまで苦しくなった。挙句、どういうわけか僕まで下痢になってしまった。
苦しんでいる猫たちを見るのは憂鬱で、かえって彼らを見ないように避けていたこともある。彼らを二階に隔離し、僕は一階でスマホを構いながら彼らのことを忘れようとした。だが、三十分もするとまた、彼らのことが気になり、彼らの容態を見に行った。彼らの糞を拾いながら、彼らを忘れようとしたことに対しての、罪悪感で震えた。

僕のこの感じやすさを優しさと呼んでくれる人もいる。それはそれで救われた気分になるからありがたいのだが、当人はその「優しさ」のせいでかなり苦しい思いをするはめになっている。
僕は感度が良すぎるのだ。受信しなくてもいいものまで、受信している。
そのせいで罪悪感を抱き、自らを責め、抑うつに陥っている。
まったく、なんとも不自由な性質だと思う。
結局は、どこまでが感受すべきことで、どこまでが鈍感になってもよいことか、判断しながら生きていくしかない。どうしても無理な時は、まあ、諦めて苦しみが治まるのを静かに待つしかない。

じゃあ、この感受性の高さが不自由なことばかり僕にもたらしたかと言えば必ずしもそうとは言い切れない。

たとえばそれは、僕に前述したような動物に関する様々な文章を書かせてくれ、決して多くはないが共感者を見つけることも出来た。共感者を見つけたおかげで、孤独ではなくなった。

たとえばそれは、動物を慈しむ心を与えてくれた。ただ生きている、それだけで奇跡なのだと僕は猫たちとの生活を通じて実感することが出来た。だから、むやみやたらに動物を傷つけない。むしろ、彼らの命を長く、太く繋いでいこう、そんな風に考え今は生きている。それは一つの生きがいとなって僕を支えてくれている。

これから先、きっと僕はもっともっとボロボロになるのだろう。
なんで? と思われることで傷つきながら。
それでも文章を紡いで生きていく。命を慈しんで生きていく。

そうやって歩いた先に、あるいは後に何かを残せれば、僕は満足だ。

さあ、今日も今日とてにゃんこたちと戯れてきますか。文章でも書きますか!

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