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【上京のはなし】東京デビューは突然に

就職の合格通知が届いたのは、音楽棟の管理人さんが亡くなった日の翌日だった。
就職活動がうまく言ったことを一番に伝えたかった人だったのに、急死してしまい、伝えることができなかった。享年65歳。若すぎた。

新年度が始まったが、配属先を決める面接の連絡はなかなか来なかった。

もう年度途中になるし、今さら連絡が来ても逆に嫌だなあと思い、連絡待ち用に買った携帯の電源を切ろうとした、その時、着信があったのだ。

03から始まる番号が表示され、これは、面接の連絡だと思った。

一瞬出ようか、出ないでいようか迷った。
出なければ、次の人に連絡が行ってしまい、就職はできない。しかし、年度途中だし、今さら採用されるのも嫌だと思った。

迷ったが、電話に出た。
「○○です。」と。

やはり就職の面接だった。

しかも、「面接に来たら、採用は確実だから、もう今住んでいる都市に戻れないと思ってください。そのつもりで、荷物を持ってきてください。」と言われた。

私の配属先がなかなか決まらなかったのは、大学院に在籍中だったからだ。大学院に籍があるのなら、中退してまで就職するより、大学院を修了した方がいいのではないか?と言われた。
この面接以外に、2回面接に行き、どうにも配属先が決まらないし、一層のこと現在無職にして大学院の経歴を抹消しようかとも思った。
しかし、その当時、学歴詐称の問題がマスコミにとりあげられ、無職の履歴書にして就職できたとしても、のちに、学歴詐称で訴えられても困ると思い、正直に大学院に在籍中だと履歴書には書いた。

電話がなって、年度途中になってやっと採用される兆しが見えてきた。

大学院の先生や同期には、内緒で就職試験を受けていて、面接の日は、新入生の歓迎会の日と重なった。
しかも、東京へ行ったら最後、今の都市に戻れないということで、指導教官に面接の話をした。
指導教官のびっくりした顔は忘れられない。「修了演奏会が楽しみだ。」とまでおっしゃっていた指導教官は、ショックだったに違いない。それから、5年後に60歳の若さで亡くなったのだ。

そして、指定された日時に指定された場所へ面接に行った。
3つの配属先に、3人が面接で呼ばれていたから、電話で言われた通り、確実に就職が決まった。

その翌日、辞令伝達式があり、歌舞伎町へと出かけて行った。田舎から出てきたばかりの私は、ドキドキしながら歌舞伎町を歩いた。

職場に着いて、これから一緒に働く先輩と打ち合わせをした。
翌日は、土曜日で仕事は休みだから、私は、家探しをすることにしていた。

もともと就職が決まれば、伯母が一緒に家探しに行くと言っていた。

そのため、大学の時のピアノの先生が「家探しを一緒にしたい。」とおっしゃられたときも、断っていたのだ。

ところが、土曜日になったら、伯母が、「仕事が始まると大変だから、試練だと思って、家探しを一人でしておいで。」と言ったのだ。

それなら、ピアノの先生と約束しておけばよかったと思ったが、土曜日の朝に急に言われても、ピアノの先生は、レッスン日だし、一緒に家探しに行けない。
私は一人で家探しに行った。

東京23区の中で、住むなら、この区に住みたいと以前から思っていた区があり、そこの駅前の不動産屋さんに入った。

それで、お風呂とトイレが分かれていて、1階でない部屋で家賃の予算はこのくらいで、駅から徒歩10分以内と希望を伝えたら、2軒物件が出てきた。
すぐに、2軒の物件を見に行き、1軒目の物件に決めた。

2部屋あり、工務店を経営する大家さんが1階に住んでいる物件で安心だと思った。
大学の時も、工務店を経営する大家さんが2階に住んでいるアパートだったから、東京でも同じような条件のアパートを見つけられてよかった。

敷金、礼金などをおさめて、そのまま、新幹線に乗って、住んでいた都市に戻った。

仕事に必要な荷物をあらかた持って行っていたが、追加で運びたい荷物も出てきたし、翌週の引っ越し作業の準備と退学手続きのためにも戻る必要があった。

内定をもらってから、いつ声がかかって上京してもいいように、本棚の本は、ほとんど段ボールに詰めていたし、寮生活で、大型家具は、冷蔵庫、テレビ、本棚くらいだった。

平日は、伯母の家に居候をしながら、仕事をした。この時、伯母は、2軒の家をもっていて、2軒の家を行ったり来たりしていたので、朝は、Mの家から出かけても、帰りはSの家に帰るという日もあった。10日間ほど、ジプシーのような生活だった。

翌週末に荷物をクロネコヤマトに頼んだ。すでに、寮の自分の部屋は、からっぽになったので、後輩の部屋に1泊させてもらった。後輩は、大学院に来てまだ2週間で、よく泊めてくれたと思うし、1人用のベッドに2人で寝て、よく落ちなかったなあと思う。

そして、4月29日の祝日に、東京の部屋に荷物を入れることになった。

家探しを一緒にしたかったピアノの先生が、何よりも私の上京を心待ちにし、喜んでいた。「引っ越しの手伝いに行く」と張り切って連絡が来た。

それで、荷物を入れる日をお知らせして、到着を一緒に待った。

寮生活の後だから、食器棚とか、机とかの大型家具が全然なくて、段ボールがあらかた片付いたら、家探しの時に見かけたリサイクルショップへ一緒に出かけた。夕暮れ時に2人で歩いていたのだが、その時に、「ウィーンに留学した時も、こんな感じで夕暮れ時に歩いたのよ。」と話していた。
実際、リサイクルショップへ行ってみると、いい品物がなく、ピアノの先生の家の近所のリサイクルショップの方が品揃えがいいということで、そちらも一緒に行った。そこで、洗濯機、本棚、食器棚を買った。食器棚は、ピアノの先生の見立てで、「家具は一生ものだから、これがいいわよ。」ということで、しっかりしたものを購入した。

それから、5月の連休に突入した。また、ピアノの先生から連絡があり、「近所の電気屋さんでこたつが無料で置かれているけれども、いる?」と言われた。
どんなこたつか分からないけれども、ピアノの先生のお父様が見に行って、悪くない状態だったというので、お願いした。そのほかにも、衣装ケースなど先生の家にあって、使っていないものを車で運んでくださることになった。
この時、ピアノの先生のお父様は80歳を超えていて、久しぶりの運転だったようだ。
ピアノの先生は、「運転が怖かった。」とおっしゃっていたが、こたつや衣装ケースなどを運んだ。
こたつは、脚の部分とテーブルの部分が同じものではなかった。だから、無料だったと思った。まあ、サイズはあっているから、別に気にしない。

その後、ファミレスでピアノの先生のご両親とピアノの先生とお昼を食べた。
その時、ピアノの先生のお母様が、「なんだか、孫ができたみたい。」と話されたのが忘れられない。

お母様がそう思うのも、うなずけるからだ。

大学2年生の7月だった。
大学のオープンキャンパスがあり、私は、進学相談というのをピアノの先生とやっていた。なぜ、そういうのをやったか記憶にないが、高校生と保護者が相談に来たら、学生生活の話などをする役だった。

その時、ある親子が来た。その親子の出身地が私の母の出身県だったので、親しみを感じて、話を聞いていた。

相談が終わった後、ピアノの先生が、「大学の同級生の出身県と同じなのよ。郡まで同じなのよ。」と話しだした。

もともと私の母とピアノの先生は年齢が同じということは、音楽棟の管理人さんから訊いて、知っていた。

私は、ピアノの先生の同級生が気になった。
私の母の出身地は田舎だし、戦後間もない生まれの時代にピアノを習える家庭は限られていた。だから、母が話す同級生とピアノの先生の同級生が同じかもしれないと思った。

母がよく話していたのは、同級生は、ピアノを弾く手だから、重いものを持ってはいけないと教科書を2冊買い、1冊は学校に置きっぱなしにして、1冊は自宅に置きっぱなしにしていたようだ。掃除当番の時は、机を母が率先して運び、はたきだけ持たせたようだ。

それで、私は、名前を訊いてみた。
「同級生は、M.E.ちゃんって、いうのよ。大学受験の受験番号が近くてね、それで、仲良くなったの。」
名前を訊いても、私は分からないから、とりあえず、母に訊いてみようと思った。

他にも先生はいろいろ話しだした。
「生い立ちが複雑でね。養父母に育てられたのよ。お金の計算とかうるさくて、「なんでこの時に無駄遣いしたんだ。」とか言われて、本当の親子ならそんなことはないのにと話していたのよ。」

さらに、
「ある時、年賀状が来なくなって、養父母も年だから、養父母でも亡くなったかな?と思ったら、脳腫瘍で47歳で亡くなったのよ。最後は、『机』という言葉も分からなくなって亡くなったと聞いたわ。」

オープンキャンパスの進学相談は、結局1組の親子しか来なかったから、暇で先生とこのような話をして終わった。

その日の晩、実家に電話をかけた。
そして、母に訊いた。
名前は、M.E.だった。つまり、私の母の高校の同級生と、ピアノの先生の大学の同級生は同一人物だった。
母は、養女になっていたことは知らなかったし、脳腫瘍で亡くなったことも知らなかった。
母とピアノの先生が同い年なのは知っていたが、共通の同級生がいたとは世間は狭いと思った。
M.E.さんが生きていれば、ピアノの先生と母と3人で話が盛り上がっただろうに、それができなかったのは残念だ。

その後、母はすぐに写真を探し、高校のクラスの集合写真を送って来た。
それをピアノの先生に見せた。私が、「この人です。」と言おうとしたら、「ちょっと待って。」と言って、写真を見て、「この子でしょう。」とたしかにあてたのだ。

ピアノの先生は独身だが、私の母と同い年だから、私くらいの子供がいてもおかしくないわけで、ピアノの先生のお母さんが「孫ができたみたい。」というのもよく分かる。

そんな感じでピアノの先生が私の上京を楽しみにして、引っ越しを手伝ってくださったのだ。

さらに、我が家から徒歩20分のところには、大学の時の声楽の先生が住んでいる。
引っ越して数日後、歩いて声楽の先生の家に行ったら、バーベキューをしていて、お化けでも見るような感じでびっくりされた。
東京にいるはずがない私が歩いてあらわれたのだから、当然である。
就職が決まった話などをして、その後は、ご飯を食べにおいでと何かとお世話になった。電子ピアノを一緒に買いにも行った。

私は、大学の時のピアノの先生と声楽の先生の家の近くに住むことができて幸せだった。
この街の公立図書館の蔵書数が素晴らしくて、ドイツ語でカフカを読めたり、ロシア語でドストエフスキーやプーシキンを読めたりしたのも良かった。
居心地が良すぎて、ロシアに嫁ぐまで1度も引っ越しすることなく、13年も同じところに住んだ。
転勤族で各地を転々としていた私の人生において、13年も同じところに住んだのは最長記録だ。

#上京のはなし

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