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【映画批評】『トラペジウム』の東ゆうを『レッド・ロケット』における「自由の悪魔」像から紐解く

割引あり



■映画に燃え尽きてしまった今

 2023年に「死ぬまでに観たい映画1001本」掲載作品を11年かけて全て鑑賞した。この達成感は計り知れないほどのものだったが同時に、どこか抜け殻のようになってしまった自分がいた。

 中学生の時から映画にハマり15年近く毎日数本ペースで映画を観て、10年近くほぼ毎日映画の感想をブログにアップし続けていたわたし。ありあまる若さゆえの体力がすべて映画に注がれていた。しかし、最近「駆け足で映画を観過ぎた」と感じるようになった。もちろん、いろんな映画を貪るように観て得るものも多かったし、人生が豊かになったと思っている。しかし、映画一本一本や監督のキャリアとしっかり向き合えて来たかと訊かれたら胸を張って”YES”と答えることはできない。

 SNS時代になり、映画は瞬間的に消費されるようになったように思える。公開前にインフルエンサーが投稿するバズ構文に彩られた感想、公開日になって「絶賛」か「酷評」に分かれ狂乱となる様子、そして特定の評価に大衆が引き寄せられてしまう状況。これに危うさを感じている。実際に、オフ会などで集まった人の感想を訊くとグラデーションを感じる。だが、SNSで投稿する際には気を付けないと炎上してしまうが故に、繊細な感想は表に出てこないように思える。そして、映画は瞬間的には傑作でも時と共に批判的な目線が生まれることがある。そういった変化もSNS時代とは相性が悪い。

 また、映画ライターとして活動する中で試写会を制限するなど純粋な感想を発信する心がけは持っているものの、ある程度はバイアスがかかってしまうことがある。

 そんな状況下で堅実な映画批評を書くにはどうしたら良いのだろうか?先日、ある方に相談したところ、有料記事を勧められた。確かに有料記事として、賛否両論が分かれている作品や繊細に観る必要のある作品は書かれるべきなのかもしれない。そこで試験的に有料記事として月一ペースを目標に有料映画批評を書いてみようと思う。

■2024年の問題作『トラペジウム』

 第一回のテーマは『トラペジウム』だ。乃木坂46の1期生として活躍した高山一実の同名小説を映画化した作品である。主人公である東ゆうが、様々な学校から仲間を集めてアイドルグループを結成する内容として映画館で予告編が流れていた作品だ。そんな『トラペジウム』だが、蓋を開けてみると激しい賛否両論を巻き起こった。

 主人公である東ゆうが一見すると共感からほど遠い利己的な性格であり、人によってはサイコパス、クズといった印象を抱くキャラクター像となっていたのだ。また、ストーリーテリングも薄っぺらいと評価する人が少なくなかった。しかし、公開からしばらく経つと、数回鑑賞した人を中心に東ゆうに共感したり、彼女の心情を読み解こうとする人が増えていったのだ。

 これぞ「映画」だと言える。映画はフィクションである。身近にいたら嫌な人を通じて人間の本質が描けるのが映画だったりする。映画ライターをしていると、あまりに共感至上主義に成り果てた現状にうんざりすることが多いのだが、『トラペジウム』の場合、大衆レベルで共感とは違ったベクトルで物語を噛みしめ、自分の人生の糧にしていくような動きが感じ取れる。そのような状況を嬉しく思いながら、ブログ記事や動画をアップした私だが、SNSでの盛り上がりをみて、さらに掘り下げたくなった。

 というのも、時間が経つにつれて一本の映画が頭をよぎるようになったからだ。それは『レッド・ロケット』である。第77回カンヌ国際映画祭で称賛されている『Anora』のショーン・ベイカー監督が放った邪悪な「男はつらいよ」である。落ちぶれたポルノ男優が別居中の妻の家に居候する中で、ドーナッツ屋の女の子に惹かれるといった物語だ。このポルノ男優が東ゆうに匹敵する利己的な人物で、ドーナッツ屋の女の子に恋情があるわけではなくビジネスパートナーとして彼女を利用しようとしているのだ。彼女自身はそのことに気づかないグロテスクさがあった。

 公開当時、『レッド・ロケット』における主人公を「自由の悪魔」と定義し、資本主義の狡猾さを皮肉った作品として評価した。この評価を基に『トラペジウム』の東ゆうを分析するとどうなるだろうか?どうも自由の悪魔や資本主義とは結び付かないように思える。では、『トラペジウム』と『レッド・ロケット』はどこまで共通しているものなのだろうか?ここに東ゆうの本質が隠されていると思った。本稿では、両者を比較分析しながら東ゆうの輪郭を掴んでみるとする。

1.『トラペジウム』を整理する

 東ゆうは(結川あさき)が単身、お嬢様学校へ足を運ぶところから物語は始まる。周囲の生徒から異様な目、時には冷笑の眼差しが向けられる東は、フラストレーションから学校の看板を蹴る。キラキラ映画とは思える異様な光景だろう。誰しもが彼女にゾっとする状況の中、彼女はイケイケドンドン、学校の中を彷徨っていく。やがてテニスコートにたどり着く彼女は、成り行きで華鳥蘭子(上田麗奈)とテニス勝負をすることとなる。ここで彼女と親密になり、物語が動き出す。東ゆうには野望があった。それは東西南北の高校から才能を集めてアイドルグループを結成することであった。映画はとんとん拍子で仲間が集まっていく。工業高専でロボットコンテスト出場を目指す大河くるみ(羊宮妃那)、そして小学校の時の同級生でボランティア活動に励んでいる亀井美嘉(相川遥花)が仲間に加わる。

 だが、東の野望をメンバーに提示しないままコントロールすることにより栄枯盛衰の道を進むことととなる。仲間たちは、学校で孤立する中で同世代の友人と青春を共有している認識でいる。東だけがアイドルに本気であり、小さなチャンスを掴みながら、全員をアイドルの道へと引っ張る。見知らぬ人からの眼差しを苦手とする大河くるみが徐々に精神を崩壊させていく中でメンバーに亀裂が入り崩壊していくのである。

「人間って光るんだって」

とアイドルを目指している東にとって「アイドルになる」ことは手段ではなく目的である。アイドルになって何を叶えたいのかは映画の中では見えてこない。いくつものオーディションに応募するも落ち続けたアイドルを諦めきれない彼女がプロデューサー的ポジションからアイドルを目指す異様な執念だけが伝わってくるのだ。この執念は映画において、プロセスなきストイックなアクションの連続によって練り込まれていく。振り返ってみてほしい。彼女が仲間を作るシーンはいずれもアクションだけで描かれていることに気が付くであろう。

学校へ行く。テニスをする。仲間になる。
学校へ行く。ロボットコンテストに付き合う。仲間になる。
本屋で小学校の友達と再会する。ボランティアに付き合う。仲間になる。

各アクションで生じる人と人との対話は希薄で、場面の転換と共に結果が提示されるような作りとなっているのだ。ここで、くるみを仲間にする場面に着目する。彼女は最初、東を見るなり去って行ってしまう。見知らぬ人と対話をするのが苦手な彼女と良くない出会い方をしている場面であることが分かる。しかし、次の場面ではLINE経由で繋がって仲良くなるのだ。そして、東はプログラミング言語のテキストを読み彼女のことを知ろうとする場面があるのだが、それがどのように人間関係に作用するのかは描かれず、あっさり仲間として青春の一ページが刻まれるのである。

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