『パプリカ』感想
高度な技術は時として魔法に見える。ここ数ヶ月、Twitterを賑わせているAI描画ツールは、もはや魔法の域に達している。呪文を錬成することで、自分が意図した画を生み出すことができるのだから。
今敏が映画化したことで知られる「パプリカ」の原作を読むと、技術が魔法に見える瞬間の手触りを感じる。今回は、そこを中心に感想を書いていく。
技術が悪用された時、悪いのは誰か?
精神医学研究所に勤める千葉敦子は他人の無意識に侵入して患者のトラウマの根源を探り当てる「夢探偵パプリカ」の顔を持っている。パプリカは業界の中では噂の人物であり、その正体は誰か?と噂が絶えない。千葉敦子にも疑いの目がかけられている。そんな中、同僚の技術者・時田が開発したDCミニが盗まれてしまう。広範囲で夢に侵入でき、しかも夢の中で願ったものが現実にまで召喚できてしまう強力な代物。それが盗まれ悪用されつつある。この状況で悪いのは誰か?DCミニか?開発者の時田なのだろうか?敦子はこう語る。
結局のところ技術はあくまで技術でしかなく、悪いのはあくまで人なのである。では、もし技術が悪用された際にどのようにして立ち向かえば良いのだろうか?
技術が魔法に見える瞬間
本作では、夢と現実を明確に分け、他人の無意識に侵入する千葉敦子(パプリカ)の視点から描かれる。彼女は冷静沈着に心理学や哲学の理論を駆使して他者の思考を分析する。他者は、侵入されていることになかなか気づけない。読者である我々も夢を見るとき、自分の行動は制御できているようでできておらず、違和感がある光景もある程度は「そういうもの」として受け入れてしまう。夢の中で発せられる言葉は不明瞭だったりするのだが、筒井康隆は小説的な技法として「★△」といった記号でマスクを行い、それを表現する。
そんな彼女もいつしか何者かに侵入されてしまう。夢と現実の境界線を引き、その境目を行き来していたが、夢が現実に取り込まれてしまい境界線が見えなくなってしまうのだ。この様子を、「DCミニ」の一部が装着する者の身体に取り込まれる状況を見ることで彼女は認知する。彼女には高度な技術も理論も持ち合わせている。しかし、それでも迷宮から抜け出せなくなってしまうのだ。物語は、それに併せて用語も技術者用語から魔法用語へと変容していき、混沌のファンタジーへ我々を突き落とす。実際に第一部と第二部の文章を比較してみよう。
■第一部の文章
■第二部の文章
第一部は技術用語や心理学の用語が飛び交うが、第二部ではファンタジー世界の用語が飛び交う。技術を操るものが、技術を見る立場になった時、それは魔法の世界に感じる様子を文体で表現している。これは、夢と現実の境界線がなくなり超現実となった世界観とは何かを指し示している。
そう考えると、AI描画ツールで例えば、
「A photograph of a businessman do telework in the toilet,taken with Canon 5D Mk4(num_inference_steps=250)」
と詠唱することは、言葉自体はわかるがどこか魔法じみたものに見えるのだろう。AIの進化が著しい今、読むのにぴったりな一冊といえよう。
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