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にじフェス2022「不思議の国のアリス」感想

2022/10/1(土)・2(日)に幕張メッセでANYCOLOR株式会社が運営するVTuberグループ・にじさんじの大型イベント「にじさんじフェス2022」が開催された。

VTuberから感じる演劇、映画への技術的可能性

本祭で、一つ目を惹くものがあった。それは「演劇」である。物理的人間の動きとアバターがシームレスに動き生み出される体験は、いずれ映画にも応用されるであろうと、興味を抱いた当初から感じていた。MCUのようなハリウッド超大作では、グリーンバックの中で俳優が演技をし、後にVFX処理を行う。しかし、たとえば3Dライブのような技術を使えば、俳優もその場で世界に没入しながら演技をできるのではないだろうかと感じていた。

実際に仮想世界内でロケハンをして製作された『ライオン・キング(2019)』の例があること、また7月に行ったピーナッツくんのワンマンライブ「Walk Through the Stars Tour」を踏まえるとより一層、この技術が映画に応用される時代が来ると確信した。

さて、今回にじフェスでは演劇が行われたのだが、なんと演目が「不思議の国のアリス」であった。無論、にじさんじライバーに不思議の国のアリスをモチーフにした物述有栖さんがいるため、当然の企画であるが、映像技術の発展史において「不思議の国のアリス」は深く関係する傾向があるので興味深い。

また、私がVTuberを追うようになったきっかけが、物述有栖さんが5時間に渡り心音を聞かせるASMR動画だったのでワクワクしながら観劇した。

本題に入る前に、映画史の側面から「不思議の国のアリス」を語り、その上でVTuber演劇として本公演はどうだったかについて語っていく。

興味ない方は、『項目:にじフェス2022「不思議の国のアリス」評』へ飛んでください。

映画史から観る「不思議の国のアリス」

リュミエール兄弟が1895年に映画を発明して8年後に、「不思議の国のアリス」は映像化された。映像を使って、どんな表現ができるのか模索する時期にこの題材は最適であり、身体の大きさが変化する様子を、カットと画の重ね合わせで表現していった。

1910年になると、身体のサイズ変化はシームレスな画の重ね合わせによって実現される。『腰抜け二挺拳銃』で知られるノーマン・Z・マクロードが1933年に撮った作品では、アリスの画を縦に引き伸ばすことで、身体変化の表現を心みている。

一方で1915年に製作された実写化では、RTAばりに身体変化描写を全てカットしていくスタイルが取られている。

いずれの作品もセットを意識させた演劇的作りをしながら、映画的映像表現を見出そうとしているように思える。

そんな映画的映像表現としての「不思議の国のアリス」像の基準を作り上げたマスターピースが1951年のディズニー映画『ふしぎの国のアリス』だろう。

初期のディズニーアニメは非常に攻めた題材が多かったと考えている。1934年からハリウッドではヘイズコードという性や暴力にまつわる作品を自主規制する規定によりある種の検閲が行われていた。ヘイズコードを回避するために、ミュージカル映画や、ドタバタ喜劇(スクリューボール・コメディ)が作られていったのだが、ディズニー映画もその傾向があったと言える。最初の映画『白雪姫』こそ、原作にあったような残酷さは薄められているが、2作目に「ピノッキオの冒険」の映画化では、原作のドス黒さを消し去ることのできないグロテスクな風刺物語へと仕上げていった。『ふしぎの国のアリス』では、サイケデリックな色彩の中で、アニメが得意とする伸縮自在性を活用して、アリスの大きさを変容させていった。特に、うさぎの家で大きくなり、玄関から足が飛び出す場面は、当時のハリウッドとしては非常に官能的な描写であったであろう。ウォルト・ディズニーはヘイズコードに抵抗していた方だったのではと仮説を立てることができる。

本作の登場により、アリス=青のイメージが定着し、空間造形も本作を基準としたものとなっていったように思える。

黄色の服を着たアリス(IMDbより引用)
不気味の谷まっしぐらなチェシャ猫(IMDbより引用)

20世紀の終盤になると、VFXが発達し、人間の身体をアニメのように動かすことができるようになると、当然ながら「不思議の国のアリス」で実践的な映画が作られる。1999年版では、身体変化の他に、穴の落下における幻想的な演出や猫のCGに人間の顔を当てはめて不気味さを醸し出した演出に力を入れている。また、ディズニー版でアリス=青の図式が生まれてしまったことに反発するためか、元々想定されていた色である「黄」の服があてがわれている。

2000年代終わりになると『アバター』の登場で何度目かの3D映画ブームが巻き起こる。ここでティム・バートンがアリスの世界を用いた映像表現の可能性を模索している。3D映画として製作されているので、ケーキを食べて大きくなる場面では、アリスの目線でのカットが挿入されている。また、大きさの異なる存在同士、CGとリアルの人物を並べる場面が非常に多く、映像技術の発展を強調する作品になっているのだ。

閑話休題、にじさんじバーチャルライバーたちによる「不思議の国のアリス」はどのような表現になっていたのだろうか?ここからは演劇について書いていく。なお、ここから書く内容はネタバレなので、是非ともオンライン配信で観劇(2022年10月14日 23時59分まで)してから読むことをおすすめする。

にじフェス2022「不思議の国のアリス」評

平面的であった「不思議の国のアリス」

黒い空間に少女(健屋花那)と紳士(神田笑一)がいる。彼が指をパチンとすると、部屋が現れる。部屋はスクリーン全体に広がるのではなく、中央付近のみ、黒背景との境界が「小さな部屋」であることを意識させる。

ひとり悶々と自問自答している彼女の部屋に、黒い空間から紳士が侵入してくる。全てを拒絶する彼女に彼は物語る。それは「不思議の国のアリス」だった。

演劇の場合、平面的なステージをいかに立体的に魅せるか、観客に没入感を与えるかが重要だと考えている。スクリーンに映し出される演劇は、一見すると平面に押し込められてしまうので立体化させることは難しいのかもしれない。

しかし、にじさんじの3Dライブを観ていると、身体変化はもちろん、物理法則を自在に定義することにより、仮想空間でしかできないような空間作りを積極的に行なっていることが分かる。

なので、この演劇にもそれを期待していたのだが、大型ステージでの場数が足りないのか?または、技術的問題なのか、予想以上に平坦な画で構成されていたことは残念に感じた。

映像表現としての大きな挑戦はかなり避けられており、例えばアリスが穴に落ちる場面では、穴の様子を描かずに転換してしまっている。確かに高さが低いステージだということもあるが、横長を生かして、アリスをワイヤー移動させながら横移動させることで物理法則からかけ離れた穴の世界を表象することは可能だったのではないだろうか?

また、身体変化に関しても妥協が見受けられた。穴の底で現れる小さな扉。アリスの身体では通れないというのだが、明らかに通れるような大きさなのだ。「Drink Me」と書かれた小瓶を飲むと小さくなるのだが、その大きさの変化は微々たるものであった。

一方、森でアリスが大きくなる場面がある。低い高さを逆手に取り、前屈みになりながら森を狭そうに横移動する描写がある。この表現はスクリーンの制約を活かした場面であり、また原作から逸れた部分でも意欲的な挑戦であった。

身体変化以外の部分では、鉄格子をすり抜けられる/られないの演出やチェシャ猫(文野環)の瞬間移動は、仮想世界ならではの映像表現だったといえる。

ただ、全体的に映像としては物足りなさが残った。

また、にじフェスは文化祭をイメージしているのであろう、つまりこの演劇は「不思議の国のアリス」の世界を完璧に演じているのではなく、「不思議の国のアリス」のキャラクターを演じている知り合いを観る側面がある。文化祭の演劇において、知り合いの普段を知るものが、演技を通じて知り合いの別の面を感じ取り感情が高まる体験が中心にあるため、もし単純に「不思議の国のアリス」として見ると、バーチャルライバーの持ちネタや個性をアピールする場面が物語の停滞を引き起こすノイズとして映るだろう。映画における、お笑い芸人やタレントが映画の内容に関係なく持ちネタを披露することにより生じる物語的停滞がここにもあった。

アリスと世界の関係性に対する鋭い洞察

上記では辛辣な批評をした。しかし、内容面に関して非常に良くできた脚本であることは強調しておきたい。

「不思議の国のアリス」をテーマにした映画において、多くは「不思議の国のアリス」を描くことに特化している。「不思議の国のアリス」においてアリスと世界はどのような関係にあり、それは我々の世界とどのように結びついているかまで踏み込んだ作品はあまりないように思える。

この演劇ではそこにメスを入れた。

「不思議の国のアリス」は、少女アリスが不思議の国が織りなす理不尽に困惑する話である。アリスの身体は大きくなったり、小さくなったりするが、なかなか世界に順応できるサイズにはならない。他者と対話をするが噛み合わない。そこにモヤモヤしながら、右へ左へと旅し続ける。つまり、理不尽な社会の中で制御できない「個」があらわになり、それと折り合いをつけていく話だと分析することができる。

映画は、少女がアリスの世界を通じて「個」と向き合う話となっている。カリスマ性を持っている妹を「物語の主人公」であると定義し、自分は「物語のモブ」であることに嫌悪を抱き、それが妹への軽蔑に繋がっている。妹を軽蔑する自分にすら嫌悪を抱いている少女が、紳士の誘いにより「不思議の国のアリス」の世界に入る。物語に全然干渉できない彼女だったが、紳士の魔法によりアリス(物述有栖)と入れ替わる。主人公になるのだが、自己嫌悪により主人公になることを拒絶しようとする。

つまり、「物語の主人公」であると定義し、自分は「物語のモブ」であると認識することは、自分自身が主人公になれる可能性を否定してしまうことであり、それが結果として他者との対話を拒み、自分の中にある他者との対話の中で自分を裏切り続けることに繋がってしまうと物語っているのだ。

夢から覚めた少女は、扉を開け、妹と対峙する。そして社会と向き合う。社会は不思議の国同様、理不尽だったりする。だが、それと折り合いをつけることで誰しもが主人公になれるんだと観客に投げかけ幕は降りる。

夢オチで終わることなく、夢とは無意識が生み出したものであり、無意識の中での自問自答を通じて自分の進むべき方向を見出す物語に改変したところに本作の良さがある。

コロナ禍になり、毎日退屈な日常を送っている者、VTuberになったもののアクセス数が伸び悩み、周りを見渡せばカリスマしかおらず憂鬱になりそうな者などに刺さる人間讃歌の物語といえよう。

最後に、今回の演劇を観て、印象的だった俳優はジョー・力一さんである。ジョーカーのような風貌のライバーである彼は、官能的しなやかさのある動きで、空間を支配していたように思える。他のライバーは役というよりも本人を演じていた気がするのだが、彼だけは帽子屋に憑依していたと思う。あまり配信観たことないのですが、これをきっかけに追っていきたいものである。



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