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アサナガツカギオンチョウ

私の母方のお爺さんは、アサナガツカギオンチョウの農家の三男で、大人になってからは呉の海軍工廠で働いていた「らしい。」
わざわざ「らしい」と書いたのは、これが母による伝聞でしかなく、証拠がないからだ。

そして、お婆さんは、戦時中に、このアサナガツカギオンチョウの家に疎開しており、おそらく生年月日から推測するに、母は終戦の年の1月にここで生まれた。
このアサナガツカギオンチョウの地は、昔は山の中で、「マツタケなんてその辺に生えていて、よく蹴飛ばして遊んでいた。」ような地域だったらしい。

この場所、原爆の被害は恐らく受けていない。
なぜなら、祖母も母も生き続けたからだ。

しかし、祖母の知り合いは原爆で亡くなったそうだ。また、祖母の養父母も「カトク(カサク?)が吹っ飛んで、そのまま早死にした。」と聞いている。

祖母たち一家は、終戦後しばらく呉で過ごした後、祖父の再就職のため、大阪の泉大津の社宅へ引っ越した。そして、祖父は母が16の歳に亡くなり…何故か祖母は、縁もゆかりもない神奈川に引っ越した。

母によれば「広島の追悼式にも最初は行っていたが、ゲンスイキンとゲンスイキョウが別れて喧嘩しはじめた頃から行かなくなった」との事。
だから多分、神奈川に引っ越して以来、広島には行っていないと思う。

私が生まれた頃には祖母はまだ生きていて、7歳くらいまでの記憶によく登場する。
三つ編みを結ってもらった事、本棚によじ登って叱られた事、関東大震災の話を面白おかしく話してくれた事。
「おばけちゃんとムワムワムウ」と言う本が大好きで「ああ、大変、クロヒョウだ」と暗唱していたら、みんなが不気味がり、その時に祖母は「この辺にはクロチョウというこんな大きなチョウチョがいる」と、笑ってしまうような庇い方をしてくれた。

しかし、アサナガツカギオンチョウに関して、祖母の口から語られることは、結局なかった。
祖母は、神奈川県の湯河原の病院で亡くなった。私は中学に通っていた。親族が10人くらい、あとは誰も知り合いのいない、寂しいお葬式だった。

もっと長生きしてくれていたら、何か話してくれたのか…いや、恐らく何も語らないだろう。

雄弁に家系を語りたがる、父方の秋田出身の親族とは、対照的だ。

今、私は福岡に住んでいる。アサナガツカギオンチョウは、頑張れば新幹線で日帰りできる距離にある。
行ってみようか、しかし、「そっと埋葬した過去」を掘り起こす事に、何か意味があるのか。やはり、アサナガツカギオンチョウは伝説の場所として眠らせておくのが、良いかもしれない。

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