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【南大沢土木構造物めぐり】No12 南大沢という地名を歩く

 南大沢の土木構造物めぐり、今回の主役はずばり、「南大沢」という地名です。(土木構造物は出てきませんが、その点ご了承ください(笑))「南大沢」という地名を聞くと、何となく「南のほうにある大きな沢の地形」とイメージします。そのイメージは間違っていないのですが、では「南」ってどういうことなの?「北大沢」はあるの?などと連想してしまうのではないでしょうか。今回はこのような謎を、古い地図や街歩きを題材に、少し掘り下げてみたいと思います。

【南大沢のルーツ】
 下記に、明治39年測図、明治42年製版の「八王子」の地形図を示します。この地図は、「今昔マップ」という、埼玉大学教育学部の谷先生の研究室が提供している、地図閲覧サイトから引用しています。このサイト、2枚の地図(過去と未来)を並べて表示できる、「新旧地図のグーグルマップ」のようなサイトです。それが無料で使用できます。超・優れもののサイトです。南大沢駅付近の新旧地図を表示させたリンクを張りましたのでご参考まで(非常に面白いサイトなので、ぜひのぞいてみてください)。

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 少し話がそれたので話を戻しましょう。「南大沢」という地名は、南大沢駅のある、地図の中心上側の「瀧澤」という地名から南北に延びる澤の最上流くらいに、「清水入谷戸」「南大澤」と併記されています。当時は柚木村の一部でした。

 どうやら、「南大沢」とは、この清水入谷戸から延びる谷を流れる川が作った地名だったようです。

 少し話がそれますが、この地図には、「清水入谷戸」「九段甫谷戸」「内裏谷戸」「宮上」「松木日向」など、公園や学校の名前に昔の地名が残されていることが多いです。民間の開発された分譲地では、「●●が丘」のような全く縁もゆかりも無い地名が付けられることが少なくありませんが、ニュータウンの中では、従来の里山の自然や集落の地名が、公園などの公共施設の名前などとして残されています。地域の歴史を調べたい場合は、是非これらの名前の由来や、古地図を手に歩いてみるのが良いでしょう。

 なお、南大沢の古い地形と地名を直感的に知りたい方は、赤石公園の入り口にある、南大沢の今昔地図が役に立ちます。この地図自体、少し古いこともツッコミどころ満載で、今は無い「高校」の予定地(今の早実グラウンドのところ)があったり、「たきのさわ」が地形的に消えている(盛土されて埋められたと思われる)ことがわかったり、「かしゃご」「おおっぴら」が、「柏木」「大平」という名前に変わっていたり、「中郷公園」が別の場所(最近できた製薬会社の研究所の場所)だったりと、開発の歴史の一断面を垣間見ることができます。見ていて飽きない地図なので、ぜひご覧ください。

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 次に、もう少し古い地図(明治前期~中期にかけて作図された、「迅速測図」をもとに、同じ沢の部分を見ると、「大澤村」との記載が、先ほどの地図の「内裏谷戸」のあたりに見られます。すなわち、明治の大合併で、「大澤村」という地名が、由木村の「南大澤」という地名に変わった、ということです。どうやら、明治の「大澤村」はいまの南大沢という地名がつく付近全体を指していたようです。その中心が、今の南大沢交差点近くにあったようです。

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【南大沢の痕跡を散策する】

 少し歩いて「大澤村」「南大澤」の痕跡を見つけることができました。その状況を見てみましょう。「南大沢」交差点から下流側を眺めます。今でいうと、南大沢のデニーズとセブンイレブンがある交差点です。

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 いま、「南大沢」という沢は、すでに存在しません。明治迅速測図を眺めると、谷の平地の縁の部分に小川が流れていたようです。明治後期の測図では、「水田」の地図記号になっていたので、おそらくこの辺りは水田として土地利用され、「沢」は水田を潤す用水路として利用していたのでしょう。その水田地帯を、区画整理事業により住宅街にしたのが、いまのこの地区といえるでしょう。

 今は、沢の小川や用水路の代わりに、雨水枡から雨水の下水管がその役割を担っています。

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 南大沢交差点の近くの尾根にある、「日枝神社」に行ってみましょう。

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 尾根の上に通じる石段を登ると、少し古い祠がありました。

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祠の横にある、小さな社。石には少し見づらいですが、こう書いてあります。

「南大澤清水入講中」

 裏には、「昭和十一年二月吉日」という記載がありました。昭和時代は「南大澤」を名乗っているのですね。

 祠の少し下に祀られている石仏を見てみましょう。

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 こちらはもう少し古い石仏らしいです。右側の石仏の左横に、「大沢村」という記載があります。何かを供養した石仏のようです。いずれにしても、昔は「大沢村」であり、それが「南大澤」になったことは間違いないようです。

【「北大沢」はどこ?】

 では、「北大沢」とはどこにあるのでしょうか?ここは答えから。

 簡単に言うと、同じ地域(南多摩郡内)に「二つの大沢村」があったことによる、ということです。現代で言うと、久留米という町が、市制を施行する際、九州の久留米市との混同を避けるために「東久留米市」に改称したのと同じ原理といっても良いでしょうか。

 では、「北大沢村」はどこにある?答えは、上記のサイトにも記述されていますが、八王子でも北側、加住地区にあったということです。場所は下記のリンクのとおりです。

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 今でいうと、「道の駅滝山」のある、あきる野方面にまっすぐ通じる新道を八王子からあきる野方面に進み、創価大学のキャンパスを越えたあたりが、「北大沢」を名乗っていたようです。

【地図から消えた北大沢、有名になった南大沢】

 北大沢という地名は、最近の地図からは消えてしまい、すっかり忘れられた地名になってしまった感じがします。一方の南大沢は、地区の総称に採用され、京王線の駅名になり、東京都立大学(首都大学東京)のキャンパスや、アウトレットモールの名前にも採用され、すっかりおなじみの名前になりました。昔はどちらも大澤村でしたが、同じ南多摩郡にあったため、紛らわしいから「北」「南」がついた二つの大澤地区は、対照的な変遷をたどっています。南大沢という名前に秘められた、二つの大澤村の物語。まだ「北大沢村」には行けていませんが、いつか「北大沢村」の痕跡をたどる散策をしてみようと思います。

【追記】
投稿してから、北大沢という場所が知りたくなり、散策に出かけました。そこには意外な発見がたくさんありました。「番外編」に続きます。


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