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世之介と呼んでくれた君へ。(横道世之介)

ムスメと通っている町の図書館で本を探していたら、懐かしい小説を見つけたからそのまま借りることにした。一度、ハードカバーで読んだことがある。

いまから15年くらい前になるだろうか。大学からの友人が「この小説の主人公があなたに似ている」と言って、本を貸してくれたのだ。なんとも反応に困る貸しかたである。

大学を卒業してから数年。文学部を出ているくせに、めったに本を読まなくなっていた。でも、さすがに興味がわいて帰りの電車でページを開いた。さて、俺に似た主人公とはどんなやつだろう。ここまで先入観の強い読書体験は、なかなかないだろう。

その小説は『横道世之介』という。映画化もされているみたいだ。

正直に書くと、15年前に読んだときはピンとこなかった。たしかに僕は田舎町から上京してきたし、舞台は僕らの通った大学そのままだし、第二外国語はフランス語をとった。でも、もっとゲームばかりしていたような気がするし、サークルはもっとインドアなやつだった。それに、僕は世之介ほどまっすぐじゃないし、そもそもこんなにモテてもいない。……そんなふうに思っていたのだ。そのときは。

つぎに会ったとき、「世之介と、そんなに似てるか?」とか言って、あまり感想も伝えずに、本を返したように思う。「そっかー」と君は軽くつぶやいて、そこで小説の話は終わった。

でもね、今月に文庫で読み直して驚いた。まるで20年前の自分を眺めているように、世之介のことがバカみたいに愛おしいのだ。

自分のアパートにクーラーがないから友だちの家に入り浸る。バイトばかり行って授業をサボる。夜の外濠通りでもの思いにふける。「東京に行く」ではなく、「東京に帰る」と言って驚く。照れ隠しでつい悪態をつく。あの人にはもう二度と会わないのだろうかとふと思う。慣れない東京に憧れて、必死にカッコつけて。でも、なるべく悪いことはしないでいようと思っていたし、何事にも一生懸命でいようとしていた。そんな若いころの自分が、たしかにそこにいた。

なんのことはない。15年前の僕は、まだまだ若かったのだ。学生気分とは言わないが、思い出との距離がじゅうぶんに離れていなかったのだ。あの日々をちゃんと振り返れるくらい、僕も歳をとったのだろう。僕は世之介と違ってモテなかったけど、モテたかった気持ちは、まるまるいっしょだ。たぶん、そういうところもぜんぶ、君に見透かされていたのだなあ、と思う。

病院の敷地を出た車が大通りの車の中の一台になる。
あの二人にはもう二度と会わないのだろうかとふと思う。

吉田修一『横道世之介』

そして僕は、上京したあの日を思い出す。

あのときはまだ、人生に無数の可能性があって、その中から自分で道を選び取ってきた。年を重ねるごとに道がひとつひとつ消えていき、いまは目の前にまっすぐな道しかない。

選んできた道に後悔はないけれど、少しだけさみしさもある。選ばなかった仕事、選ばなかった運命。別の世界線にいる自分は、どこで、だれと、なにをしているだろうか。これからは、なにを目指して生きていこう。そんなふうに戸惑う気持ちもある。来月に40歳になるけれど、不惑だなんてウソだよな、と思う。

でも、もしあの日に戻れたとしても、やっぱり同じ道を選ぶかもしれない、とも思うのだ。上京した僕は、その足でまた家賃の安い、狭苦しい部屋に向かうだろう。そして同じようにプレイステーション2本体とBBユニットを買い、ヴァナ・ディールに降り立つだろう。学生会館に吸い込まれるように入り浸って、サークルのみんなと何日も夜を明かすだろう。丈夫さだけがとりえの、うるさい扇風機を買うのだろう。いまはもうない、あの古いゲーム屋でバイトを始めるだろう。そしてまた、君のことをどうしようもなく好きになるのだろう。

そのぜんぶが宝物のような日々で、『横道世之介』は、そのきらめきを思い出させてくれた。そんな小説に出会えた僕は、しあわせものだ。

世之介と呼んでくれた君へ。あのとき、僕にこの本を渡してくれてありがとう。これからもときどき読み返して、昔の日々を思い出すのだと思う。ムスメがもっともっと大きくなって、僕がどんどんオヤジになっていっても、世之介に会いに行けば、青春時代を懐かしく思い返せるはずだ。

よく笑う君やほかの誰かが、ときどき思い出の中から取り出して、あんなやつもいたなあ、と小さく笑う。世之介みたいに、僕もそんなやつになれていたらいいな、と思うのです。

また書きます。

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