言論の自由
私は今後の社会のデジタル化の波と少子高齢化の波を受けて多くの高齢者がサポートを必要とするようになると思っている。パソコンを教えるという仕事柄、そういった方々をサポートしたり、デジタル化の一部にしか触れる機会がない若い世代の人たちにも役に立つかもしれないと思って、自分の住む自治体の「生涯学習講師」というのに登録している。
先日、その登録者を対象にした講座の開き方の講座があった。自分はすでに20年以上講座や教室をしているが、講師向け講座ということで自分の気づかない点を見つけられるかもしれないと思い受講してみた。多岐にわたる講師や講師の希望者が集まり、初めは収拾がつかないのではないかという不安もあったが、講師は企業研修などでさまざまな分野を相手にやはり20年以上レクチャーの経験を積んできているだけあって、素晴らしい講義をしてくれた。
その講義の内容はさておいて、その講義の進め方について非常に感慨深いことがあったので、記してみたい。
それは3年半前から10ヶ月間滞在したフォルケホイスコーレの授業の進め方との共通点である。今回の講座ではいきなりペアを作れという。誰とでも良い。そして1分間の自己紹介と受講動機。テーマをあたえて自分で考え、ペアの相手と話し合う。ワークショップでは適当にグループを割り振り、テーマを与えてポストイットに意見を書き、KJ法風に模造紙にまとめる。また自分の特性を知るための実験をペアでやってみる。2時間半の講義はあっという間に過ぎていった。私は久しぶりにデンマークで体験してきた「ワクワク感」を思い出していた。
デンマークのフォルケホイスコーレは試験や成績のない、170年ほどの歴史を持つ独特な学校だが、授業の中では今回の講座のような進め方が普通であった。学生たちの端から順番に1から5までの数字をいわせて、同じ数字の学生が集まり5つのグループを作ったり、講義の途中でその時の話題について隣の人と1分間話をして、そのあとで意見を求めることも多々あった。初めから最後まで講義を聞くだけのことはまずないといって良かった。受講している学生が必ず何らかの形で行動する機会があるのである。隣の人と話す、自分の考えがまとまっていなくても構わない。意見を交換する。初対面の他人とその場その場のテーマで意見を交わす。実技の授業以外では必ずこのような行動が授業の中に組み込まれていたように思う。
初めのうちはこれがひどく苦痛だった。言葉が不自由だったということもあるが、意見が思い浮かばないのである。授業は先生から正解を聞くものという習慣が染み付いていたのだろう。質問はできても、意見ができない。授業の中で自分が(責任を負って)行動するということがなかったことに気づいたのだ。
今回の講座とデンマークでの授業の共通点は「安心して意見できる」という環境ができていたことだ。それは「相手を安心させる」という対峙的なものではなく、「ワクワクしながら一緒に話せる」という協調的な雰囲気である。
この、「安心して話せる」ということがどんなに素晴らしいことか、ようやく理解が深まってきたようだ。言論の自由というのはこのことか!と思ったことである。