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あり得ないこと

「あり得ない」という言葉は昔より頻繁に聞くようになったような気がする。非常に強い言葉である。どう考えても起こるはずのない、想像を超えた事柄を指す言葉である。
昔に比べて多く聞かれるような気がするというのは、それだけ言いやすい言葉になったからだろうか。強い刺激に慣れてしまってもっと強い言葉を使うようになったのだろうか。そうかも知れない。しかし、そこには何かものごとを自分だけの判断、自分だけの物差しで量ろうとする傾向が強まっているかも知れないという、そんな感じを受ける。かくいう私がそうだからだ。世の中シンプルな方がわかりやすいし、わからないことがあるというのは(傲慢にも)ストレスだ。現代の科学技術の進歩は無意識のうちにあらゆる正解を自分に与えてくれると思い込んでいる。だから自分が判断できると、判断してもいいのだと、思ってしまっている。
「あり得ない」とは自分が考える範囲のことではなく、たとえ「天」や、「神」がそれを考えたとしても「ない」というであろうことがらではなかったのか。それを自分から言うとなると、自分が「天」または「神」であるといってるようなもので、複雑で理解の及ばない世の中から目を背けて自分だけの狭い論理で強い言葉をまき散らしていることになってしまう。
そんな目くじらを立てるようなことか?と私の中でも反論が湧き出てくる。以前の私ならそこで終了である。他にも考えなければならないことは山ほどあると思っていたからだ。しかしデンマークのフォルケホイスコーレに滞在してこれでもかと言うほど「幸福」「尊厳」について考える機会を得た後では少し状況は違ってきている。人生は有限であり,その人生をどのように意味あるものにするかについて正面から考えさせられた。それが幸福ということだと何度も思い至った。するとやはり人との良いつながりをいかにたくさん作るかという、多くの人が主張し結論づけているところに感情的にも論理的にも行き着いた。そしてそこで特に大切だとされていたのは「対等」であった。身分制度、階級制度の問題ではなく、また「平等」とも違う、一対一で向かい合った時に自分と相手とが対等に接すると言うことを重要視していた。
対等に接すると、それは互いに相手を尊重することとなり、対話がしやすくなる。人との良いつながりが作りやすくなるわけだ。その意味で「あり得ない」は対話を拒む言葉である。それはつまり自分の人生を幸福に生きることを拒んでしまうのではないかと、自分を見て思うのだ。

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