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厚い信頼関係

デンマークは市民と市民の間、また市民と政治の間の信頼関係が厚いと聞く。日本でそのように聞けば「本当かな?」とつい疑ってしまいそうだ。しかしデンマークのフォルケホイスコーレに10ヶ月滞在して彼の地の個人主義であるとか、民主主義であるとかを市民生活と一緒に見聞したところ、それは確かにそのとおりであったと腑に落ちた。日本とは異なる文化の国のことである。同じ言葉でも表している意味が異なってくることを前提に信頼関係が対話を通して生み出されてくるということを考えたい。
対話と会話は違うという。どちらも話をするということだが、対話には目的があるという。ざっくりというと、一つのテーマについて互いの意見をすり合わせて結論を作り上げるのが対話という。日本での話しだ。なるほど、自分のイメージもそんな感じだ。うなずける。しかし、話をするときいつも会話だけとか、対話だけとかそういうことではない。会話的な部分もあり対話的な部分もあるというのが実際のところだ。デンマークで対話が信頼関係を生むのなら、日本でもそういうことはいえるのではないか。なにか違うのだろうか。
日本においてもデンマークにおいても対話ということの意味は同じだろうと思う。あるテーマについて意見を交わして結論を作り上げるということだ。ただ日本では何かについて論じる時、論じる人の「分」が意識される。その人に論じる資格があるかどうかということだ。資格というのは身分であったり、年齢であったり、周囲の評価だったりする。しばしば議論が人格を問題にしてしまうと感じられるのはこの辺が関係していると思っている。それを避けながらテーマについて意味ある結論を作り上げるという知恵は確かにある。つまりテーマを自分と相手との間において、それにフォーカスしながら
話すことである。話し手に触れないようにすることである。そして話し言葉として分に応じた礼儀を互いに尽くすことである。礼儀作法は尊重するための所作であるから、それに則って話をすれば互いに安心して意見交換しやすくなるだろう。まあ、面倒くさいことではある。
一方でデンマークでの対話にもやはり知恵があると思う。それは受け止めとヒュッゲである。デンマークで感じたことは、話し手に触れないという暗黙裡の了解がすでにできていることである。必然的にテーマは人の外に置かれて、それを対話で料理する。そこで最も良い結論を得るために安心して発言できる環境を作るスキルがある。その一つは受け止めである。相手が「賛成できない」と発言すると、日本では「自分が」否定されたように感じる。しかし実際は「テーマに対する意見」に同意できないという相手の意思表示であって自分という人格とは関係がない。だからここでは「何を言う!」と言う代わりに、「受け止め」が使われる。”OK。"である。この言葉は日本では賛同と間違われるが、そうではなくただの「受け止め=あなたはそのように思っているのですね」ということである。優れていることはこの言葉は自分を守るためだけでなく、相手も守る。相手の言葉をテーマの上に落とすと同時に相手は発言を受け止めてもらえたという満足感を得る。このプロセスを双方が行えば、対話は安心感の中に進行するだろう。そしてもう一つ、安心して対話が進行するための雰囲気を作るスキルがある。ヒュッゲである。心地よいくつろいだ雰囲気を感じられる場所と時間のことである。デンマークでは対話においてヒュッゲな場所と時間をいつも大事にしていた。例えば、花を飾る、暖炉であたたまる、ろうそくを灯す、などだ。殺風景な場所で怖い顔をして睨み合って「OK」と言ってもそれは受け止めにはならないだろう。互いに気持ちに余裕が持てる空気を作るということが大切なのである。
このようにして対話は丁寧に環境が作られて行われる。その中で意見を出し合い、受け止め合う、それが「信頼関係」と呼ばれるものだと感じた。日本では「全幅の信頼を寄せる」という言葉があるように、人格そのものを信頼するという意味合いが強いが、それでは信頼できる相手はかなり絞られてくるだろう。デンマークでは平たくいえば、「きちんとコミュニケーションがとれる」関係を信頼関係と言っているように思える。これは大変重要なことで、思想・主義が異なりどんなに嫌いな人であっても、必要なときはきちんとコミュニケーションがとれるという、一種の割り切り方のようにも思える。このような意味で市民同士の信頼関係が厚いということなら、なるほどそういうことかと、一つ納得するのである。

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