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論語に学ぶ生き方⑥

こんにちは。しいらと申します。
今回も論語から、成長に不可欠だと感じた言葉を紹介したいと思います。

1.子曰わく、
我れ三人行えば必らず我が師を得。其の善き者を択(えら)びてこれに従う。
其の善からざる者にしてこれを改む。


現代語訳は、こちら。
先生が言われた。
「私は三人で行動すると、必ずそこに自分の師を見つける。善の者にはその善を学ぶ。
善でない者には反省をすることで学ぶ。」

こちらは以前、③で紹介した
「賢を見ては斉しからんことを思い、不賢を見ては内に自ら省みる」
とよく似ています。大事なことは何度でも、心に留めておきたいですね。

人と関わるとき、人は自分と相手を見て、善き者か善からざる者かをなんとなく判断します。尊敬できるところとできないところ、優秀だと感じたり、そうでないと感じたりと。

その中で、「善き」と感じる部分に学びがあるのはごく自然なことでしょう。
では、自分の周りにあまり善き、と感じられる人がいなければ、学びはないのでしょうか。孔子はそうではない、と言います。

そもそも、人はその人の全てを知ることはできません。

一つ一つの行動の中に、善も悪も混じっていることがほとんどでしょう。善だから、悪だからと理由をつけることなく、どこからでも学んでやるぜ!という姿勢こそ、「我が師を得」ための行動と言えます。

2.生徒はいつも、師でもある


もちろん授業を行うことは、先生の仕事です。
ただ、あまりに生徒から学ぶことが多くて私の中では師でもある、という感想ですね。勉強を頑張る姿勢だとか、もしくは苦手になった理由だとか、とても素直で学ぶところが本当にたくさんあります。

たとえば以前、初めての授業のときから私のことを極力無視しようとする生徒さんがいました。初日から遅刻して、「今何やってる?」と隣の子に聞いたり、わからないところを質問したりと、とにかく私は視界に入れようとしないのです。

私が何かしでかしていたら申し訳ないですが、あまりに隣の子に声をかけるものですから、その子の学習の妨げになりかねないなと困ってしまって。なので「先生今手が空いてるよー?」とか「ココで止まってる?解説していい?」とこまめにその子に声をかけ続けました。

それを繰り返した先で少しずつ、信頼を勝ち得ることが出来たのでしょう。
ある日の授業で私に、こんな話をしてくれました。

「以前、別の先生に質問をしたとき「こんなのも知らないでよく○年生やってんな」と馬鹿にされた。それ以来、先生に質問するのが本当に嫌だった」

もう、本当に悲しくて不甲斐なくて、その生徒さんに思わず謝罪をしました。
どの生徒さんも、わかるなら塾なんていらないでしょ!わからないから塾に来てるのに!そんなことを言う先生がいるなんて!と、腹が立つやらガッカリするやら。それでも、先生という存在を全否定することなく、自分を信頼してくれたその生徒さんに感謝も溢れて。本当に素直で優しい生徒さんに出会えたと思います。

よく、塾選びで一番大事で難しいのは、先生との相性だと言います。
それでいて、先生というのは「先生」と呼ばれ慕われるために、ちょっと自分がえらくなった気分にもなりやすい、と聞きます。ベテランになればなるほどその傾向は強いでしょうから、いつだって自分を戒めるためにその言葉は握りしめています。

勉強って、わからなければ面白くなかったり、何の役に立つのか、子どものうちからはっきりと見えているわけでもなかったりしますよね。それでも頑張ろうとしている生徒さんをどう導いていくか、一緒にどう努力していくかを考えることは、人が先生をする一番の理由だと思います。

生徒さんの成長に自分が携わる度、先生として少しは良い仕事ができたかな、と思わせてもらっています。塾を卒業するタイミングで時々お手紙をもらったり、新学期のタイミングでメッセージを送っていただいたり、そういう経験が私を先生たらしめていると感じますね。

先生として良い成長をさせてもらったと、実感をもらっています。こういった学びは、いつまでも忘れずにいたいものです。

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