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論語に学ぶ生き方③

こんにちは。しいらと申します。
今回も論語から、大事だなと感じた言葉を紹介したいと思います。

1.子曰わく、
賢を見ては斉(ひと)しからんことを思い、不賢を見ては内に自ら省みる。


こちらは「人の振り見て我が振り直せ」に近い意味の言葉です。
現代語訳では、
賢明な人を見たら、同じようにあろうと思い、そうでない人を見たら、自分はどうだろうと省みることだ。
となっています。

①賢明な人を見る

例えば、テレビですごい偉業を成した人のニュースなどを見るとき「この人だから素晴らしいことが成された」とか、文字通り他人事のように感じることがあります。
オリンピックの選手だったり、人助けをして表彰された学生さんなど。素晴らしいな、と感動して、けれどどこかで自分には関係のない話だと思いがちでもあります。

素晴らしい人と同じようにありたい、そう成れるのであればそれは素晴らしいことと思います。でもどこか、別次元の話のようにも聞こえて初めから「いやいや、私には無理でしょ」と諦めている自分もいます。

オリンピック選手のように、昔から努力を続けてきたことがあるわけではありません。ですが、努力が身を結ぶ瞬間を見ることができたのだから、自分も何かここから、努力をしようと思うべきなのでしょう。とっさのことに対応するのがとても苦手な自分ですが、何かしらの準備などをして身構えることならできるはず。

そうして自分にできることを探すことが、素晴らしい人への敬意を体現する、ということだと思います。なかなか難しいですが、これも一つの目標の見つけ方でしょうか。

②不賢な人を見る

不賢とはどのような人でしょうか。人を見下したりするのは己の短所でしかありませんが、誰がどう見てもそれは愚かな行いだ!と思うことをしている人というのはいるかもしれません。身近でというより、ネットの方が見かけやすい気もします。

画面に文字を入力しているとどうしても、この文面を見る相手というのは対面のときと比べて薄ぼんやりしていまいがちです。私もこのnoteは好き勝手に書かせていただいていますが、時々ビューの数を見てわぁお!となります。

私の思う愚かな行為は、そんな風に画面の向こうにいる相手を考慮せず「言わなきゃ自分の気が済まないから」という理由だけで強い言葉を使うことです。常に誰かと戦わなきゃいけないような姿勢は、賢明とは思いません。現実ではなかなか口下手なので、ネットの文面くらいは優しい人になりたいものです。自分を省みていきます。

2.人の振りを見るとは、人を見る目を養う、ということ


授業中に生徒の振るまいを見ていると「この子はきっと成績が伸びるだろうな」、「この子にはちょっと難しいだろうな」というのが経験から予想ができます。勿論必ずしも予想が的中することはありません。授業では出来ているのに、テストになると本番に弱いタイプだった、と後から判明したり、実はテスト直前に火がつく効率重視なタイプだったりと、自分に見えていない部分があったりするためです。

見えてない部分は、生徒が見せていなかっただけというのもあるでしょう。しかし私が、普段の態度から予想しただけで、見ようともしていなかった部分があったのかもしれません。一人として同じ生徒なんていませんから、勝手な予想などせず、ただその子にあった勉強法を提供していくことを私は考えるべきだ、と思うんです。

その点、子どもというのは本当に大人をよく見ていると思います。

自分の態度に対してこの大人はどう出るかな?と常に試されているようにも感じます。「自分に勉強をさせようとするばかりで、こちらの話を聞いてくれない!」と思わせてしまえば当然、自分の話を聞かない大人の話なんて聞いてくれません。

反対に「あなたがこう言ったのだから、自分の言葉に責任を持とうね?」ときちんと聞いた上で対応すると「こいつに迂闊なことは言えないな」と考えてくるようになったりします。大人だって理不尽は嫌ですから、子どもだってやはり嫌に決まっています。都合のいいときにもう大人なんだからとか、まだ子どもなんだからと、使い分ける大人は信頼なんて得られませんよね。

論語は短い文で、的確な真理を教えてくれます。
理想の先生とはどうあるべきか、ただ一つではないであろうその姿を、まだまだ学んでいきたいと思います。

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