見出し画像

武田徹『日本語とジャーナリズム』

※2019年11月4日にCharlieInTheFogで公開した記事(元リンク)を転載したものです。


 ジャーナリストである著者は国際基督教大学(ICU)や同大学院で言語哲学や一般意味論を専攻し、アカデミズムから一時的に身を離れてもなお、日本語が公共的な批評やジャーナリズムの言語たり得るのかという懐疑を持ちながら物書きをしてきたといいます。この大いなる根本的な命題に森有正、本多勝一、丸山真男らを参照しながら取り組んだのが本書です。

 「武田君は私の研究を一番理解している」とまで言わせた指導教官・荒木亨が、著者が初めて雑誌の書評記事を書いた際に残した「武田徹は軽評論家になった」という言葉を、議論の出発点としています。学生時代以来の著者の個人史も踏まえた思索になっており、ともすれば抽象的、衒学的な印象を与えかねない議論に、主体性というか身体性というか、これは考えねばならないことだという説得力を感じました。

 特に面白いのは玉木明による無署名性言語システムの批判を紹介した第6章です。

 近代的合理主義の言語観においては、ハムスターを見て「ハムスター」という名詞を割り当てるように、モノと語は一対一対応が可能だと考えられてきました。しかし「ハムスター」と名付けた者は「ラット」や「ネズミ」とは名付けなかったように、ラットやネズミは異なるものとして呼ぶ言語習慣が「ハムスター」という命名に先行しており、言語習慣それ自体は恣意的なもので必然性はないとする言語観がソシュールやウィトゲンシュタインらによって主張されます。

 同様にニュースは「事実の客観的記述」ではなく「社会的構成物」であるという概念が浸透し、タイム誌がニュースとは「誠実なジャーナリストがしかるべき方法と視座のもとで事実を語る──したがって、解釈する──ときに、はじめて事実が明解になる」(181ページ)と書くほどになりました。ところが日本では戦時中の虚偽・偏向報道の反省から、「中立公正・客観報道」を旨とし、記者個人の判断を差し挟むのはご法度とされました。

 ゆえに日本の報道では「〜とみられる」「〜と思われる」のような無署名性、すなわち記者たる「わたし」を世間全体である「われわれ」の地平に引き上げて、「われわれ」を省くことで客観報道の立て付けを守るスタイルが定着したといいます。

 こうしたスタイルは、事件報道でも警察による説明を、こういう人間・状況ならこうなるはずだという類型化した判断によって「われわれ」の地平に引き上げ「〜が動機とみられる」のような報じ方に結び付き、これが誤報を助長すると玉木は考えるのです。

 さらに玉木は、朝日新聞のサンゴ落書き捏造事件も、誰も異議申し立てできない「環境保護の重要性」を認識する「われわれ」を担保するために、環境保護の重要性を説得的に訴える事実を作る「やらせ」が誘発されたと言うのです。

 無署名性言語が主語を打ち立てないことが誤報ややらせを誘発する。ゆえに言語システム自体を変えなければ、ジャーナリズム自体をより良くできないとして、玉木はオルタナティブな選択肢として三人称で物語のように執筆する「ニュー・ジャーナリズム」を提示します。ニュー・ジャーナリズムは記者の一人称が登場しないという意味では無署名性言語と同じでも、まさに目の前でその現象が起きたかのような臨場感を精緻な取材で担保し、ニュースソースすら明示せず書きすすめることで報道内容の全責任を記者が負うという意味で署名性が高いと言います。

 私としては、無署名性言語システムが誤報ややらせを誘発するシステムであるという点についてはなるほどと感じ、またニュー・ジャーナリズムも面白い方法だなと思いました。しかし疑問もあります。

 まず事件報道については玉木の論考ののち、裁判員制度開始の影響もあり「〜とみられる」文法の使用が抑制されています。「県警は」「捜査関係者は」を主語に「〜とみている」と、判断を「われわれ」の地平に引き上げることをやめ始めています。

 またニュー・ジャーナリズムは毎日毎日、判明した事実を書いていく進行性のニュースには適用できません。一方、政治面では時折ルポルタージュで三人称で書きすすめる方法が部分的に使われるものの、「見てもいないのに見たように書く」のは常に作り話なのではという懐疑を持ってみられます。取材源の秘匿原則から「関係者によると」と書くしかないのが関の山であっても、そうして信頼性の多寡を読者が判断できるのとできないのとではやはり大きな差があるのではないかと思います。もっと言えば「記者が責任を持つ」かどうかは読者にとっては知ったことではないのでは、とも。

 私なぞは本多勝一が言う、ジャーナリズムを可謬的なものとして、各時点で事実と判断したものを積み上げて本当の事実を探っていくやり方のほうがしっくりきます。

 本書は「批評」という行為で日本語が道具たり得るかという論考としては納得できるところが多いものの、これをジャーナリズムにまで広げて論じられるのかどうかは同意しにくいと感じました。特に、ジャーナリズムの具体的な例に即して論じた部分で、英米の報道文体との比較がなかったのは物足りません。

 とはいえ、日本語がどのような制約を持った言語であるかを相対化し、その制約の上でジャーナリズムはどのような可能性を持ち得るか考えることは重要です。ジャーナリズムに即した議論としては、職制としての新聞記者を経験しておらず、主に雑誌ジャーナリズムを主戦場としてきた著者の限界なのだろうかとも思いましたが、批評というより広い営みと日本語について考えるには、とても優れたテキストだと思いました。


この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?