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塩沢由典『増補 複雑系経済学入門』

※2020年5月25日にCharlieInTheFogで公開した記事(元リンク)から、本書に関する部分を抜粋して転載したものです。


 元本は1997年刊行。著者も執筆に加わった岡本哲史、小池洋一編著『経済学のパラレルワールド─入門・異端派総合アプローチ』(新評論)が昨秋出版され話題になっているタイミングで、約20年間の研究の進展を追記した上での文庫化となりました。

 本書は主流派経済学、つまり新古典派経済学は需要関数の前提である「無限の合理性」と供給関数の前提である「収穫逓減」を軸としてきたことを「非常識な仮定」と断じます。ここでは「無限の合理性」について触れておきましょう。

 需要関数は、個々人が自身の効用を最大化させるような財・サービスの組み合わせを選択する「効用最大化」という原理を下敷きにしています。ここで例えば、n個の財・サービスを「買う」か「買わない」の2択で選ぶとすると、組み合わせの数は「2のn乗」で表せます。しかし指数関数というのはnが増えると計算量が爆発的に増えるため、一つの財・サービスを買うかどうかに百万分の一秒しか費やさないとしても、財・サービスが30個あれば17分、40個あれば12日、50個もあると35年もかかってしまいます。人間の無限の合理性を前提とした効用最大化原理が非現実的である以上、需要関数の原理も非現実的です。

 あくまでもモデルなのだから現実と乖離があるのは仕方ないという考え方もあるでしょうが、その乖離の大きさは社会主義の計画経済とさほど変わらないはずです。

 とは言え人間は過去の経験や習慣を踏まえて、限定的な合理性を発揮し、そこそこの成果を挙げることができます。複雑系経済学は計画経済のような指令のない市場経済で、自然に生じる秩序がなぜそこそこの効率性をもたらすのかという点に着目します。

 面白いのは第9章「複雑系としての企業」で展開される「慣行の束」としての企業観でしょう。著者は、企業が少しでも利潤を大きくしようとして行動することを認めつつも、主流派経済学が主張するような、生産量や価格といった少数の変数の操作による利潤最大化追求という単純なモデルを否定します。なぜ効用最大化原理が働かない中で企業はある程度の効率性を生み出せるのか。過程の複雑性に関心を寄せる複雑系経済学らしく、「熟練」やさまざまな慣行が生み出す組織の自律的な働きにその源泉を求めます。逆に言えば経営者の役割とはその自律的な働きに介入して働きをより効率化させていくことだというわけです。これは企業で働く人達の実感にもある程度マッチする理論ではないでしょうか。

 アベノミクスや、その反動としてのMMT理論は、どちらも少数の変数さえいじればなんとかなるという発想から抜け出ていないものに感じます。むしろ過程の複雑性に着目するという意味では、現在の行動経済学ブームも本書と問題意識を共有していると言えそうです。こうした地に足の着いた議論こそ、読まれるべきでしょう。

(ちくま学芸文庫、2020年)


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