見出し画像

読書記録38 『私の親鸞 孤独に寄りそうひと』

五木寛之『私の親鸞 孤独に寄りそうひと』(新潮選書 2021年)


あいも変わらず、気になった本を次々に買ってしまい平積みのままの状態が続く。
むしろその山は着実に高くなっている。

最近『寄り添う』が自分自身のテーマというか、気になっているのだなと思った。そんな中で手に取った本が『私の親鸞』だった。(本というのは面白い。何かしら関係があるものを手に取ってしまう。いや本の内容に気になっていることを見出してしまうからなのかはわからないが。)

親鸞といえば、悪人正機。絶対他力。浄土真宗を作った人物だ。この本は、親鸞を詳しく知るような本では無かった。五木さんと親鸞の関係性を少し語る。読みやすい五木さんのエッセイだなとも思った。

五木さんは、自身の親鸞像と研究がすすみ理路整然とした硬い親鸞像とのイメージに違和感があるようだ。

少ししか語られていないが、トラウマのように戦後自分が生き延びた経験が根底にあること。悪いことをしないと生き延びれなかったことがひっかかっている。親鸞の悪人正機によって全てがチャラになる。カンタンに救われるなどということは「無い」。

『親鸞は弟子1人も持たず候』
フラットに上下の関係を作らないという意味もあるが。所詮、できる弟子でも全て理解することは不可能であるから結局は1人であるという意味合いもあるようだ。また、『教行信証』は情が入り込む余地のない理論が展開される。人はもちろん一面的ではなくさまざまな顔を見せる。

『教行信証』をまとめることが、『理』
そして、晩年まとめていた「詞」(曲をつけて歌われることを前提とするもの)は、『情』

五木さんは、今様でかかれたことにより
『情理かねそなえたメッセージとなるのではないか。「理」の人としての親鸞の、もう一つの側面がそこににじみでてくる感じがするといえば偏見でしょうか』(p157-158)と言う。
そして、歎異抄ブーム、研究が進むにつれ理詰めで人間味がないような親鸞像になっていることに違和感を覚え、親鸞は寄り添う人であると印象を語る。

親鸞の研究書も読みたい気分になった。
色々確認したい。

この本の中で印象的だったことは二つ。

一つ目は、本人が書いた著作よりも弟子や周りの人が書いた本が生き生きとその人を描く。そして、後世にも伝わる。そしてそれが大抵「子曰く…」のようなテンプレートを持っていること。対話の中で本当の形がつたわってきている。

二つ目は、戦争を経験した五木さんが『断末魔のきわどい時代に私たちは生きている』と言い切っていること。

そして今日、Twitterで目にしたヘーゲルの言葉も頭の中に蘇える。
「経験と歴史が教えてくれるのは、民衆や政府が歴史からなにかを学ぶといったことは一度たりともなく、歴史からひきだされた教訓にしたがって行動したことなどまったくない、ということです。」(長谷川宏訳『歴史哲学講義(上)』岩波書店、P19)

人間=悪人である親鸞も悩み続けた。
人間は間違いを起こし続けてしまう。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?