見出し画像

読書記録39 『読書について』

ショウペンハウエル、斎藤忍随訳
『読書について』(岩波文庫1983年)

読書について


読書について。
読書をテーマにした本は今も昔も数多い。
読書をしなさい。本くらい読みなさい。
本を読まなくちゃ…。

自分自身本を読むことは好きな部類であるが、積読が多く購入して満足してしまうことが多い。

気を抜くと、着々と高くなる積読の一部


いや、むしろ読書にはちょっとした億劫な気持ちもある。これは映画を好きなのになかなか見ることができないことにも通じているなとも思う。

本を読むということが時間的拘束となること。
映画を2時間強。同じところで見なければいけないというプレッシャー。しなければならない感がどうも苦手だ。

読み進めれば、ほぼ興味関心をそそられ自分のためになるくせに…。
見れば音楽やストーリー。映像を作った監督まで追ってしまうくせに…。

気持ち(気分?)が乗った時の読書や映画ほど楽しいと思えるものはないが1日1冊、1日1本なんて決めると作業感。仕事感がつきまとってしまう。

もちろん読書は必要だと思う。知らないことを教えてくれる。絶対にしたほうがいい。

学校には教員がいるが(まあ大層なものではないけれど)、卒業後、教え諭されるようなことは社会にでてからはない。どれだけ良書に出会うかが鍵である。(大学では何を勉強したのか?というほどしょうもない学生だったが、本の読み方以前に本の選び方のようなものを学べたことは大きかった。自慢ではないが、自宅の本棚の充実っぷりはなかなかだと思う。)


この本は薄い…が、160ページほどであるが読み応えがあった。読みにくいとも言える笑

しかし、内容は一貫していて過激な表現はあるものの言っていることは明確で明瞭だった。

「読書に関する…」というか、さまざまな情報が氾濫する中でいきている自分自身にとっては「メディア論」についてショーペンハウエルが論じている、愚痴っているようにも感じられた。

本もネットもSNSもマスコミもすべてメディアである。
昔はよかったではないが、新しいメディアが出てくるたびに否定され、広がっていくのが常。
ショーペンハウエルは、「本」をある部分では否定している。

そして、歴史を見れば本は次のメディアであるラジオや映画、テレビを…。テレビはインターネットを、SNSを…。良くは思ってきてはいない。

一見するとショーペンハウエルは読書を否定しているようではあるがそうではない。
「読書とは他人にものを考えてもらうことである。一日を多読に費す勤勉な人間は次第に自分でものを考える力を失ってゆく。」という文面を、読書をしなくても良いという免罪符のように感じるのは大きな間違いだ。

少し検索しただけで、SNSでは、本すら読まない若者を否定するおっさんを否定するためにショーペンハウエルを引き出しているような人も多くみられた。(本を読むことを最良のゴールに説教するおっさんも?だし、打ち負かすためにショーペンハウエルを持ち出すのも?だ。)

良書を選び、自身で読んで終わりではなく理解すること。そして、自身がどう行動していくか思索していくのかがあたりまえのように大切だし、本にはそれを今だに助ける力があると思う。

メディアリテラシーというマスコミなどの媒体が真実を報道してくれていたことが前提となる時代も終わり、「ポスト真実」という自分にとって都合が良いものが真実になってしまう時代。良書を選択するように良いメディア(=媒体)を選択できる識字(=リテラシー)を身につけたいと思う。

一方向ではなく、二者択一(白と黒)でもない。そんな、ものの見方を身につけたいですよね。


以下は備忘録。気になったことを書き留める。
読めば読むほど、友達がいるのか?偏屈?言い方がきついな笑とも…

1、セネカの言葉にあるように「何人も判断するよりはむしろ信じることを願う」からである。したがって、論争にのぞんで彼らが言いあらわしたように選び出す武器は権威である。(思索P20)

2、最近の発言でさえありさえすれば、常により正しく、後から書かれたものならば、いかなるものでも前に書かれたものを改善しており、いかなる変更も必ず進歩であると信ずることほど大きな誤りはない。(著作と文体P30)

3、匿名で書いたことのない人々に匿名による攻撃を加えるのは明らかに破廉恥行為である。(著作と文体P49)

4、一般に素朴なものは人をひきつけ、不自然なものは人をしりぞける。さらにまた真の思想家は誰でも、思想をできるだけ純粋明瞭に、確実簡潔に表現しようと努めている。(著作と文体P62-63)

5、フィヒテやシェリング、ヘーゲルのように知らないことを知っているように偽装したがり、考えも言いもしないことを、考えたり言ったりしているように見せたがる。(著作と文体P72)

6、表現の簡潔さとは、真の意味ではいつもただ言うだけの価値があることだけを言い、誰でも考えつきそうなことにはいっさい。冗長な説明を加えないこと、必要なものと不要なものとを正しく区別することである。(著作と文体P75)

7、…すなわち国語の貧困化である。しかしそれだけではない。その暴力のために消え失せていくのは語だけではなく、概念も消失する。なぜならば暴力的切断の結果、我々は概念の意味を確定する手段にも事欠き、語る際にも考える際にも「およそ、たいがい」という語で満足しなければならなくなり、そのため結局表現の力も思想の明瞭さも消失するからである。(著作と文体P99)

8、比喩はこのように知識を得るための強力な武器である。だからこそ目ざましい比喩をあげ、すぐれた比喩を見せてくれる人は、明らかに深い理解力の持ち主である…(著作と文体P120)

9、ドイツ人ほど自分で判断し、自分の判断で判決を下すことを好まない国民はいないのである。生活も文学もたえずそのような機会を提供しているのに、我がドイツ人は温順である。ドイツ人には怒りがない。鳩のようである。しかし、怒りを欠くものは知性を欠く。知性は必ずある種の鋭さを生む。(著作と文体P124)

10、…したがって読まれたものは反芻され熟慮されるまでに至らない。だが熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる。(読書についてP128)

11、したがって、読書に際しての心がけとしては、読まずにすます技術が非常に重要である。その技術とは、多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さないことである。(読書についてP133)

12、良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。(読書についてP134)

13、「反復は研究の母なり」重要な書物はいかなるものでも、続けて二度読むべきである。それというのも、二度目になると、その事柄のつながりが良く理解されるし、すでに結論を知っているので、重要な発端の部分も正しく理解されるからである。…二度目には…違った印象を受けるからである。つまり1つの対象を違った照明の中でみるような体験をするからである。(読書についてP138)

14、二つの歴史がある。すなわち政治史と、文学および芸術の歴史である。第一の歴史は意志の歴史であり、第二の歴史は知性の歴史である。したがって政治史は我々に不安を与えるばかりか、恐怖心までもひきおこす。政治史は大量の不安、困窮、詐欺、残忍な札員に満ちている。これに反して文学史は、孤独の智者のように喜ばしい空気、清朗な空気に満ちている。…文学史の主要部門は哲学史である。…だがそれだけではない。哲学史は世界を支配する。したがって真の意味の哲学は、もっとも強力な現世的権力でもある。けれども、その支配作用の歩みははなはだゆるやかである。(読書についてP140)

15、…けれども天才たちは決して周転円に迷い込みはしない。後世名声を博する者の多くは、同世代の者から迎えられないという憂目に会い、逆に今の世に迎えられる者の多くは、後世に無視されると言うことも、今述べた事情から見れば明らかである。…(読書についてP141)

#ショーペンハウエル #ショーペンハウアー #岩波文庫 #読書記録 #思索 #著作と文体 #読書について #ペシミズム #斎藤忍随

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?