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歴史教育は俗流歴史本になっていないか。(歴史学と歴史教育の関係についての覚え書き#2)

日本中世史の呉座勇一と歴史作家の井沢元彦の論争をご存じだろうか。

内容は見てもらうとして、歴史教育に携わるものとして、呉座の批判は自分に向けられているかのように突き刺さる。

呉座は、井沢的な「俗流歴史本」の特徴として、確からしさではなく面白さを重視していると指摘している。

『源氏物語』鎮魂説に典型的なように、確からしさより面白さを重視する点である。現代にまで伝わった史料は限られているので、過去の出来事を完全に解明することはできない。したがって、色々な解釈が考えられる局面はしばしば存在する。その時、歴史学者に求められていることは、選択肢の中から、一番ありそうな、最も確からしい解釈を選択することである。
 だが一番ありそうな解釈というのは、たいてい地味でつまらない。これに対し井沢氏は、読者の意表を突く奇説を提示する。それは歴史学界の通説より意外性があって面白いかもしれないが、歴史学者が思いつかなかったというより、まずあり得ないと思って捨てた考えなのである。
(呉座 2019)

歴史を教えているとき、つい自分が知っていること、興味をもった歴史的事象について、小話程度かもしれないが話してしまうことはないだろうか。それが歴史学の通説であれば問題ないかもしれないが、井沢のような俗流歴史本から得た知識である場合もあるかもしれない。

こちらは歴史に興味持ってほしくて、歴史の面白さを伝えたくて、そんな話をする。けれど、ほんとうにそれでいいのだろうか。善意からしている行為、使命感に駆られた行為だからこそ、危ういことに気づかない。もしくは誰かに指摘されても、素直にやめることはできない。

歴史を教える先生は、歴史のなにを教えるのか、歴史を通して生徒にどのような資質や能力を養ってもらおうと考えているのかを今一度立ち止まって考える必要があると思う。



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