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「なぜ秀吉は朝鮮に出兵したのか」

 文禄・慶長の役の概要

 天下統一をはたした豊臣秀吉は,2度にわたって,大軍を率いて朝鮮に出兵した。文禄・慶長の役(1592~98年)という。文禄・慶長ともに,当時の年号(令和と同じ)からとって,そう呼ばれている。文禄の役では,日本軍は漢城(現在のソウル),平壌まで占拠したが,朝鮮の宗主国である明軍の援軍が派遣されたことで,休戦を余儀なくされた。その後講和交渉が進められるも決裂し,慶長の役が起こる。だが,日本軍は大きな戦果を上げることなく,翌年に秀吉が没したことで,全軍が撤退して文禄・慶長の役は終了した。

秀吉が出兵した理由

 これが文禄・慶長の役の概要である。それではなぜ秀吉は朝鮮に出兵したのだろうか。歴史学会では諸説あるが,基本的に支持されているのは,全国平定を成し遂げた秀吉が海外の領地を求めて一方的に侵略したという解釈である。なかには,秀吉が自らを世界の覇者と考えた「狂気」として解釈するものまである。

参考文献

平川新,2018,『戦国日本と大航海時代』中央公論新社.

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