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12.7 mon 鴨そばとねむらない樹

 繁忙期だった11月は去り、12月の第一週が過ぎようとしているのに尚、繁忙期です。仕事の話。例年は暇なはずの1月も予約が埋まってきているらしく、嬉しい悲鳴をあげている。比喩でなく最近ガチで叫んでしまいます。歌うよりも爽快で困る。
 師匠も相当参っているようで、常に甘い物を食べている。ホワイトロリータが散乱するデスクは見ていてかなり怖い。
「休みたい」「だろうなと思います」「やーなんか、みんなでお金持ちになろうねえ」大仕事の後にそば屋さんに連れていってもらった。初鴨そば。師匠も出汁を飲んで喜んでいた。



 ねむらない樹のvol.5を読んだ。特集は『短歌における「わたし」とは何か?』。
 石井僚一さんの第57回短歌研究新人賞受賞作をめぐる論争(っぽい色々)をはじめ、作中主体と作者の関係についての議論はなおも多いみたい。
 特集での座談会で、柴田葵さんの『母の愛、僕のラブ』のあとがきについて言及されていた。「これは私の歌ではなくあなたの歌です」という一節について、そこまで言い切ってしまっていいのかみたいな話。確かに歌(ソング)には「これは自分のことを歌っていると思わせたら勝ちだ」という言説があるけど、そこを拠り所とするのは私自身なんだか釈然としない。
 それはさておき、ここまで読み手を巻き込んだ話は短歌史にあまりなかったんじゃないかなあと思う。短歌がポップカルチャーとして流布され出した今だからこそ、大きな揺らぎがあるのか。

 作中主体-作者-読者/リスナーの要素は音楽と全く変わらないのに、なんでこんなに土壌が違うかなあと思う。
発展してきた歴史、発表される環境、もちろん多分に違うわけだが、この先短歌もポップスのように流通し始めたら、作中の〈わたし〉のニュアンスを読み手・作り手双方が肌で感じられるようになるんだろうか。わりとそうなってほしいと思う。

 短歌史において私性の変容は無視できないが、かたや一様に変わっていくものでもないと思っている。
書き手が〈わたし〉をどう扱うかだけでなく、界隈・大衆が様々な〈わたし〉をどう受容していくか、というか。ぐんにゃりしている私性を受け入れてもらうためにみんな考え続けるんだろうか、とか思った。

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