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1.27 wed 回転寿司と魔法

 日の傾き始めるころ、ガソリンスタンドに寄ったついでに、近くにあったくら寿司に入った。平日の変な時間だからかご時世だからか、店内は閑散としていて、というかカウンターに一人客が一組(って呼ぶのか)いるだけ。無を乗せた寿司皿とポップだけが列をなして回っていた。
 なーにが回転寿司じゃ、なんてことは何年も前から言われているけど、改めて思う。回転寿司を知らない人がこの風景を見たら、寿司屋とは思うまい。この様相は陽気な工場である。
 コーンといわしを食べた。おいしかった。

 小さいころ、回転寿司は魔法のお店だった。魚介に興味がなかったからチープな軍艦巻きしか食べなかったけど、かわいいお寿司がたくさん回っている、それだけで心躍った。注文はしない。回っている皿を取りたくてたまらなかった。さび抜きのにぎりは注文しないと食べられない、だからなおさら軍艦ばかり食べたんだと思う。
 廻る寿し舟というチェーン店がある。ご存知だろうか。その名のとおり、回っているのは寿司皿を乗せた舟だった。みんな舟に乗っていたか、注文したものだけが舟に乗ってきたか、そのへんはよく覚えていない。
 実家の近所に初めてできた回転寿司屋はそれで、幼い私は大興奮したものだ。「かわいい」それがすべてである。流しそうめんは流れていてかわいい。回転寿司は舟に乗っててかわいい。そういう図式がたぶん、自分の中にあった。
 廻る寿し舟ができた1年くらい後、廻る寿し祭りというチェーンがその近くにできた。祭りと言われたらはしゃいでしまうのが子供の性である。祖母と兄と連れ立って行って、お皿だけが回っているのを見てがっかりした。特に祭りは起こらなかった。「こっちの方がおいしいんちゃうかな〜」とあてずっぽうっぽく言う祖母の言葉など意に介さず、私は頑なに廻る寿し舟を応援し続けた。がんばれ。舟を回してくれ。あえなく廻る寿し舟は数年後に閉店し、廻る寿し祭りも今はもうない。

 高校生、美術予備校生だった頃、高校から画塾までの間をよく歩いた。30分くらいかかるけど、バス代を浮かせたくてせこせこと歩いていたのだ。道中にはパン屋さんや丸亀製麺、マクドナルドがあって、たまに立ち寄った。住宅とスーパーしかない家の近所から離れて、なんだか大人になったような楽しさがあった。
 定期テストの時期、学校は午前で終わる。画塾に行く間に何か食べようと思って、初めて一人で回転寿司屋に入った。スシローだった。
 寿司=贅沢品という思い込みがあったけど、考えてみれば300円で十分な昼食になる。一方安い=丸亀製麺だと思っていたけど、かしわ天でも食べようものなら700円はくだらない。お寿司食べてもいいんだ、と思って、セーラー服でカウンターについた。
 得たのは、私は一人で回転寿司に行けるんだなあという満足感と、寂寥だった。自分の力では手に入れられない魔法、それも舟が回っているみたいなエキサイティングな魔法は、もうそこにはなかった。言っても親からもらったお小遣いで行ったわけだけど、スシローはコンビニと同じ感覚、値段で果たせてしまうものなのだ。10月の国道を歩きながら、回っていた舟のことを思い出した。

 今でも回転寿司が好きだ。舟に乗っていなくても、お寿司が回っているとそれなりに嬉しい。ケーキも回ってほしい。ただ、それは魔法ではない。ビールもパフェも自動車も魔法には足りないと分かって、その度に少し寂しい気持ちになる。新しい魔法を見つけなければ、と焦る。ときめき続けなければ心は死んでしまう。

 去年、人とごはんに出かけたとき、雑炊を頼んだ。出された雑炊に友達が手をのばす。雑炊よそってんなーと思ってぼーっとしていたら、それを差し出された。なんかうっかり泣きそうになった。
「私の?」「うん」「ありがと〜嬉しい〜」「あ、うん、そんなに…?」
 雑炊をよそってもらう。水を注いでもらう。抱きしめてもらう。そういうこと全部が、大人になった私にとっての魔法だ。あなたたちがいるから大丈夫と、魔法をかけてもらうたびに思う。


ごらん。あれが虹。夢を現実の対義語にしなくても生きていけますように
(2019.10
2021.1 改)

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