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3.20 sat 朗読って何だ


 朗読。とは何なのか。ちょうど一年くらい前からモヤモヤと考えている。詩歌という朗読に親しげなジャンルを手に取りながらも、それまであまり踏み込んでこなかった。模範解答的な感情を込めた朗読が昔から好きではなかったのだ。
 書きものが既に作品としてあって、それに声で身体を与えるという行為に抵抗があったんだろう。一年前、自分が書いたテキストに、こんなものがある。

 活字は表現様式の中で突出して概念に近いと思う。ほとんど身体がない。視覚で認識する、頭の中で音声になる、読み進めていくのに時間を使うけど一方通行ではない。物質的な拠り所がほんと、フォントくらいしかない。文字には大小もあるけど、それは文字そのものの身体であって、文章の身体ではないのだ。
 声に出して読むことは身体を与えることではなく、奪うことに近いのではないか?意味を日常言語に翻訳しながら"感情を込める"ことで、文章に憑依することはできない。憑依というのは多分、感情的な何かにではなく、純粋な行為そのものに没入したときに起こる現象ではないだろうか。自分にとって活字は、意味を持った言葉である以前に、活字であるという感覚が強いのかもしれない。

 ハンバートハンバートのインタビュー記事を読んで、共感を覚えながら書いた記憶がある。このインタビューです。

 「正しいブレスとピッチで歌うこと」音楽でのそれに相当するものは、詩歌では何なのか。短歌、散文、物語、それぞれ違う気がする。
 朗読が苦手だと言うのとは裏腹に、絶対違う形で朗読ができるはずだと思い、こそこそと詩を読むのを録音していた。

 そんなことを考えている間に、朗読の機会を得た。自分は読むのではなく、書く側。詳しいことはまた書きますが、友人と共同で散文と朗読の上演をやったんですね。私が書いて友人は読む。書かれたものと声に出したものの一つにならなさを尊重する、大雑把に言えばそういった試みだった。
 結論から言って、書いたものを声に出すことに対する抵抗は完全になくなった。読み手であった彼は、疑いようもないほど憑依していた。それは文章にではなく、文章の根っこに宿る、主体のはっきりない意識にだ。

 それからしばらく後、冒頭に載せた動画に出会った。吉田恭大の『光と私語』の朗読動画。読み手二人がそれぞれ、同じ歌を一回ずつ読む。その丁寧な手つきが美しいと思った。憑依ではなく、人が人のままで歌の意識を掬い上げようとする最初の読み。つまづきや戸惑いがそのまま記録されていて、人と歌の間を実直に切り取った朗読動画だった。
 歌そのものになろうとすることだけが朗読ではないのだ。自分の身体を保ちながら歌と接するための読み。そういうこともできるよな、と気づいて、朗読を面白がれるようになった。

 歌は声になる。それをポジティブなこととして捉えられて、作歌のスタンスが少し変わった。歌そのものの捉え方も変わったかもしれない。一線を引く、没入しようとする、どちらも人と歌の関係として楽しい試みだと、今は思っている。

はちみつを掬う匙からかげぼうししたたる間は止むなソプラノ
(2020.10)

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