見出し画像

「『ザリガニの鳴くところ』その感想」

作・ディーリア・オーエンズ
訳・友廣純 

閉じられている本の中身はどうなっているのだろうか。
 私は、その瞬間瞬間がページ毎に止まっているのではないかと心配になる時がある。この本は特にその気持ちが強く、あのページで彼女がポーチのベッドで耳をそば立てていないだろうか、淋しさの中で波に囁きかけていないだろうかと考えてしまう。        
 
 この作品『ザリガニの鳴くところ』との出逢いは、誕生日プレゼントはなにがいいかと尋ねられ、所望したのがきっかけで二年程前のこと。
 読み始めたらページを捲る手が止まらなくて、私はなんて嫌なやつなんだろう、こんなに嫌な予感がしているのに読んでしまうなんてと幾度か思ったものだ。
 
 久しぶりにこの本を書棚から取り出してみる。ふと、本の天地を逆さにしてみると、もちろん表紙の絵も逆さまとなる。すると、湿地の水面に映った彼女のほうが実体のようになり、実体であったはずの彼女が水中に沈んでいるように思えるのだ。
 その逆さの絵を見ていて私は、揺らいだ姿の彼女のほうが、彼女の内面までを映し出しているようで、湿地の水面はやはり本当の彼女を知っているのだと合点がいったような気がしたのだ。
 本の向きを元に戻し眺める。
 くっきりと描写された彼女はみんなが見ていた彼女。水面の姿が彼女の内奥。そんな風に思えて、この本の書影の素晴らしさに改めて気が付かされたのだ。
 本の厚みとその重さを手のひらに感じながら、この本を開くと起こることを思い出し、そうしてもう一度本を開いた。そこには、まだ六歳の彼女がいた。
 
 この物語の素晴らしいところの一つに、その卓越した描写力がある。
 まずは情景の描写。
 少女の爪先が湿地の水面に濡れた時の清涼なやさしさを私は知っているし、あのボートが、タタタタタと滑るように走り出した時の、風にほどかれてゆく髪と悲しみを確かに見たような気さえする。そのつぶさな自然の描写のおかげで、私自身が羽の文通を木立から見守り、その時に木の皮の湿った土のような匂いを嗅いだような気さえするのだ。
 
 村の描写どうだろう。
 瓶を水に沈めると空気のあぶくが抜けて真空になる。呼吸がままならない。その感覚が村にはあって、息苦しくて肩がつりそうで、まだ肺に残っている空気をこぼさないように、口をきゅっと結んで身体も硬直して、そのカイアの緊張が伝わってくるのだ。
 
 描写力は情景だけにとどまらない。人物や生物の機微をぬかりなく掬い取っているのも素晴らしい。ディーリア・オーエンズの確かな生物の知識に裏打ちされた視点からの活写に釘付けになる。ホタルや水鳥たち、そして人間。オーエンズの紡ぐ言葉の一つ一つは繊細ながらも厚みがあり、ゆえに言葉から影が伸びている。その影は行間にまで伸び、行間に深い意味をもたらしているのだ。
 
 もう一つ気に入っているのは、色彩に関する描写だ。
 湿地の世界は、おはじきをこぼしたような彩りに溢れカイアを癒す。鳥の羽の彩りやレヴロンのピンクのマニキュアの思い出、テイトと二人で見たたっぷりと雪が降り積もったような白さのハクガンの美しさ。そして、メイベルの広げる色鮮やかなキルトなど。
 彩りは、生活とともにあり、と同時に淋しさを埋めたり心を支える役割を果たしているように思える。
 この作品の世界は世界は六十年代後半。私たちと同じカラードと呼ばれる人たちなどは、今よりもさらに苛烈な環境に置かれていた。そんな生活にこそ、彩りを。そんな心細さを払拭し、強くあるために必要なのは明るさや美しいという感情なのかもしれないとこれらの色彩の描写で気が付かされた。
 
 三つの描写の素晴らしさ、そうして編まれた物語が私を湿地へ連れてゆく力はすさまじく、あの時、私がなにも出来ずに、或いはせずに物陰でじいっと見ていたような気さえするのだ。足の裏にすいつく湿地のぬかるみのどこかに私の足の跡があるようにすら思える。けれども若しあの場所にいたとして、私はどうしていただろう。なにか出来ていたんだろうか。叶うならば、ただカイアに笑ってもらえる湿地の生き物でありたかった。
 
 この物語の厳しい現実の中、カイアはひっそりと息をしている。
 
 怪我をした鳥を仲間であったはずの鳥が痛めつけるように、何かが大多数と異なると見做された人はは石つぶてを投げつけられる時代。いや、この時代はまだ終わってはいないのだけれど。
 鳥たちがそうなのだから、ヒトもまた本能のレベルで自分たちの群れを守るためにそうするようにプログラムされているのだろうか。
 そうした大人ですら耐え難い群れの圧の中を、少女のカイアは生きなければならない。
 
 カイアの物語は、ひりひりとしていて安心できることが殆どない。
 そんなカイアも晩年は、穏やかに暮らせたのだろうか。どうだろうか、ラストのあの場面。ページにすると二ページ程の書き記された事実に身が固まる。心臓のうなじにみぞれをかけられたようになる、
 ああ、カイア。テイト。手の届かない遠い場所の出来事だというのに、身体が叩かれたあとの鐘のように震える。
 なんという読後感なのだろう。
 
 読書が大切だというのは、こんな風に自分じゃない誰かの人生を嗅ぎ、誰かを心配したりほっとしたり、振り回されたりするうちに慮る心を教えてくれるところだと改めて思うのだ。
 自分自身を癒すのは自分ではあるけれど、人は一人では人であることが出来ないから、今は誰とも会いたくない人も、誰かなんていやしないと思っている人も、本を開けば会える世界がある。、
 人は人と関わることで、血行を良くし、鼓動をさらに意味のあるものにする。カイアがジャンピンを父のように慕ったように、メイベルの柔らかな胸に安らぎを得たように。関われることで得られる治癒成分は計り知れない。
 そのことを、二度目の読書で気づかされた。
 
 本はまた閉じられ、次に開く時にはまた新たな気づきを与えてくれるのだろう。それは、閉じられている本の中の世界が確かに息づいている証だ。
 本は形だけではなくその役目もドアに似ている。本は読み終わり、ドアは閉じられる。
 ドアの向こうで出会った彼女たちや生物たちや草の花は私の心の中にくっきりと残っている。
 けれども、彼女たちに私は気づかれていない、気づかれることはない。そのことが私を幾許か悲しませる。読書が私をほんのり傷つける瞬間である。
 けれど傷は水脈になり、渇いた地面を肥えさせる機能がある。そのはずだ。
 いずれ私の中に干潟が広がり、ザリガニやゴイサギも棲むだろう。その証拠にこの本を読むと、顔から塩辛い水がつたいだす。ああ、海水が干潟に流れ込んでいるんだ。 

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?