"頑張りすぎ"という言葉に吸い込まれて

なにかしら悩んだり、頭が重くなっている時、私の出す答えは、"頑張りすぎた"という言葉。

すぎたのかすぎてないのかを測るものさしってものがないから、"頑張りすぎた"という言葉は実に、人間の詰めの甘さが浮き彫りになった感じに聞こえる。

でも、ふいに口から出てしまうのは何故だろう。

それは、"頑張りすぎた"という一言で、休むことが許される瞬間があるからだ。

休むことは許さない。もちろん、一息つくことやため息をつくことなど。
勝手に出るため息なんて、許されたもんじゃない。

と、人間の身体を持ってしまったことを憎むような言葉が平気で出てくる。

だから、"頑張りすぎた"という言葉は、あまりにも身体の力を抜き、空気がどこかから漏れているような身体にしてくれる。

"頑張りすぎたのだ"と口にしようとした瞬間、それを引き止めようとする私もいる。

そんな狭間を行ったり来たりしている私に対してまた、頑張っているという事実がある。

どうすれば良いのかわからず、また頭を抱える。


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