今日は911の日

もう忘れているかもしれないが、2001年の今日、ニューヨークとワシントンDCで同時多発テロ事件が起きた。

あれからずいぶん長い年月が経ち、メモリアル・デイの今日であっても日本のメディアはほとんど報道しなくなった。現地アメリカでも911を知らない若い世代が生まれている。

けれど私は毎年、今日がくるたびに、改めて当時を振り返り、自分の原点を見つめることにしている。

そう。911は私の生きる原点なのだ。

2001年9月11日。火曜日、朝9時。それは起きた。私はサンフランシスコにいて、フランス語の授業を受けていた。ニューヨークでテロが起きた時は、西海岸と東海岸の時差もあって、電車に乗っていたりしてまったく知らず、教室に着いた時に、いつもと様子が違うことに戸惑った。

フランス語を教えるエリザベス先生は泣きそうな顔で、他の教室から大きなテレビを運んでくると、学生たちにニュースを見せてこう言った。

世界中の人たちが憎しみを捨てて、愛し合えるように。これからどんな世界になろうとも、それが憎しみではなく、優しさに包まれるものになることを願います」

当時はただ混乱していて、何を意味しているのかよく分からなかったが、今振り返れば、エリザベス先生の言葉はその後に来る世界を予言しているようで、とても示唆に富んでいたと思う。そして先生はあの頃のあの段階で、憎しみよりも愛をと呼びかけていたのだ。

911は私が人生で初めて、間接的にもテロというものを経験し、そして人々がそれにどのように対応するかを知った出来事だった。 

911が私にとって衝撃だった理由のもうひとつは、その当時のニューヨークがつい最近まで暮らしていた街だったことだ。

私はサンフランシスコに移る前までニューヨークにいた。アメリカの学校はどこも9月始まりだから、それに合わせてニューヨークから引っ越してきた。つまり、私があの街を出てまもなくして、あの街はテロに遭ったのだ。

被害にあったのは自分だったかもしれない。そんな想像も容易にできた。とても他人事ではなかった。ニューヨークにいる友人知人に片っ端から電話をかけまくって安否を確かめた。

それまでニューヨークには3年間暮らしていた。ニューヨークに3年というのは短い期間だけれども、とても刺激的で、多くの人間たちを見た。差別を目の当たりにすることも多かったし、自分が差別に遭うこともあったし、理解しあえない者同士が派手に喧嘩をするのを目撃したこともあったし、肌の色の異なる者同士の陰湿ないがみ合いに居合わせたこともあった。

人種の問題だけでなく、ニューヨークは貧富の差が激しい街でもあった。努力などではとうてい越えられない、愕然とするほどの格差がこの世には存在すると肌で教えてくれたのも、この街だった。

あの街にいた3年間で、私は世界を知ったような気になっていたのだ。

サンフランシスコに移った時は、ニューヨークよりも街の規模が小さくて、人間も穏やかなこの街のことを退屈だとさえ感じた。

そんな折に911が起きて、私の視野は180度転換した。厳密に言えば、転換したというよりも、大きく広がったのだ。

今まで世界を知ったような気になっていたけれど、世界は私が思うよりも、はるかにずっと広くて多様だったのだ。当たり前だけど、その事実に圧倒された。

ニューヨークは人間たちの喜びも愛も安らぎもあり、ポジティブな側面もたくさんある街だけれども、一方で憎悪や劣等感や苛烈な競争など人間の嫌な部分が剥き出しになる街でもあった。しかしニューヨークよりも、はるかに遠い国々ではもっと強烈な憎悪が、それも長きにわたって溜め込んできた憎しみがあって、それが911となって爆発したのだと思った。

倒壊する2つのビルと、逃げ惑うニューヨーカーたちを映像で見ながら、私は世界をこれっぽっちも知らなかったと痛感したのだった。

今日を自分の原点にしようと、私は誓った。

これからも人生で、世界中の多くの人々と知り合っていくだろう。目まぐるしいスピードで進む世界で巻き起こる様々な出来事を、直接的にも間接的にも経験していくだろう。人との出会いも、出来事との遭遇も、私はそれらひとつひとつを味わうようにして向き合っていきたい。世界を知ることはできなくても、自分なりに世界を感じていくことならできる。その姿勢を失ってはいけない。

あれ以来、世界のあちこちで多くのテロが起きた。テロだけでなく大きな震災や激しいデモも起きて、世界はますます混迷を極めている。

そんな世界だからこそ、私は911のあの日に自分に誓ったことを思い返し、自分の目で世界を歩いていきたいと思う。




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