毎日どこかの線路で誰かが命を絶っている国なんて悲しい。
先週の金曜日、私が通勤する電車の路線で1日に2度も人身事故があった。昼の2時と、夜の9時。
その日、私が電車に乗ろうとした昼どき、駅のホームは止まった電車を待つ人々で混乱していた。電光表示のボードは消えて、駅員のアナウンスの声が「振り替え輸送」を行いますとひっきりなしに叫んでいた。ようやく電車は来てなんとか乗り込むことができたので、アポの時刻に遅れることはなかったが、その午後はその路線沿いのどこの駅でも多くの駅員たちや、困惑した表情の乗客たちがホームに出て、わさわさしている雰囲気に包まれていた。
そしてその日の帰宅時、同じ電車がまた止まっていた。再び人身事故が起きたというアナウンスが大音量で流れている。駅員たちの声のトーンから、彼らの作業が昼間よりも緊迫している様子が伝わってきた。しかも2つの人身事故はさほど離れていない場所で起きている。
昼間起きた事故の駅と、夜に起きた事故の駅は3駅しか離れていないのだ。こんな狭いエリアで、今日1日だけで2人の命が亡くなった。
「振り替え輸送を行います」のアナウンスが夜も駅に轟いていた。私はちょうど電車に乗り込んだばかりだったので、そのまま車内に閉じ込められた。車内は満員で、シートに座っている人もつり革につかまって立っている人も、みんな一様に困り果てた表情を滲ませていた。
「この電車いつ動くの?」
「電車が何両も前に詰まっているから動けないんだってさ、アナウンスしていたよ」
話す人の声がすし詰め状態の車内に響く。
「なんか最近、人身事故多くね? マジやばい」
やがて動き出した電車は10メートル進んでは5分停止するという状態を繰り返した。乗客たちはいよいよ途方に暮れ始めた。携帯禁止の張り紙などいまや意味をなさず、車内のあちこちに家族と会話する声が飛び交った。
「お母さん、落ち着いて。私は大丈夫だから。今、まだ二子玉川なの。駅で待っていて。いつ着くか分からないけど」
車窓から見えた多摩川にかかる橋は、赤いヘッドライトを灯した多くの車が数珠つなぎになる大渋滞だった。橋の上を歩く人の姿も普段にも増して多い。電車の混乱が町にまで波及している様子が見て取れた。
結局、最寄り駅まで30分で着くところが2時間かかって到着すると、私はようやく暑い車内から解放された。案の定、最寄り駅の改札口やそれに続くバスロータリーは混乱状態に陥っていて、タクシー乗り場には長蛇の列ができていた。歩く人々はものの見事にみんな携帯を耳に当てていた。
私は町の混乱を眺めながら、人が死ぬことについて考えていた。今日だけで近い駅同士の線路で2人が死んだ。2人とも自ら命を絶ったのだと、通りを歩く誰かが話しているのを耳にした。
どうして死を選んだのだろう? 生きるのが本当に辛くて辛くて耐えられなかったのだろう。彼らがそれぞれ死に場所として選んだ2つの駅は、私の普段の生活圏に入っている。穏やかでのどかで、少しおしゃれなこの地域に、死にたいほど悩んでいた人がいたこと、そして彼らがそれほど深く悩んでいたことに誰も気づかなかったことに対して、漠然とした絶望感を覚えた。
普段何気なく見ている景色が変わった気がした。私の目に映るこの町の風景は、亡くなった2人にはどのように映っていたのだろう? 同じ風景が彼らにはまったく別の世界に見えていたはずだ。そして、私がこれを書いている今も、この同じ風景の中で悩み苦しんでいる人々が、おそらくはいるのだ。
日本は自殺者3万人の国だとテレビのニュースは言うが、3万人が抱えてきた人生はぞれぞれ違う。3万という数字のデータで括られると、とたんに平面的に見えてしまうから悲しい。
3万人は、死んだ人の数ではなく、私たちが助けられなった人の数だ。
彼らは自分の悩みや苦しみを、誰にも聞いてもらえなかったのかもしれないし、自分の存在さえ、誰にも気に留められもしなかったのかもしれない。電車に飛び込んで、町に大きな混乱を起こすことで初めて、彼らは自分の存在を世に示してやったのかもしれない。
金曜の夜、電車が止まり、人々がホームに立ち往生し、駅員は狂ったように注意を呼びかけるアナウンスを繰り返す。みんなが困り果てた顔で動かない電車を待っている。そんな人々の顔こそが、自分が生きていた間、自分に対して無関心でい続けた人々の顔なのだ。
「なんか最近、人身事故多くね?」と言って笑ってしまえるような人は、おそらく自殺者3万人というニュースもさらりと聞き流すのだろう。
しかし現実は、今日も満員電車で隣に居合わせる見知らぬ誰かが、自ら命を終えることを真剣に考えている。せわしない朝のホームで肩がぶつかった見知らぬ人は、明日にはもうこの世にいないかもしれない。それが3万人もの人々が自殺する国の実態なのだ。
毎日、誰かがどこかの線路で自ら命を絶っていく。そんな国は悲しい。