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人生は無駄の積みかさね

断捨離で見えた人生の本質

今年に入ってから、思い切って家全体を断捨離している。同居している両親も年老いてきたし、親の終活も兼ねて家の大掃除をするなら今年あたりから始めるのがいいと思った。しかしこれは綺麗ごとの建前で、本音は自宅マンションのすべての部屋がもう限界レベルの汚部屋になり、我が家は見事な汚家(おうち)と化していたからだ。とうに定年している年齢の父が、生きがいのために今も仕事を続けているのだが、2020年、コロナ禍に入ってから仕事がすべてリモートになり、書類だの何だのを大量に家に置くようになった。コロナ禍の始まりと同時に、母の体調は悪化して家事ができなくなり、入退院を繰り返しながら、家にいるときはベッドで横になる生活になった。そして同じ2020年、私は作家デビューして、人と知り合う機会が増え、ラジオに呼ばれて他県に行ったり、自著の朗読を頼まれて出かけたりと突然に忙しくなり、自宅マンションの掃除を後回しにしてきた。2021年もなんだかんだと忙しなく時間が過ぎていき、気づけば今年2022年のお正月、父の部屋から焦げ臭い匂いがした。父のデスクの下のコンセントが焼け切れて壁が焦げていたのだ! 巣ごもりで24時間、パソコンとハロゲンヒーターを使いすぎたせいで、コンセントごと焼き切れたらしい。

あわや大火事になるところだった。
奇跡だったのは、コンセントはボッと火を噴かずに、まるでパンケーキを焦がしたみたいにじわじわとゆっくり黒焦げになっていった。家じゅうに化学的な異臭がした。尋常ではない。電気系統と壁の修理業者を呼ぼうとしたが、無理だと知った。業者さんに来てもらう前にまず、部屋の大掃除をしなければ、足の踏み場もない! 業者さんが玄関から入って廊下を渡り、父の部屋に入って壁を調べてもらうまでの通り道を作ることが先決だ。散らかりすぎていて、壁の修理など始められそうもない。

そんなわけで始めた汚家(おうち)の片付けだったが、正確に言えば、片付けではなく、とにかく多すぎる物を捨てる捨て活を開始した。親の終活のための捨て活だ。昔から物をため込むのが好きな父は、私が勝手に捨てるのを怒って止めるだろうと予想していた。もしも口論になったら、「姥捨て(おばすて)山ならぬ、叔父捨て(おじすて)山に捨ててやるぞ」と言い返すつもりでいた。しかし意外にも父は素直に、まとめたビニール袋をマンションの共同ゴミ置き場に持って行くのに協力した。なにせ自分の部屋の壁が燃えたのである。考えを変えたのだろう。

ほぼ寝たきりだった母は、なんと、私が捨て活を始めてから、ベッドから起き上がり、「一緒にやろう」と言い出した。ベッドに戻そうとする私に対して母は、捨て活をすれば元気になれると言い張った。医学的根拠はないが、家の不用品を取り除くことで、寝たきり生活から復活できると母は信じているようなのだ。そして実際に、母は日に日に体力を取り戻すかのように、ベッドから離れる時間が増えた。絨毯の上に座った姿勢で、父の古い書類やら衣服やらをどんどんゴミ袋に詰めていく。

捨てるべきものは、絶望的に多かった。コロナ禍が始まって家のなかは目に見えて汚らしくなったが、いざ断捨離を始めてみると、不用品は2020年よりもはるか以前から堆積しているものばかりだった。30年も前のさして重要でもない書類の山や、20年前のユニクロの初代フリース。バケツ5杯ぶんの錆びたゴルフボール。15年前に100円ショップで爆発的に売れた便利グッズ。
ウォークイン・クローゼットには私が子供の頃に遊んでいたはずの(もはやうろ覚え)木琴やリコーダーや、絵の具に彫刻刀セット。廊下の収納スペースには、母が若い頃に履いていたであろうバブル時代っぽいデザインの革のハイヒールが、白い黴だらけで本来の色が判別つかない状態で発見されて、まるで戦場にうち捨てられた女性の靴のごとく恐怖を醸し出していた。なぜ捨てずに放置していたのだろう? 家族のひとりひとりが、住まいというものに無頓着であったという現実を見せつけられた。

それにしても、「どうしてこんなものを買ったのだろう?」と首を傾げたくなる物たちのなんと多いことか! 当時は確かに欲しくて買ったのだが、こうして長い年月が過ぎて振り返ると、買う価値などなかったと思う。今、ゴミ袋に詰めている物たちに費やした金額を思うと、まるでお金をゴミ袋に投げ捨てているような気分になり、罪深さを覚えた。人生とはお金の無駄使いの積み重ねなのではなかろうか? いったん、そんなふうに思えてくると、人生そのものが無意味に思えくる。私たちはきっと誰もが自分の人生を有意義なものだと思いたい。しかし、実際は無意味な消費の連続で日々が成り立ち、それが続いて人生になっているだけだと考えたら、物の見方がきっと180度変わる。

物を持つことが豊かさを表していた時代が、こんなふうに変遷するなど、昔の私は想像もしなかった。増やすことよりも捨てることが良しとされる時代が来るなんて、思ってもいなかった。1992年、作家の中野孝次さんが書いた「清貧の思想」というエッセイが大ブームになった。バブルの盛りの日本人に向けて、昔の日本人は貧しくても心豊かに哲学的に生きたと説いたエッセイだ。当時の私はそれを読んで理解した気になっていたが、おそらくあの本が本当に意味を持つのは92年ではなくて、今なのだろう。

最近ブームになっている断捨離のカリスマ、やましたひでこさんは著書と動画で、断捨離の発想はヨガ哲学から由来すると仰っていた。私たちは、捨てるくらい多くの物を買い込まない、物よりも心の豊かさが大切だ、という単純なことでさえ、哲学の教えを請わないと出来ないのだろうか?

私の汚家(おうち)の断捨離ストーリーはまだ終わっていない。壁の修理ができる日まで、このnoteに綴るつもりなので、引き続き読んでくださったら、汚(お)片付けの励みになります。

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