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SNSとの付き合い方

はじめに

今回はわたしが、SNSっていうものをどういうふうに考えているか、どういうふうに関わろうとしているかについて書いてみようと思います。

わたしは、自分としてはあまりメンタルの強いほうではないと思っていて、すぐに誰かと比べてしょげたりめげたりします。

一日なにもできなかったなあと思いながらベットに寝そべっているときに、インスタグラムをひらいて友人の充実した一瞬を目にすると、黒いぼんやりした気持ちが胸に溜まっていくのを感じたり。
メンタルがやられているときに限って、なぜか嫌いな人のアカウントを覗きたくなってしまって、自分から見に行って勝手にダメージを負ってしまったり。
わたしとSNSは、そんな感じの毎日を過ごしています。

でもSNSが得意じゃないからこそ、自分のこころを守りながら、適切な距離をとりながら、でも自分にとって有益な情報や楽しいことをそれなりに受け取れるようなSNSとの付き合い方をずっと模索していて。
今日はそれが誰かの役に立つかもしれない、と思ってこれを書いています。




(1) SNSが好きじゃない

まず、SNSが得意じゃない・好きじゃないってどういうことか、というところから話を始めようと思います。

SNSって疲れるよね、とか、やなことばっかりだよね、みたいなことって最近よく聞くような気がするんですが(わたしだけ?)、SNSのなにがそんなにマイナスの影響を持っているんだろう。

わたしの場合は、さっき言ったような誰かと比べてしまうというところに、わたしがSNSが得意でない一つの原因があるのかなあと思っています。

SNSでは一部分しか見えていないってちゃんとわかっているんだけど、でもどうしても、SNSを見ているときのわたしの想像力はちいさく萎んでしまっていて、裏にあるであろう苦労や努力に鈍くなってしまう。
旅行の写真の裏にはバイトに費やした時間や労力があるかもしれないし、恋人とのエピソードの裏には積み重なった喧嘩や悩みがあるかもしれないし、そういう全部があってわたしたちの生活は成り立っているっていうことを、きっと本当はわかっていると思うんだけど。
そういうふうに、わたしは誰かの上澄みたいなキラキラした部分だけ(綺麗な部分というか、素敵な部分、良い部分)と自分のどんよりした部分を比べてしまう癖があるので、SNSには向かないんだろうと思います。

もう一つ、おそらくわたしが、他人の感情に対して心を閉じることができないというところにも大きな原因があると自分では思っています。

SNSって、覚悟していないタイミングというか、自分の予期しないタイミングで、突然他人の感情にさらされることのある場所だとわたしは思っていて。
凄惨なニュースもそうだし、誰かの悪口や愚痴もそうだし、政治的主張や宗教的思想や、あるいは単純に誰かの意見や気持ちといったものが、こちらが受け入れる拒むを問わずに飛び込んでくる。
わたしはそういうものに対して瞬時に心のシャッターを閉じるということがどうもできないようで、丸裸の状態でその感情を浴びて深く傷ついたり悲しくなったり苦しくなったり怒ったり、とにかく心のなかがめちゃくちゃになってしまって、だからSNSは得意じゃないなと感じることが多いです。


(2)どうしてSNSをやっているのか

ただ、SNSが得意じゃないと散々言っておきながら、実はわたしはインスタグラムで勉強アカウントを運営していて(@chances_study.ac)そこに矛盾を感じる人もいるんじゃないかと思います。

そこらへんは自分でもまだよくわからないんだけど、でも、SNSに惹きつけられてしまう体質だからこそ、そこに取り込まれやすい性質があるからこそ、それとの距離を測りかねているんだと自分では思っています。
なんていうか、人とつながりすぎるところが自分にはあって、「自分は自分、他人は他人」っていう境界線をうまく引くことができないので、インターネットを介していても誰かを自分と同一視して感情移入しちゃったり反応しすぎてしまったりするんじゃないかなあ。

わたしが勉強アカウントをはじめたのは大学1年生のときで、仲の良かった後輩の受験と友人の公務員試験を応援したいと思ったことがきっかけでした。
自分だけがその苦しみから解放されることが後ろめたくて、同じようにわたしも何かに苦しみたいと思って、大学内外の勉強をきちんとやろう、それを彼女らに見せて一緒に苦しんでいることを共有しよう、と思ったのがはじまりです。

そのときのわたしは、その「苦しみ」みたいなものがSNS上でも誰かと共有できると思っていて、しかもそれを共有することが誰かのパワーになると思っていて、だからそういうふうにアカウントをつくったんだけど、でも、たぶんいまでもそう思っている(信じている?)から続けられているのかもしれない。

自分が誰かに引っ張られやすいからこそ、その力を良くも悪くも知っているからこそ、自分も誰かを引っ張ることができると思えるし、それをプラスな方向で使うことができないか考えることができる。
そういう意味で、SNSが得意じゃないからこそSNSが続けられているのかもしれないなあと思っています。


(3)SNSとわたしの適切な距離

そんなふうに、まだまだ測りかねているところはありながらも、とりあえず最近のわたしがSNSと距離をとるために工夫していることをいくつか挙げておきます。

一つ目は、自分の心のシャッターを閉じられない代わりに、SNS自体に備わっている非表示・ブロックというシステムをフル稼働させることです。
わたしは、このタイプの人はそもそもちょっと苦手だなとか、この人のことはよく知らないから自分の想像力が働きにくいなとか、そういうふうに感じた人たちはみんな非表示にするようにしています。あとはランダムに流れてくる発信のなかで不快に感じるものがあれば、インスタグラムでもYouTubeでもブロックしちゃったり。
SNS上ではつながっていても、自分の心までつながる必要がないと感じたら、そういうふうに距離を置いてもいいのかなと思って、最近はそういうふうに自分の心を守るようにしています。

二つ目は、ツイッター(X)はやらないこと。
これは個人的で誰の参考にもならないような気がしますが、わたしのつながりすぎるところとかマイナスな感情に心を閉じることができないところと、ツイッターがあまりに相性が悪いなと感じているからです。
ツイッターみたいに情報量の多いところ・情報の早すぎるところは、つながりすぎるわたしには難しくて、情報が自分の中に流れ込みすぎて処理ができないのでしんどい。同時に、ツイッターの言葉ってなんていうかすごく生だなあと感じることが多くて、心を閉じられないわたしにとってはすごくしんどい。
そういうしんどさから自分を守るために、多少不便でもツイッターはやらないと決めています。noteくらい繋がりにくい媒体とか、手紙くらい隔たった媒体の方が、わたしは安心してのんびり生息できる気がする。

三つ目は、そのSNSをやること・そのアカウントを動かすこと自体に目的を持つこと。
例えば、連絡手段としてつながりたいならストーリーズ見る必要はないし、美味しいものの情報を集めたくてアカウントを作ったならリア友とつながる必要はないし、そういうふうに目的に合わせてSNSを使う意識を持つことが「なんとなく疲れる」「なんとなく傷つく」から自分を守ることになるんじゃないかと思います。
SNSに限らず、目的を持って何かをしているとそれに合うものとかひとが集まってきて、自然とそれに適した場が出来上がっていくものだとわたしは思っているので、SNSもそういうふうになったらいいなあという発想です。
実際、わたしの勉強アカウントはそういう場になっていると思うし、だからこそわたしも安心してそこに居場所を感じて、こういうことができているんだと思います。


おわりに

わたしのSNSとの付き合い方はざっくりこんな感じです。

まだまだわたし自身もうまくいかないこと、どうしたらいいかわからないことがあったり、そもそもSNSってどうなのかなあと思ったりするところもあって、それはこれからもっと考ていく必要があるんだけど、今日はとりあえず最近のわたしの気持ちをシェアしてみました。

ここまで読んでくれてありがとう。
これが、SNSに苦しんでいる、あるいはSNSとの付き合い方を模索している誰かの助けになれば幸いです。


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