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わたしの苦手なこと

できない、ということを誰かに伝えるのはすごくむずかしい。みんなが思っているよりずっと。
なんとなく共感してもらえる、そういう生ぬるいことならいいけれど、「どうしてそんなこともできないの?」と思われてしまうようなことを、わかってもらえるように説明するのはどうしたらいいんだろう。

逆に、誰かの「できない」を受け入れることも、わたしはすごくむずかしいことだと思う。
遅刻の多い先輩とか、忘れ物ばかりの友達とか、ふとした瞬間に「なんでこの人はこんなこともできないんだろう」と思ってしまうことがあって、「それくらいできてよ!」みたいな気持ちになってしまうことがある。

だから、まずは自分がどうしてそれができないか説明できるようになれたらいいなと思って、今回のnoteを書きはじめました。
これを読んだ人が、「できない」ってこういう感じなんだーと思うひとつの扉になったらうれしいし、わたし自身も、誰かの「できない」にもっと寄り添えるようになったらいいなと思っています。



はじめに

わたしの父は、「できない」ということを理解できない人だった。
「やればできる」が信条で、なぜできないか・なにができないかを決して聞こうとはしない人だった。

小さいときからずっとそれを見て育ってきたので、わたしもずっと「そういうものかなー」と思ってなんとなく生きてきて、できないことがあると努力の足りない自分を責めてきたんだけど、最近そうじゃない考え方もあるんじゃないか、と思ったりしていて。
今日はその考え方を言葉にすることで、こうやって読んでくれる人と共有することで、父に立ち向かえるようになったらいいなあと思っています。

ひとつは、そもそもできないものはできないんだ、ということ。
わたしたちはそれぞれの身体を生きていて、その身体が世界をどう感じているか、どう見えているか、どう動いているか、そういうことを知ることができない。だとしたら、「苦手なんだよね」とか「できないんだよね」っていわれたときに、怠けてるとか努力が足りないとか思ってしまう前に、この人はそういう身体なんじゃないか!って思ってもいいんじゃないのかなあ。
病気だとか障害があるとかそういうことじゃなくて、自分の身体感覚・機能が当たり前じゃない可能性を疑うこともできるんじゃないかな、と思うわけです。

もうひとつは、「どうできないか」を考えてみると、できることが決して自明でなかったり、できるように見せちゃう工夫ができたりする、ということ。
ただ「できない」で終わってしまわずに、ここらへんがうまくいかないけどなんでだろう、逆に他の人はなんでできるんだろう、って考えてみると、むしろ私たちって奇跡的なことをやってたんじゃないかって思えてくることがある。
例えばわたしは、「モチベが下がって勉強できないです、どうしたらいいですか?」とか言われると、「逆にモチベに頼っていままで勉強してきたのすごい!わたしはモチベがあるときの方が少ないからそもそも違う仕組みで自分を動かしてるなあ」みたいなことを思います。

ということで、前置きが長くなってしまいましたが、今回はわたしができないこと・苦手なことを、わたしなりの考察を添えて書いてみます。前に、SNSがなぜ苦手かということもちょっと書きましたが、そんなかんじで自分にできないことを改めてドーンと机の上に並べてみたいと思います。
わたしの数あるできないことのなかから、特にわりと最近困っているなーと感じるものをピックアップしてみました。


①皿洗い(と歯みがき)

皿洗いがどうしてもできない。歯みがきも苦手。これはポッドキャストでたくさん話したのでぜひ聞いてください。

簡単にまとめると、食べものとそうじゃないものを区別できなくなってしまうのがしんどくて、お皿を洗うのも歯をみがくのも苦手です。
さっきまで「食べものだったもの」が、数分後に生ゴミとして扱われるという状況を処理できなくて、いつもお皿を洗っているとお腹から食べたものが上がってきてしまう。
お腹のなかを泡で洗われている気がしたり、お腹のなかに入った「食べものだったもの」が生ゴミになったように感じられたり。
だからわたしは、食べてから時間を置いてお皿を洗うか、お腹が空っぽのときとか頭がそれ以外のことでいっぱいのときにお皿を洗うようにしています。

でも、わたしからすると、そもそもみんなはそれをどうやって切り替えているのかさっぱりわからなくて、むしろよく気持ち悪くならないでお皿を洗えるよなあと思っています。


②カタカナを読むこと

つぎ。なぜか、カタカナをほとんど読めない。

ハリーポッターは全巻雰囲気で読み切ったのですが(大好きです)、マからはじまる先生の名前をいまだに正確に思い出せないし、4つの寮の名前すら言えないし(最初の文字だけならわかる)、口頭で名前を言われると誰のことだ?ってなってしまう。

「読めない」ということを説明するのがむずかしいんですが、うーん、「音と文字が一致しない」という感じ。音読してください、が非常にむずかしい。この文字とこの文字が混ざる!とかではなく、全体的に文字のまとまりとしてなぜか認識ができない。すごく時間をかけてゆっくり読めばわかるんだけどね。

じゃあどうしているかというと、いまのところ、文字の長さとか形とかでその用語や言葉を認識している。マからはじまる詰まった感じの長い名前って一人しかいないからあの人だなってわかるし、伸ばし棒の量とかで単語全体の雰囲気がちがうのでそれぞれの区別自体はわたしのなかではできている、という感じです。

これに関しては、なんでできないのかっていうのはわたしの中では解明されていなくて、意外と困っていない(受験期はちょっと困った)ので対策もふわっとした状態で生きています。

ついでに、人の顔もぼんやりとしかわかっていないかもしれない、という問題を最近発見しました。
この人たち似てるよねーというのがざっくりすぎるらしい(ここが似てる!みたいなことはわからないけど、ただ同じような顔に見える)。細かい視覚情報を認識できないのか、することを放棄しているのか、ここら辺はもうちょっと考えてみたいところです。


③人にぶつからずに歩くこと

つぎ。驚くほど頻繁に、ほんとうによく人とぶつかりそうになる。ぶつかることも結構あります。

ぶつかりそうになる、というのは、別に歩きスマホしているからとか、ぼーっとしているからとかではなく、前から来る人にすごく注意しているのにも関わらず、なぜかその人が自分に近づいてくるし自分もその人に吸い寄せられていく、というような現象のことです。
狭い場所を歩いているとどっちがどっちに避けるかで迷ったりすることがあると思うのですが、それがかなり頻繁に起きて、そしてなぜか毎回うまくいかない(道が広くても)。

特に自転車が苦手で、ずっと前から気づいているしお互い目も合っているのに、わたしからするとなぜか(!)目の前に突っ込んでくる。避けてみたりそのまま突き進んでみたりと、いろいろ自分なりに試してみたのですが、本当になぜか驚くほど高い確率でぶつかりそうになる。たいてい、直前にわたしが焦って棒立ちになって、向こうが避けるか止まる、という生活をしています。

ただ、これは最近理由がわかるようになって、なんとか対処もできるようになりました。
完全なる仮説ではありますが、おそらく、わたしが相手の目を見て歩くせいだと思います。目を見て歩いていると、わたしはフラフラとそちらに吸い寄せられていくし、向こうも目が合っていると自然とわたしに接近してくる。

わたしは元々人の顔を見る癖があって、道を歩いているときも、電車に乗っているときも、とにかくいつでも周りの人の顔を注視する傾向にあります(これがなぜかはわからない)。
ジロジロ見ているわけじゃなくて、なんとなく目がそっちに向いてしまうというか、景色を見ているのと同じ感覚で人のことを見てしまう。顔をガン見しているわけではなく、ぼんやり人を見てしまって、その人が視線を感じてこちらを見て、目が合って、そのままぼんやり目を見続けてしまう。そんな感じです。

これがわかってからは、人が来てる!と思った瞬間に顔を伏せることにしていて、それ以来あんまり人とぶつかることは無くなりました。その代わり、心の中で「お願いだからぶつかりませんように」っていつも願っています。たまに忘れてて見ちゃうんだけどね。


④車を運転すること

長くなってきちゃったけど、つぎ。
車の運転ができない。免許はどうにかとったけど、適性検査は散々だったし、担当
の教官に免許取らない方がいいかもって言われました。

これはわたしの身体感覚のバグだと思うんだけど、ここまでがわたし、というのがどうもわからない。

同じ理由でスポーツも壊滅的にできなくて、ラケットとかバットとか持つような競技は絶対ボールに当てられないし、ネットとかゴールがある競技は気づいたら網に絡まってるし、とにかく、自分の身体の感覚が曖昧すぎる。
自分の身体の動き自体、例えば動かした距離・幅・角度みたいなものを認識できないので、気づいたら頭をぶつけているとか、歩いていたら壁だった、みたいなことが起きる。

そういえば自転車も乗れない。どのくらいハンドルを切れば曲がり切れるのかよくわからなくていつも田んぼに墜落していたし、スピード出てる!どうしよう!って心の中で叫びながら加速してたりする。

自分の身体の感覚が曖昧なのに車に乗って車体感覚を獲得できるわけがなくて、車はいつもぶつけそうだし、緊張すればするほど力が入ってアクセル踏んじゃうし、信号までどれくらいあるかわからなくて止まるべきか進むべきか悩んでいる間に交差点に突入している。あまりにだめなので極力運転は控えています。

練習すればできるようになるよ、といわれることが多いけれど、世界をそう認識できない・そういう身体感覚がないのだから、たぶん「できない」んだと思う。
というか、むしろそれができないんだと思う。練習というのは、自分の身体の動きに対する結果を見て、また自分の身体の動きを調整する、ということだと思うんだけど、その調整ができないんだろうなあ。わたしはずっと。細やかな運動感覚のない身体を生きています。
父にはわかってもらえなかったけど。


⑤お腹いっぱいに気づくこと

ちなみに、内的な身体感覚にも鈍いのか、お腹がいっぱいになってきた、ということに気づけない。トイレ行きたいかも、とかも。

満腹中枢とか、尿意とか、たぶんそういうのは少しずつ水が溜まっていくコップみたいなもので、どうやらみんなは「いま8分目くらいだな〜」ってわかるらしいんだけど、なぜかわたしの身体は「もう限界です!おわり!」しかお知らせしてくれない。

もぐもぐしながら次の一口を箸で持ち上げて、ごくんと飲み込んだ瞬間に、「あれ?もうお腹いっぱいでもう無理だ」ってなる。この一口は宙に浮かんだままで、自分でも毎回びっくりする。さっきまで、ほんとうに数秒前までお腹ぺこぺこだったのに。

細やかな身体感覚がない、というのはもしかしたらこういう内的な機能に対してもそうで、もう限界です!っていうサインにしか気づけないんじゃないか、と最近考えています。
鈍いのかなと思ったりもするんだけど、わたしとしてはむしろ、「一つのことにすごく集中してしまうからこそ他のサインをうまく受け取れない」か、「あまりに多くのサインを受け取りすぎていて、処理しきれないまま生きている(限界!みたいなのだけ急に処理する)」のどっちかじゃないかなと予想しています。


⑥朝起きること

これはいまはできるんだけど、かつてどうしてもできなかったことの一つです。

中学生のときに起立性調節障害になって、その時期はほんとうに文字通り「できない」って感じだった。
身体が動かないとか、無理やり起こされてもどうにも調子が悪いとか、自分の身体のなかでは明らかに自分の努力外の問題が起きているのに、それがどういうことなのかうまく言葉にすることができなかったなあと思います。

誰かの身体感覚を知ることもできなければわたしの身体感覚を誰かに経験してもらうこともできないから、「お前は怠けているんだ」と言われてしまうと「そうなのかな・・・」と思ってしまうし、「みんなはこれを乗り越えて学校に行ってるのに」って思って自分を責めてしまう。

だからやっぱり、できないって伝えるのも、誰かのできないをわかるのもむずかしいなって思うし、それを乗り越えていくためにこうやって言葉にしてみたいと、今更だけど思っています。



おわりに

できないことが、どうしてできないのかとか、どうできないのかとか、考えてみることに意味がある。
これはわたしが哲学から学んだことの一つです。

自分の見えている世界・感じている世界が当たり前じゃないからこそ、それを言葉にする意味があると思うし、それを通してわたしたちの世界のあべこべさみたいなものに気づくことにも意味があると思う。

「当たり前」とか「普通」っていう束縛だらけのこの世界で、あなたの世界がぜんぜん普通じゃないことに気づいてもらえたらうれしいです。



【読書案内】

わたしと全然ちがう身体感覚について教えてくれた本たち。意外と共感できるところもあります。ぜひ読んでみてね。


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