わたしのあたまのなか(11月編)
はじめに
今回は、わたしの最近の頭のなかをごろっと書いてみることにした。
いちおう、このシリーズのつもりです。
わたしの2週間がなかったことになってしまわないために、いつかのわたしがわたしにきちんと追いつけるように、日記のかわりのような感じで書きました。
卒論にほとんどの脳みそと言葉をもっていかれている、しっちゃかめっちゃかなわたしの頭のなかを覗く気持ちで読んでくれるとうれしいです。こっそり。
2024年11月18日(月)
おひるまえに起きた。大学でお弁当を買って教室で食べる。3限と4限の授業を受けて、後輩(友達)と麻辣湯を食べた。はじめて食べたブンモジャという食べ物が美味しくてうれしい気持ちになった。帰りにタピオカを買って、恋人の夜ごはんを買って大学に戻る。卒論が終わらないので、閉館まで篭って作業をした。
最近のわたしの脳みそを大きく占めるのは、なぜかちっとも進まない卒論と、内定先でのインターンと、社員があまりに頼りないアルバイト。
インターンでもバイトでも、わたしのまわりの社員さんがやたら頼りないのはなぜだろう。
わたしは、誰かと一緒になにかすることがたぶん苦手だ。
誰かと仕事を分担するより、ひとりで進めるほうが楽だと思ってしまう。相手と歩幅を合わせること、できることとできないことをお互いに確かめ合って進んでいくこと、常識や認識や言葉のずれを絶えず修正し続けながら人と関わること、そのすべてがあまりにむずかしい。
むずかしい、でも、むずかしいからといって諦めるわけにも放り出すわけにもいかない。いやむしろ、そうはしたくないと思っているからこそ、そのむずかしさにぶつかっているのだと思う。
この困難は対話のむずかしさにも似ている。だからいろいろやってみて考えるべきなのだろうと思う。
でも、哲学対話は区切られたそのための時間だからがんばれるだけで、いつもいつでもそのマインドで人と関わり続けられるわけじゃないんだよなあ、とも思った。
***
2024年11月23日(土)
今週があまりに忙しくて、心がパリパリになってしまった。
おひるまえに起きて、これはだめだ、と思って二度寝。ひさしぶりの、バイトのない土曜日。15時くらいに気合いを入れてベットから起き上がり、コンビニでおにぎりを買ってみた。他人に迷惑をかける仕事と、締め切りの近い課題だけささっと済ませて再び寝る。三度寝。
19時くらいに起きて、哲学対話の準備をする。20時から22時まで、オンラインで哲学対話。わたしのグループの問いは「なぜ人をジャッジしてしまうんだろう?」だった。おもしろかったけどつかれた。
前に「哲学対話がこわい」という言葉を使ってからずっと、私は何がこわいんだろう、と考え続けている。
最近、誰かと「いっしょに考える」ということのむずかしさとか、こわさとか、そういうことについて考えていた。対話のなかで取り残される感覚とか、さみしく感じるあの気持ちはなんだろう、と思う。わたしはなぜ対話をするんだろう。みんなはなぜ対話を求めてくるんだろう。
***
2024年11月24日(日)
昨日、土曜だったけどnoteの更新を諦めた。
卒論やバイトやインターンで頭がいっぱいだったのと、夢のようなことが立て続けに世界に起こって胸がいっぱいだったのと、毎晩遅くまで卒論をしていたせいで身体までいっぱいいっぱいだった。くやしくてちょっと泣いた。自分で決めたことを守れないのはくやしい。
またおひるまえに起きた。恋人と駅で待ち合わせて慶應の学園祭に向かう。先輩(友達)のつくった哲学対話を見に行った。問いは「ビジネスの世界でやりがいのことで悩む人がなぜこんなにも多いのか?」だった。哲学対話がみんなにこんなにも必要とされているのだ、と思ってうれしくなった。
駅でカフェに入って、また卒論と格闘した。プリントアウトしたものを読んでいると、思ったより出来が良くてまた少しうれしくなった。
今日みたいに新しい人のファシリテーションを見ると、わたしにとって哲学対話とはなんだろう、と思う。なぜわたしは場をつくるのだろう。なぜわたしがそれをしなければならないのだろう。
永井さんは哲学対話を水中に喩えたし、大学の先生は工事中の建物を壊すことだと言った。わたしにとっては、わたしがファシリテーターをする哲学対話は、洞窟の迷路をみんなで一緒におりていくことかな、と最近思う。わたしは松明をもっている。この道が合っているかわからなくても、わたしは道をえらび、先頭を歩く。
***
2024年11月27日(水)
またおひるまえに起きる。昨日も深夜3時までパソコンとにらめっこしていたのでねむい。
約束を入れないと永遠に起きないので、今日も恋人とおひるをたべる約束をして、そのあと一緒に卒論を進める。ラストスパート。この日はあったかかったのでアイスを食べた。
15時半から18時半までバイト。もはやバイトが卒論の息抜きまである。バイト帰りにおにぎりを食べて、閉館まで大学の図書館に篭ってまた卒論。明日の仮提出に向けてできるだけ進める。ここまでくるとむずかしい箇所しか残っていないので修正に時間がかかる。心が折れそう。帰り道にちょっと涙がでてきたけど、ファミチキを食べて忘れた。
思考の場所性の問題ってやっぱりあるよな、とぼんやり考える。
今日、開放的であかるくてあたかかいカフェで卒論を進めていたら、ここ3週間ずっと書けなかったパートが急に書けておどろいた。しかもさっぱりしていてなかなかよい。
春学期のアフリカ哲学の授業を思い出す。いまでも全然わからないplaceとspaceの議論をなんとなく思い返しながら、これもいつかわかる日がくるのかな、と思う。
そういえば、カンボジアに行ったときも日本にいるときには考えなかったことを考えている自分に気づいたり、留学生と哲学対話をしているときに自分の思考がいかに日本という土地に根ざしているかを実感したりしたこともあった。
そんなことを思い出しながら、やっぱり、バックグラウンドをすべて取り除いた独立した思考なんてものはなさそうだよなあ、なんて考える。
***
2024年11月29日(金)
今日は10時半に目覚ましをかけたけど、11時半に起きた。昨日も夜中3時までパソコンにかじりついていたので、こんな時間に起きても眠い。
恋人との約束だったのでお昼はマックデリバリーで注文、怠惰にベットの上で食べた。そのあとすぐ、シーツ丸ごと洗濯して掃除をしたのでセーフ。
13時から1時間、社員さんとのオンラインミーティング。後輩にもすこし引き継ぎをする。相変わらず社員さんが頼りなくていつも通り心配になった。
15時半から18時半までバイト。忙しすぎて目が回った。帰ってきて恋人と夜ご飯をたべる(カレードリアが革命的なおいしさだった)。そのあと、コメダで卒論のラストスパート。結局終わらず、帰宅後もパソコンにかじりついて、深夜2時前にやっと完成。おそい時間だけど予約送信にせず、そのまま先生に送りつけた。
バイトに向かう途中でスマホをチェックしていたら、一件のdmが届いていた。
哲学をしていて、「こんなのでずっとこの世界を生きていけるんだろうか」などという不安な気持ちになってしまうことはないですか、という質問だった。送り主は、「社会にとっての価値を高めようとすればするほど、自分にとっての価値が減っていくような気がする」らしい。
わたし自身は、むしろ哲学をすることでしか、この世界を耐えられないし生きていけない、というふうに思う。こんなにもおかしい世界を、疑わずに闘わずに受け入れて生きていくことがどうしてもできない。だから「こんなのでずっとこの世界を生きていけるんだろうか」という不安はないなあ、と思う。
わたしにはまだ、社会にとっての価値というものがなんなのかわからないし、哲学が社会にとって価値があるのか・ないのかすらわからない。この質問をくれた人は、社会において価値のあるものを知っているのだろうか。いまの社会が求めているものではなく、ほんとうに社会にとってなにが価値あるのか、わたしたちは知っているのだろうか。
哲学に価値がないのか、哲学するわたしに価値がないのかはまだわからない。ただむしろ、それについて疑うことすら哲学になってしまうのであれば、わたしはきっと哲学に価値があるだろうと思う。
***
おわりに
最後に、最近読んでいる本と、気に入っている記事を貼っておきます。
わたしはこんなものを読んで生きているよ、の気持ちです↓