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平平凡々人生

ふと彼は言ったがそれは本当にそういう意味だったのか。そうじゃなくて本当は様々な意味があったのかもしれないが、私はそばでそのセリフを聞いた。

「俺が求めていたのは…平凡な…日常だったんだ。」

そう言った彼は文才があったようで、個人用のブログでかなりそれがウケていたようでその理由を彼はある病気のせいだと言っていた。




「俺はとある脳の病気なんだけどね…」


そう言った彼の言葉を聞いてそこまでそれ以上聞かないようにした。温情でもなんでもなく、私はそれが優しさでもないと思うが、ただ野暮だなと思ったからだ。本能的に避けた方がいいと思ったからだ。

その線の病気の人なら何人か知っている。今時珍しくもない話だ。他愛のないことなんだ。

そんな凡人から、そのとある病気になって彼は「天才のような文才がでてきたのだ」という彼は、症状が強い方が鋭い文章が書けるという、ただその症状をコントロールすることが大切で思いのまま書き殴ってもただの駄文となってしまうそうだ。それを可能にするのは元々の自我であり、病気になっていない頃の落ち着いた客観的にいられる冷静な自分がいて初めて文章が成り立つのだと言う。

それを聞いて私はある意味彼は天才になったのだと思った。しかし、そんな彼の天才人生は長くは続かず、病気の症状がひどくなっていくほどにいい文章になるのだから、よくなっては困るわけだ。彼は病気の症状を治療することを拒んだ。そして、悪くなっていく自分を嬉しがるように狂気の世界へ飲み込まれていった。


彼のブログを見てみると、脈絡のない言葉が並んでいた。

「彼の血筋は一生懸命だ。任せておきなさい。」

「ここまでくるとは想定外だったが、一点突破するには丁度いい機会だ。」

とまぁ、時折日本語として読めなくはないこともあるのだが、言葉がただ単に羅列されている、専門家が言うにはこれは言葉のサラダというらしい。こういう世界に侵食されていくのはどういう気持ちなのか?私は彼を気の毒に思った。


そして彼は、こんな生活には耐えられないと、ようやく治療に取り組むこととなった。その時出た言葉が冒頭のセリフである。



「俺が求めていたのは…平凡な…日常だったんだ…」



本当の天才は平凡な日常で終われるものだろうか?天才は平凡な日常を望むものなのか。今更言わなくてもわかるだろう。彼は凡人だ。

自称天才の彼は自分のブログがとても評価されていると嘘をついている。しかし、彼にとっては嘘ではない。本当にそうなるのだと思い込んでいるのだ。


天才になろうと凡人が思うものではない。誰のの脳にも確かな可能性があるのだろうが、誰も本当の天才にはなれない。本物の天才にはそうならざるを得ない事情がある気がする。馬鹿と天才は紙一重とも言うが、その紙一重がまた別の種類の紙一重で、同じ行動でもその奥には全く違う性質の想いが隠れている気がする。


そう言う私は彼の友人だ。そう言う私も凡人だ。いやそうやって決めるのも何か違う気がするな。誰しも気づいているはずだ。天才という定義はわかりずらい。曖昧なものなんだから。

いちいちそうやって自己紹介しなくてもいい。誰だってわかるはずだ。天才はみんながそうだと認めるものだ。それ以外は皆凡人だ。



簡単なことさ。みんなが認めるものが本当だ。




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