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怪物 を見て感じたこと 感情は〈無かった事〉にはできない

是枝監督と坂本裕二さん脚本の映画、という情報だけを事前に知り、映画を見てきた。
あまりの没入感に、鑑賞後の1、2時間は放心状態というか心ここに在らずな状態で、そのまま帰宅した。

後半の、子供時代特有の世界は前半の暗く不気味な物語と対比してより美しく感じ、それだけで涙が出そうだった。大人や他人の世界と隔離された、自分たちだけの世界。それは自分たち以外の人に対してどう言葉にしても伝わる気がしないし、伝えようとも思わない、自分たちだけのものだった。
あの感覚を私は思い出した、自分にもそんな時代があったと感じたが、本当はそんな時代は私には無かったのかもしれない。でも確かにあったなと感じた、感じさせられたのがまずこの映画の凄さだと思う。

そのあと、映画のあらすじを振り返りながら、見ていた時は気づかなかった点に気がつく。
印象的だったのは、必死で机を消しゴムで消す男の子。一心不乱に何かを消している。そして、奏もまた作文を書いては破れんばかりの勢いで消しゴムで消す。
落とした消しゴムを拾うのに一時停止していた時の意味は?そしていつも床の汚れを消している校長先生。汚れを落とすクリーニング屋で働く母親。火事の火を消す消防車。
事態を収めるために嘘をついて罪を被り、謝罪するホリ先生。本の誤植を指摘して直させるホリ先生。生まれ変わらないかもしれない、という理由で焼かれる猫の遺体。そしてその炎を消火する奏。同姓を好きなのは病気だから治すというヨリの父親。

宇宙が膨張を続けると、限界まで達した時、全てが元に戻っていくという星川くん。うんこはお尻にもどり、はては宇宙が始まる前まで戻るという。

事実という言葉に実態はなくて、誰も誰かの視点から見た主観的な事柄でしかない。真実、事実というものは神の視点がない限りはどこまでもわからないものだ。それなのに、事実はこうかもしれないと、どうやっても足りない情報だけでいつも無意識のうちに推理を始めてしまうのが人間だ。そしてこの映画でも、怪物は誰か?と探し、視点が移ろうなかで事実はこうだったのか、と分かった気になっていく。

主観的事実や物理的な汚れは、上書きや消すことでなかったことにできる。たとえばホリ先生はガールズバーに行っていたのではなく、火事が起きた時に近くで子供たちとすれ違った、事実はそれだけだった。私たちはガールズバーに行っていたのではなかったと知ることができた。

そして、ヨリくんと奏は2人の間に芽生えた感情が友情なのか恋なのか、微妙に揺れ動く心に戸惑い、脳に異常があるのではないかと考える。白線から飛び出してしまうと、地獄に落ちるから。普通ではないから、普通に戻さないといけない、と。それで生まれ変わるという発想になるのかもしれない。
けど、一度生まれた感情を無かったことにすることはできないし、そもそも奏やヨリの心に生まれた感情は異常や病気なんかではない。消す必要はないんだ。

母親の認識も、ホリ先生の認識も間違っていた。間違った事実に基づいて生まれた感情は間違っていたか?そうではないと思う。息子を心配するあまり、言葉を鵜呑みにして何かを隠蔽するような学校を恨む母親の感情に、間違いなんてない。

罪もないのに事態を収束させるために謝罪を強要させられたホリ先生の無念さ、やるせなさも。
感情に正しいとか間違っているとかは無いのである。

一部の情報だけで決めつけて批判するのは悪であり、視聴者もまた怪物だったのである、という見方は確かにそうだと思うけど、主題はそこでは無いのでは無いかと思う。感情に正しいも間違いもない。ただ主観的事実に基づいて生まれるものである。
どこにも怪物はいない。


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