【短編小説】望み行き有人タクシー【所要時間:5分】

12時10分。間に合うはず。
スマホを片手に、遠くに小さく見える空のタクシーに向けて手を振る。
仕事はまだ少し残っているが、午前中特有の集中力のおかげで、移動中にノートパソコンを少し触れば終えてしまえるほどには片付いていた。ドレスはタクシーの中で着替えればいい。ここ十年でタクシーの無人運転化が進んでくれて本当に助かった。化粧も車内で直してしまおう。

私はこれから、親友の結婚式に向かう。一年間既読無視をし続けている、親友の結婚式に。


しゅう、と微かなブレーキ音を立ててタクシーが止まった。いつものようにドアに顔を近付けてマイクに行き先を言おうとしたとき、頭に鈍い衝撃が走った。勝手にドアが開いたのだ。
「ああ、お姉さん、ごめんなさい」
中から優しそうな男性の声がする。ドアの隙間から中を覗くと、運転席に座る男性がちょうどこちらを振り返って言った。
「有人タクシーなんです。どちらへ行かれますか?」


焦っていた。頭の中で式場に着いてからの行動をシミュレーションする。化粧を直す時間はないが、ぎりぎり着替えはできるだろう。
まさかこの時代に有人タクシーが走っているとは思わなかった。苛立ちから踵で車内の床を鳴らしてしまう。有人ならプレートが出ているはずなのに気が付かなかった。だいたい私はなんで肝心なときに断れないんだ。ドアを閉めて無人タクシーを呼べばいいだけだったのに。

「結婚式ですか?」
「はい?」
「ほら、ドレスをお持ちだから」
「ああ」
そうです、という言葉が思った以上にぶっきらぼうな響きを持って耳に届く。しまった、と思う間もなく、運転手がにこやかな声で会話を続けた。
「ご友人ですか」
「ええ、まあ」
「ジューンブライド、ですねえ」
ジューンブライド。美沙希らしいと言えば美沙希らしい、ある意味賭けのような式の挙げ方。そして美沙希は賭けに勝った。今も梅雨をまったく感じさせない力強い日差しが車内にまで降り注いでいる。

『結婚する』

つい開けてしまったメッセージを無視したのが、ちょうど一年前のこの時期だった。そして招待状が届いたのが今年の春先のこと。喧嘩中で、返信もしないような親友に、美沙希は自分の結婚を祝ってほしいらしい。
親友?私たちは、本当に親友なんだろうか。

「学生時代のご友人とかですか」
「あー、まあ、そうです」
運転手は相変わらず、まったりとしたトーンで話しかけてくる。まあいいか。有人タクシー内ではどうせ何もできないのだ。会話に相槌を打つくらい、してやってもいい。

「中学のときの同級生で……あ」
「どうされましたか」
「いや、あの」
窓の外に、見覚えのある校舎が見えた気がした。オフィス街を走っていたはずのタクシーはいつの間にか住宅街を走っていて、その奥の方、連なる住宅から頭を覗かせている建物は、20年前の記憶の中の、あの校舎に見える。
「あれ、ここって、」
言かけた言葉が止まった。タクシーが二人組の女子中学生とすれ違ったからだ。片方の顔はよく見えなかったが、もう一人の車道側を歩いていた女の子の顔が、美沙希によく似ていた。

「30分、くらいですかねえ」
私の言葉を勘違いしたらしい運転手が目的地までのおおよその時間を伝えてきた。
30分。式場から30分の場所にあの中学校があるわけがない。そもそも私の地元は茨城なのだ。職場と式場の間にあるのは、せいぜい茨城物産展くらいだ。

「よかったらご友人とのこと、ぜひ聞かせてください」


美沙希とは、中学の三年間を同じクラスで過ごした仲だった。趣味も部活も被っていなかったのに、お互いの部活帰りには学校から少し離れたコンビニで待ち合わせて、アイスを買って駄弁るのが定番のコースだった。
タクシーが信号に引っ掛かり、しゅう、と止まる。
「今日みたいな晴れの日も冬の雪の日もアイスを食べるのは、2人の意地だったんだなあって」
話しながら窓の外を見ると、角のコンビニの前で先ほどの女子中学生たちがアイスを食べていた。
私はよっぽど疲れているのだろう。そうでなければ説明が付かない。コンビニの前にいるのは、今まさにアイスを落とした美沙希と、それを見てお腹を抱えて笑う私だった。

信号が変わる。
「高校生のとき、美沙希に初めて彼氏ができたんです」
美沙希が一年の夏から二年間付き合っていた男の子は、三年に上がると同じクラスになった私に言い寄ってきた。それがきっかけで別れた美沙希をファミレスで慰めたこともあった。閉店間際になって、運ばれてきたまま手を付けていなかった料理を急いで食べたんだ。
タクシーの外のファミレスから、ミニスカートの二人組が肩を組んで笑いながら出てきた。二人とも吐きそうな、それでいて吐きそうなことが面白くて堪らないような顔をしてふらふらと歩いている。

美沙希との関係はお互いが社会人になってからも続いた。何度も疎遠になりかけてはどちらからともなく連絡を取り、付かず離れずの関係は妙に居心地がよかった。

運転手はじっくりと聴いてくれた。仕事柄客の話を聞くことには慣れているのだろう。もしかしたらみんな私のように、夢とも現実とも言えないような景色を窓の外に見ながら、自分の思い出を語るのかもしれない。

「私が、不倫をしたんです」
社内恋愛だった。相手が既婚者だと分かってからも、相手の「もっと早くに出会いたかった」を真に受けてずぶずぶと沼にはまっていく私を、美沙希は見逃してくれなかった。

停車した窓の外、居酒屋の階段を私が走りながら下りてくる。その後を美沙希が転びそうになりながらついてくる。
「待って」
「ほっといて」
「ほっとかない」
私のシャツの背中を掴んだ美沙希の手を振り払う。
「美沙希には関係ないでしょ」
「関係ある」
親友だから、と続けようとした美沙希が、言葉を飲んだのがわかった。用があるときにしか連絡しない。最近は会っても半年に一回だけ。そんな仲を親友と言ってもいいんだろうか。そんな美沙希の脳内が、手に取るようにわかった。
美沙希、あんたが今考えてること全部わかる。私はあんたを、親友だと思ってるからだよ。

「ほら、関係ないじゃん」
走るのはみっともないから、早歩きでその場を去った。それが一番みっともないとわかっていた。でもそんなのどうでもよかった。足を素早く交互に出しながら、意識は自分の背中に集中していた。美沙希がまたシャツを引っ張ったら、謝ろうと思っていた。
本当に、謝ろうと思っていた。


タクシーは霧の中を走っていた。窓の外は灰色一色で、何も見えなかった。
「プライドが高いんですよね、私」
はは、と乾いた笑いが車内に響く。
「プライドもその中身もわかってもらえると思ってたのは、自己中心的な考えだったと思うんです」
「そうですかね」
「……どういう」
「プライドもその中身もわかってるから、待ってるのかもしれませんよ」
ブブ、と左手の中でスマホが鳴った。メッセージの通知が光る。

『結婚する』

メッセージの横の、昔お揃いで買ったお守りのアイコン。
「返信、されたらいかがですか」
「でも」
なんて返せばいいのか。プライドが高くて自己中心的で自分を守るだけの私を、美沙希は許してくれるだろうか。
「言いたいことを、言ったらいいと思いますよ」
『夏那ってさ、言いたいことちゃんと言えるよね』
そこが好きだよ、と笑った美沙希の顔が、タクシーの窓に映った気がした。窓に映るのは、今にも泣き出しそうな自分の顔だった。

おめでとう。あのときは本当にごめん。
私、美沙希のことが正直羨ましかったんだ。
自分はバカなことするくせに、愛嬌でみんなに許されて、なんで私のことは許してくれないんだって思ったんだ。
なにもわかってなかった。
あのとき許してくれなくて、本当にありがとう。

打ったメッセージを、一文字、一文字と消していく。メッセージが消えるスピードは上がり、そのスピードに比例するように、タクシーの速度が上がっていく気がした。顔を上げると、タクシーを覆っていた霧が、まさに今晴れていくところだった。


「お客さん、着きますよ」
は、として目が覚める。
「お仕事大変なんですねえ」
運転手がにこやかに喋る。
窓の外では6月とは思えないほどの爽やかな日差しをビルがキラキラと反射させていた。


外に出ると、車内ではわからなかった微かな湿気が気持ちよく、思わず深く息を吸った。結婚式場は思いの外シンプルな外観で、誰からも愛される美沙希のイメージにぴったりだった。
左手に持ったままのスマホを操作し、メッセージアプリを開く。一年前の、『結婚する』という言葉。
しばらく画面を眺めてから、ぱたぱたと文字を打ち込んで送信した。スマホはそれを待っていたかのように、尻ポケットにしまわれると同時にブブ、と震えた。
美沙希、ありがとうはこっちだよ。やっとちゃんと祝えるから、ちゃんと祝われてね。
階段を上る足取りが軽い。私の身体には今、よろこびが詰まっている。


都内で唯一の有人タクシーは、今日も東京をゆっくりと走る。誰かが心の奥底で望んだ、ちょっと良い未来に向けて。


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