頭痛の話。そして障害者的な特性を受け入れる社会について

今日の朝、あるテレビ番組を観ていたら気象病について特集していた。
気象病とは、台風が日本列島に近づいてきたりして気圧が変化すると、頭痛やめまい、疲労感、気分の落ち込み、肩こり、鼻炎など、さまざまな症状を引き起こす病気のことだ。近年になって認知されるようになった病気だ。患者数も日本で1000万人以上いると言われている。
どうやら気圧の変化による酸素量の減少などによって、交感神経と副交感神経の2つの自律神経のバランスが崩れてしまい、いろいろな症状が起きるようだ。一般的には女性に多いとされているが、男性でもひどい症状で悩んでいる人は多くいると思われる。

私自身もこの症状に悩まされてきた。特に会社で働いていた時はつらかった。一番つらかったのは頭痛だ。毎年のように秋になると耳鼻科に行き薬を処方されるのだが、あまり効果がなかった。頭痛の原因は気象病だけでなく、仕事でパソコンの画面を視すぎてしまう事による目の疲れ、通勤による肉体的な疲れ、仕事上での精神的な疲労の蓄積、アレルギー性鼻炎などが絡んでいたと思うのだが、明らかに秋になると頭痛がひどくなった。秋には春とは違う花粉が飛ぶのだが、それだけではなく台風が近づくと頭痛がひどくなるのだ。

同年代の同僚には私と同じ症状で悩んでいる人がいなかった。いたとしても症状は軽かったのだろう。しかし、数年前に10歳ほど年下の後輩とコーヒーブレイクで話をしていたら、彼も同じ症状で悩んでいた。私が最近は頭が痛いんだよねー、特にこの時期はねって話をすると、自分もです、台風が近づいているからだと思いますって話になったのである。おおー、頭痛の話を理解してくれる奴がいたぞーという気持ちになりうれしかった。しかも気圧の話までできた。私の経験からすると体調の話に限っては同年代には共感されないことが多い。不思議と年齢が下がるにつれて共感されやすくなる。しかも、その体調不良の原因を私と同程度以上に理解している事が多い。

なぜだろうか。時代が進むにつれて同じ症状で悩む人が増えていくのだろうか。そして全国レベルでは実は思っていたよりも私のように悩んでいる同世代が多くいて、その人達が病院に行くことによって医師の研究や知識、海外からの情報が蓄積されていき原因が解明され、後から生まれてくる世代へその恩恵が行き届くようになったからだろうか。
思い返せば私は小さい頃からダニやほこり、花粉などに反応するアレルギー性鼻炎であった。ほとんど毎日くしゃみ、鼻水がひどくて小学校低学年の時には授業にも集中できない事があった。今でこそ花粉症というアレルギー症状は国民の間で認知されるようになったが、当時は花粉症という言葉もなかった。小学校低学年でそろばんの授業があったのだが、授業中に同症状があると授業に集中できず内容が理解できなかった。そのため、1、2回でも理解できない授業があると次回以降の授業は理解できなかったので、ついにそろばんは最後までやり方が分からなかった。これは小学校の時に数回実施された知能テストの時も同じで、鼻炎の症状がひどくて肝心な説明の部分を集中して聞けていなかったので、以降のテストはやり方が分からず適当に行った。記憶だと生徒にはテストの結果は教えてもらえなかったはずだが、点数はひどい結果だったことだろう。

上記の気象病に限らず最近ではHSPという繊細な気質、ADHD、ASDなどの発達障害などについても広く知られるようになってきた。そして自己診断でこれらの症状の全てには当てはまらないが、少しだけ当てはまる、もしくはあと2~3個だけ○が付けば該当するという人は相当数いることだろう。
HSPの全ての項目には該当しなくても、普通の人が気にしない事まで敏感に感じ取り気にしてしまう、周りの人間関係や空気感に敏感すぎてストレスになってしまうという項目には当てはまる。 
あるいはADHD、ASDに関していえば、多動や衝動性等の体の見た目やしぐさでの症状は無いのだが、学校や会社で言われたことをすぐ忘れてしまう、短期記憶の時間が短い、ケアレスミスが多いなどの不注意がある、等の項目のどれか一部に該当する人も多いのではないだろうか。
そして、こうした症状が原因の一つになり、うつ病を引き起こすこともあるようだ。
私の推測だが、多くて日本国民の1/10、少なくとも1000万人以上は上記のHSPやADHD,ASDなどの症状の一部、いわゆるグレーゾーンに該当するのではないだろうか。つまりHSPやADHD,ASD的な特性によって日常生活に問題を抱えている人がいるのではないだろうか。

上記の他にも、子供に多いとされる朝起きられない起立性障害、識字障害のディスレクシアなど。さらに頭痛に関して稀なケースであるが、心臓に小さな穴が開いていることが原因の頭痛、脳脊髄に何かしらの問題があることが原因の頭痛、卵巣の腫瘍が原因の頭痛など。

こうした様々な病気が世の中に認知されていない時代には、症状や特性が軽い場合には周囲から怠けていると誤解される事が多い。そして本人も自分の気持ちの問題だと自分を責めてしまう。
この症状は何だろう、はっきりとした病名も無さそうだし、がまんしようと思えば出来てしまうし・・・でも毎日のように続くからつらい・・・周りには同じ症状で悩んでいる人はいなそうだ等と悩んでいた症状が病気だと分かった時は、程度の差こそあれ嬉しいだろう。
そして本人達はその障害を持っていても働ける会社や社会を望んでいる。
障害が治らないのであれば障害が苦にならない働き方を望んでいる。
痛みのある病気の場合は、痛みを軽減する治療や薬、対処法を望んでいる。

生きづらさで悩んでいた人達の症状が病気として世間に認知される事によって、働きやすい社会に変えるきっかけを作ることができる。ひとつの取り組みとして、時代に合わせて障害者の認定区分を今よりも細かくするなどの方法も考えることができる。それに合わせて働き方についても会社側が障害者の能力別に分けることができる可能性がある。
そして何よりも障害者的な特性を持った人々を受け入れる寛容な社会になることが必要だ。

あるジャーナリストの方の記事にも書かれていたが、会社が経済的にゆとりのあった昭和の高度経済成長時代には障害者的な特性をもった人達を吸収する余裕があった。だが、罵倒したり窓際に追いやったり、仕事を与えずに別室で本だけ読ませたりといった扱いをしている大企業もあった。そうやって人間の尊厳を軽視して従業員を扱う社会を寛容な社会と呼べるだろうか。
仮に今の時代に経済的なゆとりがあったとしても、昔のようなやり方で従業員を扱う会社は社会的に生き残れないだろう。

障害という言葉を使うのであれば、今の時代は誰もが障害を抱えているといっても過言ではないだろう。他人と比較すれば人はどこか違っている。他人と比べると何かが劣っている、あるいは秀でている、何かが欠落している。何かの分野で秀でているとしても他人から見ればそれは障害かもしれない。逆に何も欠点がなく普通の人であっても、何かの分野で突出して秀でている人から見ると、普通過ぎることは障害なのかもしれない。

経済的にゆとりが無くても障害者的な特性を持っている人達を受け入れられる社会、そしてその人達が働きやすい社会は魅力的だ。職場での会話や人間関係も豊かになり心も豊かになる。それは親から家庭の子供たちにも影響を及ぼす。学校での生徒たちの心の寛容さにもつながる。
現在の会社などの組織では効率を求めて少数精鋭的な優秀な集団が求められる反面、それに合わない人々は除外されてゆく。そして国の人口減少も重なり日本全体のマンパワーは落ちてゆく。それでは国民の精神的・経済的な幸福度も上がらず、子供の幸福度ランキングも先進国で最下位近くのままだろう。

様々な症状で悩む人の多い現代では障害者が働きやすい社会はもちろんのこと、障害者的な特性を持つグレーゾーンにいる人達や、自律神経の乱れにより体調不良を起こす人達も働きやすい社会が求められている。つまり、それらの症状によって自身が無理をしたり、他人から非難されない社会だ。そして、それには社会全体が経済だけを優先するのではなく、そうした症状を持つ人達を理解し工夫して受け入れられる、心の寛容な社会になる必要があるのだ。


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