内なる衝動と芳香の誘い

ほんわりとした温かさがあたりを包んでいる。

張り詰めた寒さは遠ざかりつつあり、刺されるような痛みも感じなくなってきた。

一匹の生き物は地面でそう感じていた。

その姿は昆虫と呼ばれる生き物に似ているようだった(以後、分かりやすく表現するために彼のことは昆虫と呼ぶ)。

最近の彼は内側からある衝動を感じていた。それは小さい衝動であったが確実に感じ取れるものであり、何度も訪れた。

飛ぼう。ついにそう思い立つ日が訪れた。ブーンと羽をハミングさせるやいなや空へと舞いあがった。少しの不安はあったが、何かに襲われたときは彼の尻尾にある針を使うつもりだった。

彼は本能的に突き進んだ。あたりは太陽の陽が溢れて、あたり一面に咲く花々に降り注いでいた。昨日の雨が嘘のようであった。

それでも、時折冷たい風がせわしく羽ばたいている体を揺らす。そんな風に進行方向を邪魔されると、進むのはまだやめておいたほうがいいんじゃないだろうかと、そんな心配を抱くこともあった。

そんな内なる理性から発せられているかのような声は聞こえてはいたが、その昆虫に潜む何者かはこのまま進んで大丈夫だと判断した。

やがて一つの花を見つけると彼は舞い降りた。優しく花びらをかき分けて中に入った。探し求めているものがすぐそこにあると気づく。ゆっくりと鮮やかな色の花弁に辿り着いた。

やがて近くに突起状の蜜を含んでいる場所を見つけた。彼は自分の感覚器官を使って甘い芳香を感じ取り、まだ見ぬ前から蜜の色を感じ取った。その花の中の中心へと向かうとすぐさま人間の口に該当する部分を近づけ、中の蜜を吸い上げた。

今の彼にはこれが必要だと本能で知っていた。それはこの先の1年を超すために必要なものだったのだ。ひととおり満足するまで蜜を吸い上げると薄くて繊細な羽を何度かハミングさせた。

ブンブンと花の中で動き回ったおかげで花粉は彼の身体にくっつき、一緒に次の花へと旅をすることになった。そんなことは気にもせず、彼は次の花を目指して飛び立った。

やがて今いる花畑とは別の場所へ行ってみたいと思うようになった。いや、何かに誘われたと言い換えてもよいかもしれない。それは子供の昆虫が大人になる時の感覚に似ているかもしれなかった。いや、今の彼はもう大人だった。その昆虫の中に潜んで体験している彼は今よりもさらに「その先にいる大人」になろうとしていたのだった。

その先に進むには特異点を越えねばならなかった。普通であれば時間をかけて知らぬ間に超えるものであったが、彼は昆虫に潜む存在であったので普通とはやり方が違っていた。自発的に越えたいという欲求が湧きあがったのだ。だから内なる感覚を信じて特異点を目指した。

その場所は感覚が教えてくれる。彼の中にある衝動がその場所へ進ませた。途中で重々しいものが覆い被さってくるような感じがした。この先へ進ませまいとする外部から自分を抑圧する制限のようなエネルギーを感じた。それはまるでネットのようにまとわりついてきた。だが、彼は自分の自由意思を優先した。そうしてそのようなエネルギーを追い払った。

また、彼の理性が働いたのだろうか、絶えず様々な疑問が頭に浮かんだ。進む必要があるのか、それは必要なのか、それでいいのか等。そんなふうに一時は苦悶した瞬間もあった。そもそもそれは昆虫の道に反しているのではないのか。だが、そうした考えはやがて時間とともに過ぎ去った。

そして時間が経過して再びその苦悶が襲ってきたとき、目の前に鳥がブワッと現われて大きな口ばしで彼を食べようとした。彼は鳥の素早い動きに驚きつつも、らせん状に回転しながらうまく逃れた。昆虫に潜む彼は「まったくこんなところでやられてたまるか!」と思いながら必死で草むらに下降して鳥の攻撃をやり過ごした。

しばらくして、さっきの鳥が遠くへ飛んでいくのを確認すると彼は草むらから出てきた。やれやれと思って再び草の上から飛び立とうとすると、彼と似たハチのような昆虫の子供を目にした。彼らは親がいない間、留守をしているようであった。子供と言ってももう大人に近い。ただ、狩りができないので留守をしているだけなのであった。

彼はしばらくその子供達に近づき談笑したあと、さきほど収穫して体に蓄えた花の蜜を子供たちに分け与えてやった。これからも見かけたら少し分け与えてあげようと思った。そして再び上空へと舞い上がり特異点を目指して進み始めた。もう苦悩の感覚は襲ってこなかった。

しばらく飛んでいると眼下には親しい昆虫達を見かけることもあった。カナブンの姿を見かけた時は、彼らは何を目指しているのだろう、自分とは何が違うのだろうなどと考えていた。ここで地面に降りて彼らと交流しようかと迷ったこともあった。

しかし、彼は進むことを選んだ。彼はその先へ行きたかったのだ。辺りには山が多くなってきた。山に生える草むらが風にそよいでいた。太陽があたりを照らし気温も上昇していた。木々は堂々とその幹と枝を伸ばしていた。近くに生えている木々に何か質問してみたかった。だが、空を飛んでいる昆虫のことなどおかまいなしに木々の枝の先はつぼみを膨らませ、今にも新芽を開き新緑の世界を広げようと意気込んでいた。

やがて昆虫の彼は特異点に辿り着いた。彼は昆虫だが宇宙に存在するブラックホールを知っていた。特異点の外見はまさにブラックホールのようであった。中に入れば昆虫の体は粉々に砕けてしまうだろう。しかしここを抜けなれば新しい場所へは行けない。中に入ることを少し躊躇した。また戻って来れるだろうか。しかし、その不安よりも中に入りたい気持ちが上回った。

彼はどうすればいいのか知っていた。その渦に吸い込まれると同時に体を液体に変化させた。昆虫に潜む彼は昆虫の体ごと自在に体の状態を変化させることができた。やがて彼は特異点の反対側の世界に出てきた。渦の中心から出る時は液体として出てきた。彼は渦の中から滴り落ちた。サラサラと流れていたかと思うと、トロ~っと少しずつ粘着性を帯びてきた。やがてその先の岩に激突したかと思うとブクブクと泡が発生してゼリー状になり、やがて固体になり元の昆虫の姿に戻った。

辺りは山の中に広がる野原であった。その少し先には様々な花が咲いているようにみえた。彼はさっそく花の近くへと飛んで行った。そこには元の場所とは違う種類の花が咲いていた。バラやフリージアなどに似た花が良い香りを漂わせて一面に咲いていた。彼はその花たちの虜になった。夢中で花びらをかき分け蜜を探した。

花びらに囲まれたその空間の中で彼は暖かく包まれているような気がした。そして口を近づけ蜜を吸った。いくつかの花の中でそれを何度となく繰り返した。何日も何日も寝て起きては花の蜜を吸い続けた。しばらくして満足すると、花の上に出て休憩をした。どのくらい時間が経ったのだろう。思えば渦の向こう側に何か大事なものを置き忘れてきたのではないかと思う時もあったが、周りの咲き誇る花たちがその不安を癒してくれた。

花から離れて少し上空に飛んでみた。すると、遠くに他の昆虫達が見えた。ミツバチのような姿のもいたし、ハナムグリのような姿のやつもいた。遠くの木にはカナブンみたいな奴が樹液を吸っていた。なんだ、みんなここが好きなのか。彼は思った。

自分だけじゃない。他にもいるじゃないか。ここに魅了されている仲間達が。そう考えるとなんだか安心した。戻ろうと思えばいつでも渦を抜けてもと来た場所へ戻れそうだった。でも彼はすぐにはそうしなかった。ここが好きになったのだった。時に酔いしれ時に魅了され、花びらの中をまさぐった。

そして花々も彼のような昆虫達に花粉を運んでもらうことで助かっていた。あたり一面は花園となって楽園のように輝いていた。彼は何年もそこで過ごした。時々元の場所に戻ることはあったが、彼はこの花園を住処とした。ここは以前の場所と何が違うのだろうか。よく分からなかったが、自分の内から満たされた気持ちが溢れていた。

ひとつだけ分かっていたことは、ある程度の年齢に到達しており人生で一定以上の経験を積んでいないとあの渦は通過できないことであった。だから、ここは大人のその先の世界と呼ばれているのであった。花園の奥には未知なる花々も咲いているようであった。それは以前の花園に比べて少し大人びた雰囲気がしていた。そして彼はそんな花園でお気に入りの花たちに囲まれて何年も幸せに暮らしたのであった。


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