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優しくて易しい言葉を。

空っぽだなーと思っていた、ずっと。

「わたしはわたし」と思いながらも、どこか自分に自信がなかった。いつもだれかの”ものさし”の上で生きてる感じ。

たとえば、わたしは人と映画を観ることが少し苦手なんだけど、それは観終わった後の感想をうまく話せないから、だったりする。なんとなく相手に同調したりしてやり過ごすことになるんだ、毎回。

好きな映画、本、音楽…。とってもとっても大好きな気持ちがここにあるのに、やれ感想だとか何がどう好きなのか問われると、これっぽっちも言葉が出てこない。

なんだかなー。
この心の動きはニセモノなんだろうか。

「言葉にできないのは、考えてないのと一緒」いつかの上司に言われたセリフが胸をチクっと刺す。

空っぽだなー、わたし。

そんなどんよりした気持ちに風穴をあけてくれたのは、ある本のこんな一節だった。

言葉には2種類の言葉がある。それは、内なる言葉と外に向かう言葉だ。内なる言葉とは出来事や物事に対して率直に思ったことや感情が動いたことをいう。外なる言葉とは、自分が発言したことや書いたことなどだ。(「言葉にできる」は武器になる。)

心にストン、と落ちるとはまさにこのこと。
風穴に空気がすーっと入ってきたのを覚えている。

わたし、空っぽじゃないかも。

内なる言葉ならむしろ溢れるくらい持ってる。外なる言葉に翻訳するのが苦手だったんだ。

わからないことがわからないのはしんどいが、わからない正体がわかれば動ける。 そしてはじめたのが「書く」こと。

「あのとき、どんな気持ちだった?」「それはどうして?」「その気持ちは何に似ている?」「色でいうと何色だろ?」「天気に例えると?」

自分自身にインタビューしながら、内なる言葉(感情)を、外なる言葉(文字)に翻訳し、言葉のパーツを揃え、組み立てていく。

なんとなく感覚で生きているわたしにとって、この「書く」作業はなかなか苦しい。

でも、書きながら気持ちがチューニングされていくのが気持ちいいし、書き終えたときの快便感も爽快でよい。

それこそ「書く」ときの気持ちを例えるなら「走る」に似ているな、と思う。

呼吸、足音、汗。自分を観察したり、「どう?まだいける?」と自分と対話しながら走る、あの感覚に。


いつだったかベビーシッター先の子どもに
「”よっぱらう”ってどういうこと?”ふらふらする”っていうこと?」
「”べつ”ってどういうこと?”ほかの〜”っていうこと?」
って聞かれたことがあって、もうどれも正解だし、むしろわたしよりシンプルにわかっていて、すごいなーと思った。

自分の気持ちを言葉に翻訳しようとすると、ジャストフィットな表現とかうまい言い回しを探しがちになる。

でも拙くても伝わることって、ある。


言葉に愛と熱を。

優しくて易しい言葉と仲良くしたい。

いつか息するように書けたらいいな。


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