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ペラと「面倒くさい」私。

いくつかの記事が書きかけのままになっているんだけれど、なんとなく仕上げきれなくて、今日になった。もう4月が1/3終わる。

今日の空は晴れだが、嫌だなと思うことばかり考えてしまう日みたいだ。


「ペラ」という言葉がある。紙じゃなくて、お喋りな人の意味で。

嘘つきは論外として、お喋りな人というのは時として他人に本当に嫌な思いをさせることがある。特にそれが嘘でない場合、お喋りな人にとっては何が悪いのか理解できなかったりするのでややこしい。

かくいう私もわりとペラだ。でも今ではそれを自覚していて、弁えているつもりで、従って過去の自分を大いに反省している。思い出すと声が出るくらいには。お前のペラどうにかしたほうがいいぞ、とは言われなかったけれど、ちゃんと伝わるように、嫌みでもなくフラットに、伝えてくれた友人には感謝してもし切れない。

そもそもお喋りが下手なので、何か知っていることで話題を繋ぎたくなってしまう。だからかつては、そこでペラを発動してしまうことが多くあった。

でも今は無理しない。そこでその会話が途切れようとも、未来の信頼のほうが自分にとっては大切だと考えるようになったから。


さて、私の周りにはペラが多い。嘘はそれほどないと思うが誇張は大いにありそうだ。そして噂話が好き。

とんでもない田舎の中小企業にも人事異動や転勤がある。その度に、内示があるや否や社内はその話題でもちきり。探り合いどころかそもそも本人が黙っていられなかったりもして、それがもうその度に、本当に本当に嫌になる。その何も生まないやり取りが無駄で面倒だし、何よりダメと言われたことを平然やってしまうこと、それを良しとするのも大嫌いだ。

ともかく私はそれが大嫌いなので、なるべくそういう話からは遠ざかるようにする。直接何かを聞いてくる人には、実際はどうであれ「その話はしない」というようなこと言う。

だって、言ってはいけないのだ。そういうルールなのだ。ルールは変えても良いが破ってはいけない。自分勝手にルールを破る様を見ているだけでも気分が悪いのに、他人にまでそれを押し付けてくるのは本当に質が悪い。

そうしてこのような振る舞いを続けていると「堅い」「冷たい」「面倒くさい」等と言われるようになるわけだけれど、それが堅くて冷たくて面倒くさいのならばしょうがないと思う。そういうことではないのだけれど、そう受け取られるのならば、その受取り手にとってはそれが全てだ。文句を言っても仕方ない。


あー。そうだ、文句を言っても仕方がないのだ。


いま、勢いづいて書いた一言だけれど、実にそうだ。自分以外誰も変えられないのだから、文句は文句でしかないし、そんなことに時間を使うのはもったいないや。

だから、私にとっては書くって重要だ。あなたは書かなくてもいい、描いてもいい、謳ってもいい、奏でてもいい、どうぞ自分に合った方法で。

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