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人生で一度きりの、今年の春が待ち遠しい。

 春が待ち遠しい。そんな気持ちを込めて、葉もない樹木の前で撮影した写真を、Facebookのプロフィール写真にした。花のない植物も生きている。木枯らしになっても、根は死んだわけではない。土の中で次の季節の準備をしている。巡り巡る季節の中で、葉をつけ、果実を実らせる。桜が咲くのは待ち遠しいけど、我々人間の花見なんかのために、急いで桜は準備をしない。自分のペースで咲いてほしい。他人の願いなんかに耳を傾けない。あなたのタイミングで、咲いて。悲しくなったら泣けばいい。嬉しくなったら笑えばいい。狂い咲きと言われてもいいから、あなたの時計で春を告げてほしい。

 年末に小田原は米神(こめかみ)に移住した。ここは桜の名所でもある。しかし、まだここで桜を見たことはない。話には聞いているだけで、本当に桜の名所なのか、まだ知らない。住んではいるけれど、知らないことが山のようにある。季節によって見せる風景は違うだろうし、住む年月、人との出会い、時間の経過によって、この場所に見出す心象風景はどんどん変わっていくと思う。住んでいるけれど、まだ出会ったことのない風景がたくさんここにはある。

 小田原城では梅が咲いていた。最寄りの根府川駅から新居米神に歩くまでの間で、おかめ桜を見つけた。でも、まだ一番見たい桜には出会っていない。それは、新居から歩いて三十秒の場所にある。そこには踏切があって、線路を渡ると急な下り坂がある。道の脇には幾筋もの横線が刻まれた木が植わっていて、詳しい名前はわからないが、その特徴からそれが桜という樹木だということがわかる。それが咲いた風景に出会いたい。まだ見たこともないその風景を、米神に遊びに来てくれた人たちに自慢している。

春になったら、この坂には桜が咲くんだって。
後ろには山と柑橘畑が広がって、向こう側には海も見える。
また米神に来てくれたら、ここで花見をしようよ。

 昨日、そこを歩いたときに、枝の先端に無数の蕾が宿っているのを見つけた。力を蓄え、ぎゅっと中央が膨らんで。食べたら苦そうな茶色と桜色が混ざっていた。数十秒ほど眺めていると、いつの間にか蕾の中に視点が移動していた。中から外を眺めていて、過ごしてきた春がごちゃ混ぜになった景色が見えた気がした。ぼくにとっては苦しいことも楽しいことも、半々くらいなのが春という季節だ。

 10年前の春。ぼくは高校1年生だった。バスケットボール活の退部届けを提出して、春休みを迎えようとしていた。地面が大きく揺れて、その日は311と呼ばれる日になった。これまで大切にして来たバスケットボールと、部活という所属から離れたタイミングで、311という社会的なカタストロフが起きた。自分だけじゃなく、社会のあり方も変化を求められた。15歳の少年のアイデンティティは目的地を求めていた。

 すがりつく場所が欲しかったのかの。ぼくは、服を作った。頼るものがなにもない世界で、自分自身にすがりつくためか。自分で作ったものを自分にまとわせる必要があったのだろうか。部活を辞めたことで生まれた、有り余った時間と行き場のないエネルギーを、針と糸に託した。無地のシャツに、色とりどりの糸で刺繍をし、絵を描く。それを着ると、とても誇らしくなる。通り過ぎて言った時間が、手縫いの刺繍には宿っている。出来上がった2枚のうち1枚は、数年後に行方不明になってしまった。もう1枚は今でも大切に着ている。

 知らないところに行きたくて、去年の夏は鹿児島の桜島を訪ねた。桜島は噴火が日常にある町で「どうしてこんなところに住んでいるんだろう」と、部外者のぼくは思った。火山は良くも悪くも色々な影響を人々の生活、経済、政治にもたらすようだった。日本は活断層の上にあるから、いつ脅威的な震災が起きてもおかしくない。誰かの100日後を、あなた自身が見届けられる確証もない。生きていると、様々な常識を蓄えていく。ドイツの理論物理学者であるアインシュタインはこんな言葉を残している。

「常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのこと」

 この言葉が大好きで、常識という言葉とか、普通、当たり前という言葉を安易に使う人とは、一緒にかけっこはできないと思う。だからか、決めつけない人と出会うと、若々しいと感じる。色々な前提が壊されて、取っ払われたその先に、新しい文化が咲くのだと思う。皆が「地球を中心に世界は回っている」という、蔓延していた嘘に騙されていては、世界は前進しなかった。でも、次に生まれた新しい事実を、ぼくは実感したことがない。

 人から聞いた話ばかりでは、やはり、いつか振り回されると思う。自分の責任や、幸せに、自分で責任を取る。そのために、自分が何を感じ、何を考えたのかを大事にしたい。暗い気持ちになることも多いけれど、それは一生続くわけじゃない。そして、やっと到来した春もすぐに過ぎ去っていく。人生で一度きりの、今年の春が待ち遠しい。家に遊びに来てくれたたくさんの人に、出会ったこともない桜を自慢した。明日生きれる保証はどこにもないけれど、ぼくは見たこともないその桜を、また来年も見たいと思う。

春になると、この坂には見事な桜が咲くよ。
去年の春には近くの海でたくさんの魚が連れた団。
また来年も、米神に来て花見をしようよ。

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