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ぼくは買いたいのは食材だ。お願いだから、ゴミは付いて来ないでくれないか。



環境問題のアクティビストの方とご縁があり、交流の機会が増えた。ぼくじしん、環境問題に、これまで断続的に興味をもち、そのつど小さなアクションを行ってきた。ほんとうに小さいけれど、列挙してみる。


1:ペットボトルを使わない
2:ビニール袋をもらわずにマイバックを持参
3:よく歩く道のゴミ拾い
4:海のゴミ拾い
5:廃材を使った作品制作  ( 「人、そして溝」という作品)
6:廃材の再利用(リユースというらしい)
7:必要でないものは買わない
8:個別包装ではない商品を選ぶ
9:友人と買い物の際に「それ、ビニール袋いらなくない?」と言う
10:家にひとつしかゴミ箱を置かない。(又はゴミ箱のサイズを縮小する)


10は特におすすめで、部屋で何かをするとき、ゴミを捨てる行為が大変面倒くさくなるので、ゴミが出るような行為や消費行動が抑制される。小さなアクションでも、積み重なると、大変な違いになる。まさに、塵も積もれば山となる、である。

実例を挙げる。ぼくは2年前まで住んでいた家では、1週間で40Lの燃えるゴミ袋をいっぱいにしていた。しかし、10を実践してからは、5Lのゴミ袋で2週間もつようになった。これを計算してみると以下のようになる。


40L / 1週間 × X = 2.5L / 1週間
X = 2.5 / 40
X = 1/16


つまり、ぼくのゴミが出すゴミの量は1/16になったということだ。実際は燃えるゴミ以外にも、不燃ゴミなど他の種類のゴミがあるから、1/16になったと一概には言えないかもしれない。しかし、それでも1/16はぼくにとって衝撃的な数値だ。



ゴミを減らそうと考え始めると、いかに日々の行動が「ゴミを捨てる時間に捨てられているか」と気付かされる。ぼくはこれまでの生涯で、一体何時間をゴミを捨てる作業に費やしていたのだろうか。

例えば1つのゴミを捨てるのに、移動時間などをあわせて10秒かかると仮定する。計算を簡単にするために 160回/1週間 のゴミ捨てを行ったとき、合計で1600秒(26分40秒)をゴミ捨てに当てている。ゴミを捨てる回数が1/16になれば、1600秒 × 1/16 =100秒(=1分40秒)になる。この差を計算すると1600秒 − 160秒 = 1500秒 = 25分となる。

1週間あたり、25分の時間をゴミを捨てる時間から拾い上げて他の時間に当てることができる(!)。

そしてこれを年や生涯で(単純)計算していくと、以下のような結果が得られると考えられる(間違っていたら教えてください!!!!)。


1年は約52週間なので、
25分/1週間 × 52週間 = 1300分
= 21時間40分 


寿命を80年だとすると
1300分/1年 × 80年 = 104000分
= 1733時間20分
= 約72日

これは睡眠時間を考慮していないので、
睡眠時間を8時間として計算すれば
この72日は1.5倍の108日に化けるかもしれない


つまり、

ゴミを捨てる回数を1/16にすれば、
生涯で3ヶ月半の時間をゴミ捨ての時間から拾い上げることが出来る。

この計算式は、前提の部分がかなりテキトーなところがある。しかし、こういった形で、不必要な時間を計算し、人生に数ヶ月のゆとりを持たせることは、難しい想像ではないのではないだろうか。



実際、1回のゴミ捨てにどれ程の時間がかかり、日々の生活の中で何回ゴミ箱に足を運んでいるかはわからない。しかし、日々のゴミを1/16にすることも、ゴミ捨てにかかる時間を25分回収することも、ちょっとした意識で実現できる。

具体的な方法として、ぼくは最初に列挙した10のことをやっている。他にもいいのがあれば、教えて欲しい。

ゴミを捨てている、ということは、それだけ不必要なものを買い込み、その保管・手入れに時間を取られているということでもある。ゴミを売る販売者の時間も、それを買ってさらには捨てるための時間までをとっている消費者の時間は、非常にもったいないように感じる。ゴミを作り、そのゴミを売り、無意識そのゴミを買い、ゴミを捨てる人生。そんな人生を誰が望むだろうか。

先日、友人と買い物に言った。彼は1本のペットボトルを購入した。店員は律儀にもそれをビニール袋に入れ、さらにストローまで入れた。友人は、お店から出るとペットボトルを袋から取り出し、ストローが入ったままの袋をゴミ箱に捨てた。あの"茶番"はなんだったんだろう。しかし、これをぼくは今まで何度もやってきたことがあるというのも事実だ。たまたまぼくが「ゴミへの意識」が高くなっているから、茶番だと感じたけれど、何も考えていなければ、彼と同じことをしていたかもしれない。



食品をはじめ、何かを買うときに、それらは大抵パッケージに包まれている。お水はペットボトルに入れられ、野菜もおにぎりは透明な袋でラッピングがされている。ハッピーターンは、可愛いターン王子が描かれた袋に入れられている(からぼくは買ってしまう)し、iPhoneなんて本体の6倍ほどある大きな箱に入れられて手元に届く。

しかし、一回考えてみて欲しい。ぼくたちは何を買いたかったのか、ということを。商品なのか、その包装なのか。

それらを買うとき、ぼくが欲しいのは、それ自身であって、それを囲っているゴミはいらない。野菜だって、いちいち個別包装する必要があるものがいったいどれだけあるのか疑問だ。しかし、包装がないと困ることだってあるのはわかる。



もし、ハッピーターンや生ハムを本体だけ購入できたら、手がすんごいアンハッピーな状況になる。野菜の包装には生産者の情報がのり、ブランディング、差別化のために使われている。しかし、じぶんが野菜の販売者やそのデザインを頼まれた立場ならら、包装に「消費者が買いたくなるような情報をデザインする」という選択を取ると思う。じゃないと、売れないし、売れないと生活が成り立たないと思うから。だから、一概に包装(や広告)を全部悪いものだと言うこと、違うとも思う。

(こうやって書いてみて、「包装しないことでブランディングする」新しい商品の販売のアイディアを生み出してみたい、と考えるようになった。ぜひ、販売したいものがある方は、お声がけください。(ちゃっかり)。できる限りの頭を使って、いい販売方法を実践したいです。)



それでも、包装は過剰になりすぎているのでは、疑っている。時にその包装に載せられている情報は嘘のものだ感じられるし、商品が欲しいのではなくて、その包装につられて商品を買ってしまった体験がこれまで何度かある。(これは完全にぼくの尺度であり、落ち度だが、稀に「詐欺」としか思えない商品に出くわすこともある。)


何かを購入したり、手に入れるときに、考えれることは沢山あるんだと考えさせられた。また、何かを手に入れるとき、それが本当にほしいものなのか、や、その商品を見る「目」というのはどのように養えばいいのだろうか。そんな新しい疑問が生まれた。

ある品を手に入れたと思ったら、それ以上に、捨てる部分が多かったりしたら、げんなりしないだろうか。例えばだけど、八百屋で売られている野菜は、包装がされていないことが多く、包装のゴミを減らせる。また、顔なじみになると旬のものや美味しい個体を教えてくれる。そういった交流は楽しいし、友だちが増えることは嬉しい(ここだけの話、鵠沼海岸のぼくの行きつけの八百屋の看板犬は、とてつもなく可愛い)。

ぼくは買いたいのは商品、それ自体だ。お願いだから、ゴミは付いて来ないでくれないか。






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