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雪の降った日には、僕を助けてくれた老夫婦を思い出す

北海道の田舎から上京して早8年。

こんなに雪が降ったのは当時まだ大学生だった4年前以来か。

八王子の山あいに位置する友達の家に集まって遊んでいたのを覚えている。

では、その前に大雪が降ったのはいつだろうか?

はっきりと覚えている、その更に4年前の2014年の2月だ。

当時浪人生だった僕がその時、老夫婦に受けた恩を私は今も忘れていない。


2014年2月8日。

当時僕は高校を卒業した後、札幌で1年間の浪人生活を送っていた。
現役時代は全落ちで、どこの大学にも引っかからなかった僕だったが
1年の勉強期間を経てようやく志望校が手の届く範囲まできた。
さぁ、後は飛行機に乗って東京入りし、大学の試験を受けに行くだけ、
という状況だったのが2014年の2月8日。

新千歳空港から昼過ぎに羽田へ発つ予定だった飛行機は
夕方になっても夜になっても飛ぶ気配がなく、結局その日は運休となった。
北海道に住んでいながら、東京の雪が原因で飛行機に乗れないのはなんだか不思議な気分だった。

まぁ、運休なら仕方ない。
「明日は飛ぶんでしょ?それに乗せてくれよ」と吞気な気分でいた僕。
次の瞬間、館内アナウンスが聞こえてきた。


『なお、明日の振替便は羽田、成田行き共に全便満席となっております』
「???」

明後日の第一志望の大学入学試験、間に合わねえじゃん。


本当に勘弁して欲しかった。動揺した。非常に困った・・・
困り果てた僕は、突然隣にいた見ず知らずのお兄さんに


「あの、僕受験生なんですけど、明後日入試で・・・どうにか関東行く方法ないですかね・・・?」


と尋ねていた。今考えると、普通のお兄さんであれば、自分だって困っているのだから助ける理由も義理もない。
だけどそのお兄さんは、普通じゃなかった。
陸路・海路・空路、全ての航路を探して翌日中に東京へ行ける方法を探してくれた。
東海や関西の方まで翌日は中々取れる飛行機はなかった。
ただ、なぜか一つだけ翌日の飛行機を取れる空港があった。
行先は福島空港。もうそこに行くしかなかった。お兄さんと「僕、福島行の飛行機に振り替えてきます!」と
話していると、後ろに並んでいた老夫婦がどうやらそのやり取りを見ていたらしく


『わたしたちも明日山梨に帰りたいから、一緒に福島行の飛行機でご一緒してもいいかしら』と話しかけてくれたのだ。


こうして、僕・お兄さん・老夫婦の即席パーティーが完成し、みんなで翌朝福島へ行くことになった。
その日の夜飯は老夫婦のおじいちゃんがガストをおごってくれた。
翌日の朝いちばんの便なので札幌でどこか泊る所を探す余裕もなく、空港のロビーで一夜を過ごすことにした。
いきなり訪れた非日常アドベンチャーを前にアドレナリンがドクドクだったのと、真冬にたった二枚のペラペラ毛布では寝られるはずもなく、横になっているとすぐに翌朝になった。

2014年2月9日。

4人で福島行飛行機の搭乗手続きを行おうとした所
僕たちを助けてくれたお兄さんへ、ツアー会社から電話があった。
羽田行の飛行機の座席1名取れてるから、それで帰ってくれという電話だった。
お兄さんにとっては良かったこと。ここまで本当に助けて頂きありがとうございましたと何度もお礼をして
Lineを交換した。けど、当時は一緒に福島行ってもっとお兄さんとたくさん話ししたいなと思っていた。
受験のことなんて半分忘れていた。


パーティーのリーダー・お兄さんを欠いた我々は、勢いのままに福島行の飛行機へ搭乗。
飛行機の中でおじいちゃんとおばあちゃんと沢山お話をした。
山梨の笛吹というところに住んでいること。二人とも地元は九州だということ。
娘さんがふたりいること、お孫さんも含めてみんな女性ばかりだということ。
たくさん喋りたいおじいちゃんとそれをやさしく見守るおばあちゃんがとても素敵で
とても楽しかった。そうしているとすぐに福島空港へ着いた。

なぜこの空港へは振替えをする人が少なかったのかは降りてから気づいた。


この空港、陸の孤島なのだ。

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近くの主要駅まで出る手段が車とバスしかないが、今日は昨日の大雪が降ったばかり。
そこでも2時間近くバスを待って、ようやく郡山までたどり着いた。
そこから新幹線に乗ってようやく東京・・・というところまできたが、田舎者の僕は、新幹線に乗るのにこんなにお金がかかると思っていなかった。
手持ちのお金を文字通り全部使って新幹線のチケットを買った。

新幹線に乗る前におじいちゃんが
『駅弁と飲み物買っていこうぜ~』と話しかけてくれたが、お金のない僕は
「いや、まだおなか減っていないんで・・・」と少し寂し気に返した。すると
『俺のおごりでもか~?^^』とニコニコしながら言ってくれた。
僕のお金がない様子はどうやら、見られていたみたいだ。

お言葉に甘えてお弁当や飲み物やお菓子を買ってもらい、三人で食べているときに
「なんだがこの年で息子ができたみてえだよ」とおじいちゃんは笑って話してくれた。
歳的には孫なのだが、おじいちゃんの親戚には男の子がいなかったのもあってどちらかというと、息子だったらしい。
なぜだか凄く、うれしかった。

東京についた後は、携帯番号を交換してからそれぞれ別の電車に乗って別れた。
受験が全て終わり、合格発表も出そろった段階で、1カ月ぶりにおじいちゃんへ電話をしてみた。
第一志望には合格できなかったけど、「中央ならまぁセーフだろ!」とおじいちゃんは笑ってくれた。

あれから1度手紙のやり取りもしたのだが、大学生活を楽しむにつれて連絡するタイミングをなくしてしまった。
私が何度も引っ越す度におじいちゃんの住所の書いた手紙を無くしてしまい、携帯も変えたタイミングで電話番号がわからなくなってしまった。

『東京オリンピックまで生きてられるかわからねぇよ!』
おじいちゃんは当時そんなことを言っていた。今も元気なら80歳かな。
「山梨県の笛吹の家に行く予定だったのになぁ」
そんなことを今になって後悔している。
ただ、それ以上に感謝している。

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