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アラフォーのボクが、“超かわいい自分”を発見したので、おまいら同士にレポートしたい。

仕事中に電車に乗っていると、
いかにも、うだつの上がらなそうな白髪しらがのおっさんが、マスクなしでクシャミした。

「へっくちゅ!」

え!?

そこにいるみんながおっさんをみた。
色々とツッコミどころが満載ではあるが、とりあえずビックリした。

なにが、っていうと、
おっさんの口から出るには、
“かわいすぎる”からである。

ボクはしばらくモヤッとした。

電車から降りるなり、
「へっくちゅ!」
とかわいくできるのか試してみた。
なんだ、ボクも普通にできちゃった。

しかし今思えば、
くしゃみを試していたときの自分。

異常にかわいかったんじゃないか。

アラフォーのオトコが言うことじゃないが、
「へっくちゅ!」
とくしゃみをしちゃうボク。

超かわいいと思う。
同時に、二度とやらないでおこうと決めた。すこしでも自意識があればやれたものじゃない。

自分で自分のことが少し嫌いになった。
くしゃみの仕方ひとつとっても、自分らしさは打撃を受けるということなんだろうな。


そういや、昭和だった子どものころ
“ハックション、チクショー!”
というのが、おっさんのくしゃみの神業かみわざのように存在していた。
志村けんのコントでもよくあった。

実はこの独特の神業かみわざは奥が深く、例えば、
“ハックション、チクショー!”
以外に、

“ハックション、チクショー!こんちくしょう!“

“ハックション、てやんでぇバーローちくしょう!”

と“ハックション、チクショー!”から派生したサブウェポンがある。
ハックションのあとのフレーズは、川の流れのようにサラサラと言わねばならない。

なんでチクショーって言うんですか?
意味なくないですか? 

と平成世代が不思議に思うのはごく自然で健全たるものではあるが、決して聞き返してはいけない。それは格闘家に対して、暴力は良くないんじゃないですか?と聞いているようなもの。一種のアクセサリーの感覚であって、それを身につけている彼らの存在を否定することになりかねないのだ。

と、まてまて。

「へっくちゅ!”」
ってクシャミを試すオレって、なんてカワイイんだろ、と書きたいネタであったのに、
そこから派生して新しいネタが生まれ、えらく前置きが長くなってしまった。

アラフォーのくせに、
なにが「異常にかわいかったんじゃないか。」だ。
そんなこと感じる“レアなキモいやつ”なんて日本中探したっているかいな。

燃え尽き症候群

久々にnoteに向き合った。
燃え尽きた。
精根尽き果てた。

前回の記事。

構成から含めて、推敲を繰り返し、アップするまでに向き合った時間を合計すると、10時間をゆうに超えている。
一週間のうちに10時間もnoteに向き合うなんて、まあありえない。

ボクnote史上で一番の時間をかけ、
これ以上の努力はムツカシイところまでやりきった。

本命の合コンに行くために、前日からバッチリメイクをほどこしたというところであろう。

そんでもって、
がらでもなく、クソ真面目の気合を入れたボクのメイクをみてくれた同士が、ちゃんといてくれて、

“心が揺さぶられた”
“泣いた”
“素晴らしい”

なんて評価をしてくれるもんだから、
しゃに構えるボクでも、やっぱり嬉しくなる。高揚感こうようかんがメラメラして興奮する。オレかてヤればできるのか、なんて勘違いだって、そりゃあする。

みんな、ありがとう。

こうなると、すっぴんは見せたくない。
“下痢ピー”だの、“オッパブ”だの、“汗くせー”だのといったひんのない過去記事をすべて消し去りたくなった。

が、
そんなのは一過性。
物書ものかきの長年の経験で知っている。

こんなメイクを施した顔のお披露目なんてのは、向こう一年はきっとない。
というかムリ。
“ネタを探す”という意識でヤル気をみなぎらせると、しんどいのがわかっているのだ。

現に今日、
平気で「へっくちゅ!」なんてくだらねぇ話を冒頭にもってくるほどのヒドい落差を平気でご披露するくらいだから。

でもこれがボクの平常運転。
ラフな寝起きのすっぴん姿である。

ネタ切れなんてのは、実は誰もない

くだらねぇ話9割、ちょっと良い話1割で
構成されているボクのnoteは、少し気をぬけばエロとカネの話。
そうでなければ、やれウンコ、やれシッコ、やれオンナと、読んでいるうちに三半規管さんはんきかんがおかしくなる文章の羅列である。

無料という言い訳でテキトーなゴミ文章をWEBに放流して、なんて世知辛せちがらいのだろうと、いつも感じるが、

しかし、そうやって細々ではあるもののnoteを始めてまもなく2年、ここまで継続した。
同じ時期に始めた同期のnoterさんの更新は、
ほぼストップしてしまい

それを目の当たりにするたびに、
“好きだったのになぁ”と、
残念で仕方なくなってくる。

きっと多くのnoterさんは、
ネタ不足、ネタ切れで
その後、再開すりゃあいいやぁ、
で一旦、休止するのだろうが、

一ヵ月何も書かずにいると、さぞや書くことがたまっているはずだ、と思うのは、
ボクの経験上、間違いであって、
実はそんなことはない。

むしろ一ヵ月間、何も書かずにいたら、
アタマが空っぽになって、
再起動が困難になるのだ。


以前、ジムに通い出したと書いた。

その後、四ヶ月ほど続いているが、
負荷をかけすぎないように意識しながらやっている。やる気はまるっきりみなぎっておらず、すごく淡々とやっている。

でも肉体はそれなりに変化した。
嬉しい、続けよう。そう思う。

なるほど、と思った。
継続に“やる気”なんて、べつにいらないじゃん、って。

なにかを継続するために大きな興奮は必要ではなく、それどころか、背伸びして効果を実感しすぎてしまうと長期的にはそれが邪魔にすらなるんだろう。

文章を書くのだって同じ。
ばっちりメイクを意識しすぎたり、人からの高評価に喜びを感じたりしすぎると、
なんだか自分の本当の感情を書くのが“怖い”とか“めんどくさい”という気分になってくる。

書くネタは、書いている最中に生まれてくる。というよりも、実態としてはネタAを書き起こしているときに、派生的にネタA’が枝分かれして生まれる。
だから一ヵ月何も書かなければたまる、というのは間違いで、実は書けば書くほど、持ちネタは増えるものである。

だからネタを生み出す解決策は、
書きつくすことなのだ。

noteをやめたいと思ってるあなたに、いま伝えたい。

ひとりの人間が持ち合わせている
『書きたい&客観的に書く価値のありそうなこと』
なんて、そんなに個人差はない。
毎日更新を継続するスゲエnoterさんがボクのフォロワーさんには4人いるけれども、

この方たちの日常にだけ特別に
ネタになるものが永続的に降り続いているわけではない。

じつはその真逆で、
このnoterさんたちはきっと、“ネタ探し”をしていないのだ。

“ネタを探す”という意識を強くして
世の中を見てしまうと、ネタフィルターに引っかかるものしか残らない。

そのフィルターの目は非常に粗い。

しかし実はそのフィルターから抜け落ちてしまった細かいもののなかに、
誰にも見つけられていないホンモノのネタがあるのだ。

ボクはそう思っている。
だから“雑記”にこだわる。

日々の暮らしのなかで感じたこと、思ったこと、そういうカタチになっていないぼんやりとした思考を書くことで、
自分のコトバに落とし込んでいく。

その継続が、誰にも発見されていない思いもよらぬネタをもたらすのだ。
つまり、なんてことのない日常のなかにこそダイヤはひそんでいる、ということ。
そのことに気づいてしまうとネタは無限大にあるので、“ネタ探し”はいらなくなる。

noteの先生気取りの意見なんて一切気にすることはない。

「結論から書きましょう」、
「○文字以内でまとめましょう」、
「こういう内容は読まれないよ」、
「タイトルは〜、トップ画像は〜」

うるせーよ、
しらねーよ、
と真逆のスタンスをつらぬくボクは、こんなのは“ウンチ♡ベチョリ”と果敢かかんに反論させて頂きたい。

プロでもない素人なんて、そんなもん考えてり固まらずに好きに書けばいいのだ。フォロワーのために記事を書くなんておこがましいことを考えなくたっていい。

そんなメイクアップした自分ではなく、
すっぴん姿でコツコツやる中で、自然とついてくるフォロワーさんを大事にすればいいのだ。

何度か書いたことがあるが

ボクは誰のために土曜日の早朝に起きて
書いているのか?

それはまぎれもなく、自分のためである。

もっと的確に言うと、
“すっぴん姿のボクと同じ感覚や考え方をもった、この日本のどこかにいるもう1人の自分”
に向けて書いている。

その人が“わかるわぁ”って言って、
クスっと笑ってくれれば、
それでいいのだ。

いいかい?
わかる?
大事なことなので、もう一度言うよ。

「へっくちゅ!」
とかわいく言えるか試したボクをね、
カワイイと思ってくれる日本中探してようやく見つかるレアなキモいあなたがクスっと笑ってくれれば、

ボクは、それでいいのだ。

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