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狂ったようにチラ見監視されながら、狂ったように‘’フルーツ天ぷら‘’を作るアラフォー男の半日をつづる

なんとも末恐ろしいものを作ってしまった。

昨日の昼下り。
妻が学生時代の友人たちと会って晩ごはんを共にするとのことで、久々の開放感に浸りながら満面の笑顔で出かけて行った。

ポツンと残されたボクと3人の子どもたち。

はて。
晩ごはんをどうしようか。

みなさんは
飯をナニも食わないと人間がどうなるのか、
ご存知だろうか?
ご存知ないだろう。 

腹が減るのだ。

腹だ。腹が減る。
腹以外のどこも減らない。腹だけが減る。
「腹って、こんなに減るんだ」と驚く。

そう、どう言い回そうとも、
どう表現しようとも
腹が減るとしか言いようがないのだ。

だから仕方がない。

残されたメンツで最年長者であるボクが、
‘’消去法‘’で晩ごはんをつくることになった。

‘’消去法‘’とは表現したものの
ボクは多少の不安を覚えつつも、実は内心では意気揚々、ワクワクしていた。

それもそのはず。
以前よりネットで気になっていた
「フルーツに天ぷら粉をつけて揚げると甘さが際立つ 

‘’フルーツ天ぷら‘’なるもの。

人生で一度も食べたこともないこの代物しろものに、チャレンジしてみようと思ったのだ。
こういう意識の高さで比較すればボクの右に出るものはいない。
実は妻が外出する予定を知った1ヶ月前から入念に計画し、地固めをしながら準備をすすめてきたのだ。

天ぷらと言っても中身はフルーツだ。
甘いのだ。

きっと子どもたちは喜んでくれるに違いない。

ボクはこの日のために事前に買っておいた
りんご、バナナ、パイナップルを
身の程も知らずに、本能的に負けじとストロングスタイルを貫いて、
次から次へと衣をつけて揚げていった。

子どもたちと一緒に作っていると
次第に揚げるのが楽しくなってきて
もはや壊れた機械。

制御不能となり
“三種のフルーツ天ぷら“は
みるみるとオニのように大量に製造されっていった。

そして……
できあがったもののその味は……

想像を遥かに越えるものであった。

パイナップルは水分を完全に失いパッサパサ。気の持ちようではどうにもならない領域に達した不味さであった。

バナナは無味であった。
しかし極めて独特のにおいを放ち、その上あのグニャっとして、ネトっとした素材の柔らかさからくる不快感が食べ物としての評価を最低レベルにまで引き下げてしまっていた。

そして、極めつけはりんごである。
こちらは、最もやってはいけない方向に極め抜いてしまった、反骨のマスターピースであった。

まるで「入浴剤」のような味がした。

中でも、おそらくバブのそれに近い。
間違いない。
これは子どもの頃から慣れ親しんだ花王の「バブ」であろう。

これまでの人生を振り返ると、
入浴剤を食べたことはまだ一度もないが、
そんな入浴剤経験の浅い自分でも、

かなりの自信を持って入浴剤味、中でもバブ、さらに種類までいうと「ひのき」だと断定することができたのだ。
 
食べ始めた時は入浴剤の放つ特有の芳香臭に圧倒され、
箸を持つ手が凍るものの
飢餓きがに身を任せ、

自分にも、子どもたちにも
「これは旨い、最高じゃないか」
と言い聞かせてボクはニヤけながら率先して強引に食べ続けた。

君たちよりも人生を知り尽くしている。
うまいものを知り尽くしている。
これは美味しいものだよ。

親鳥が口を開けて待つひな鳥にエサを食べさせて教えるそのさまのように、
圧倒的スタンスを崩すことなく、ゴリ押ししまくる。

それしかないと思った。

そうこうしているうちに
次第に入浴剤への理解が深まり、
くせのあるひのき風呂の味が意外と白米とマッチすることに気付き、最後は、無類のひのき風呂好きを誇れる域に到達するようになるのではないか、

と期待していた。

しかし非常に残念ながら、その期待は裏切られた。最後まで "ひのき風呂" の魅力を理解することは親鳥であるボクですら一切出来ず、決して完食することはなく、ついには吐き気をもよおしたまま終わってしまったのだ。

「やっちまったぜ!」

子どもたちにも受け入れがたく不人気で大量に残された天ぷらの山。

それを見つめるボクは、大人として男として料理に敗北したことを認めざるを得ない。

と、
男らしく敗戦の弁をビシッと述べてこの記事を締めくくろうと、少しばかりニヤニヤしながら‘’天ぷらの山‘’の写真を撮影した。

そして、アップロードしようかと思った

今、この瞬間。

ボクの炎上回避センサーが
ビビビビビッー
と、反応して手が止まった。

粛々しゅくしゅくと、ここまでボクの日常の一コマをつづってきたが、
このノリで、そんなことをしてしまったらどうなるものか。

「常識のよろい」を装備して、「大衆の正義」を武器にしたネットの向こう側にいる監視社会からボクはメッタ刺しされてしまう可能性がないだろうか。

リンゴ農家が可哀想じゃないか

食べものを粗末にするな。

こんなので笑えるのって沸点低いっすねwww
 (※笑いの沸点が低いことは満を持して認めようではないか)

そう。
写真をアップロードするとネットの向こう側で「了解しました」と回避不能の事実認定へと移り
ボクはこうやって日常の一コマを披露ひろうしたばっかりに“地の果て“にまで落ちるリスクを背負ってしまうのだ。

もしかしたらボクはnoteのアカウント削除にまで追い込まれるかもしれない。

だから、冒頭の話はフィクションかもしれないし、ノンフィクションかもしれない。

今回のことは
それを有耶無耶うやむやにした状態に留めておくとしよう笑

少し話題を変えようか。

最近では「フードロス」が叫ばれているが、
僕は子どものころ
「ご飯は他の生き物の命をいただいているのだから感謝して食べなさい」
と言われていたので、できるかぎり残さないようにはしてきた。

しかしこのコトバ。

お分かりのとおり
「道徳的な正しさ」
の色合いが強い、いわゆる大人が子どもに望む”正しい”生活様式“の教育の一貫である。

そして‘’ど正論‘’であり、
それはすなわちネット社会では、食べ物を大量に残そうものなら、見ず知らずの人でさえをも刺し殺す鋭利な武器、

“正義“の鉄拳フレーズだ。

リアル世界ではどうだろうか。
同じ「残さずに食べる」であっても少し意味合いが違ってくる。

食事のたびに
「生命に感謝する」「命に申し訳ないから無理してでも食べないといけない」「フードロスを増やさないようにしよう」

という聖人君子のような気持ちをもった人はおそらく少数派であろう。

実際は
「ご飯を好き嫌いせずに残さない人」
というのは、残しまくる人よりはマナー面で好印象を持たれがちなので、
「処世術」として残さないようにしている、
という面に行動が支配されているというのが大多数である。

‘’処世術‘’

大人になるにつれてリアル世界の大半の場面では、このテクニックでやりすごされていく。

で、あるから

「美味しいと思って多めに注文したが食べられないので、吐くよりも無理せずに残した方がいい。」
と言うのも当然ながら処世術の一つであり、

あたりまえな社会の
あたりまえな日常である。

そうだよね?
みなさん。

しかし、リアル世界の「処世術」をネット社会に持ち込んでしまうと「道徳的な正しさ」に押しつぶされてしまう

ボクはこの「道徳的な正しさ(正論)」と「処世術」に混乱することがある。

一例をあげると日に日に
「お笑い番組」を素直に見れなれなくなってきた。

道徳的な正しさの正義警察が常に監視している中で、面白いか、面白くないか以前に

「このネタで笑っても良いのだろうか?」
みたいな考えにとりつかれてしまうことが増えてきたように思うのだ。

子どもの頃から、ボクがお笑い番組をみてきて、心底笑ってきたのは

世間とズレている“自分“や“他人“の身の回りの出来事を笑いにした

漫才やコントや落語

が多かったように思う。
一般的なものからの視覚、聴覚、またはイメージの「ズレ」。緊張と緩和のコントラストから笑いが生まれる。

これが主流であった。
「あった」という表現はおかしいかもしれない。現に、今でもリアル社会ではそういったズレをみて多くの人が笑っている。

しかし「正義」を振りかざす人がいるネット社会では、いまの時代は許されないズレが多くある。

ということは、どういうことか。

リアル世界での笑いと、
ネット社会における笑いが
異なってきたのだ。

昨年末のM1で、リアル世界ではTwitter上の注目度ランキングで、優勝した錦鯉に次ぐ2位と大躍進した‘’もも‘’。

しかし一方で
当人同士の見た目イジりのネタがネット上の一部では問題視された。

こんなの盛って盛ってのフィクション要素満載なんだし、そもそも当人同士のいじり合いを笑いに変えたものである。

お笑いというのはそういうものなんだから、
「非実在キャラクタ—」
にまでいろんなものをあてはめて、
「差別だ!」「不快だ!」って言うのはあまりにもデリケートすぎる、

とボクは思ってしまう。

が、

実際のところ、お笑い番組だけの問題じゃない。
この「道徳的な正しさ」と「処世術的な正しさ」の衝突の問題は、
SNSが身近になってから、ずっと解決できないまま、「道徳的な正しさ」が圧倒的優位のまま、今の今にまできているように感じる。

で、言いたいこと

ブログにしても、noteにしても

昔も今も見る側は

リアル世界の、
リアルな泥臭いあなたの日常、失敗も毒舌も含めたあなたのリアルな声が聞きたいよね、その方が圧倒的に面白いよね、っていう真理。

道徳を武器にして、多様性を認めず、他人に暴言を浴びせて大騒ぎする人が増えた結果、些細ささいなことでも炎上してしまう世の中となってしまった。

でも過度にそれを気にしすぎると不特定多数に受け入れられる耳障りの良いことだけを発信することしかできなくなる。

「失敗を恐れずチャレンジを続けよう」
「愛は地球を救うのだ」
「giveの精神で!」
「ありがとうを言い続けよう」
「感謝をしよう」

こういう内容が悪いって言っているのではなくて、このたぐいは誰が発信しても一律で道徳的なものに内容が集約されていく。

こんな発信ばかりで世の中が埋め尽くされてしまうと個性が際立ってこなくて面白みが激減しちゃうよね、って。

ボクはどちらかというと、
感情を全面にだして、毒舌の部類に入る人間だと思ってはいるが、

今まで以上に減点方式で、「誹謗中傷」かどうかを監視し合う、そんな時代がやってきた時、ボクはどうするのだろうか?

「誰からも嫌われない」とか
「全員と仲良くする」というのはそもそも不可能である。ユダヤ教の有名な教えの通り、

あなたを嫌う人の2倍好意的な人がいるし、まったく嫌っていない人は7倍もいる。

だからボクらのような「一般の発信者」は、いつの時代だってSNSでの炎上に過剰反応をしなくて良いのだ。

ボクは、おそらく発信を続ける限り、
斜に構えるし、少々の煽りはするし、主義主張をすると思う。

煽るということは、感情を動かすという意味でもあって、それは時に、人を動かすきっかけとなる。

人は理論ではなかなか動かないが、感情によっては容易に動く。

そう思っている。

だから発信する限り、おこがましいが
文章によって読み手の感情に働きかけて、
誰かのナニか(ココロ、行動、考え方等)を動かす記事を綴りたい。
可能かどうかはわからないが、目標はそこに常に置いておきたい、と思うのだ。

けど……

世の中には「言わなくてもいいこと」というものがあると思う。

だから、天ぷらの写真は控えるけどね。
フィクションかな。
どうだろう。
きっとそうだろうね。

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