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【後編】人生で大切なのは、僕のようなレコメンド機能に洗脳されたおっさんにならないことだ。

「noteを始めたんだってね!見てるよ!」 

どこで嗅ぎつけたのか、とても有難いことにかつて12年前にブログをしていた頃に知り合った人達がLINEに連絡をくれるようになった。

しばらく音沙汰がなかったので、暇を持て余した僕は満面の笑顔で、取り憑かれたように長文レスをしてしまう。

わざわざ時間を割いてまで、こんな不毛なnoteを読んでくれているということは、

その時点でこの歳になっても世の中を斜に構えて見ているか、「反自己啓発本」思想の持ち主か、「非モテ」であろうかは容易に想像がつくが、歳を重ねても同じ属性の人とあいも変わらずに繋がりを持てていることは僕としては本当に嬉しい。

そして更に嬉しいことに僕と同じ属性をもつ彼らは、各記事の下についている「このクリエイターの人気記事」を見て、全然読むつもりでなかったであろう僕の過去記事を回遊し、過疎りまくりの不人気noteの「ビュー数」アップに貢献してくれているのだ。

まさにじょうのお得意様である。

……さてさて。
またまた前置きが長くなってしまいそうだ。先を急ごう。

本記事「後編」では、この「レコメンド機能」がもたらす世界について、ちょっとだけ真剣に考えてみたいと思う。

【前編 人生で大切なのは、僕のようなレコメンド機能に洗脳されたおっさんにならないことだ。】

この商品を買った人はこんな商品も買っています

僕たちが何気なく使っているサービスには、お金を使わせるためと言っても過言ではない誘惑が散りばめられている。

楽天やAmazonのレコメンド、ありとあらゆる場所で「金を使え」と誘惑してくる。

「よく一緒に購入されている商品」
とか

「この商品を買った人はこんな商品も買っています」
とか
言われると「承知しました〜!」という感じでどんどんポチって買ってしまう。

僕はもうこれで何年も衝動買いを続けているが、本に関して言うと衝動買いした本の未読率は他と比べて明らかに高い。

皆さんにも聞いてみたい。

そうやって買った本、最後まで読んだ?

家に届いてから読み進めてみると
「なにこれ、まったく活字が頭に入ってこない」

みたいに「合わないかも」と不満を持つことが僕の経験上、本を開いて最初の30分以内に訪れる。

誰かにプッシュされて受動的に買う本は、今の自分にとって難易度が高すぎる場合や低すぎる場合、著者の書き方が悪い場合など「買って初めて気付く」ハズレが往々にしてあるのだ。

そりゃそうだ。

あくまでコンピュータが選んできたものは、「年齢、性別、趣味、価値観、家族構成、購入履歴、属性」などの側面から自分という人間を丁寧に分析したペルソナにすぎない。
当たり前だがリアルな像ではない。

にも関わらず、こうやって便利なネット購買が主流になっていくと、提供者側(販売者側)は、やがてこちらが1ミリも買いたいと思っていないものを次々、声高に宣言してくるに違いない。

「これもイイよ!」
「インフルエンサーも買ったよ!」
「これも合わせて読もう!」

一緒に買うかどうかは本来、購入者側が決めるはずであるのに、心境はもう提供者側(販売者側)に主導権を握られているのだ。

何度も「一緒に……」宣言をされると、一緒に買うべきだと思えてくる。

だから買う。
買いたい。
もぅ、相手の思うがままである。

これに慣れてしまったら、もぅ本が山積みされているリアル書店に行って自らに適した「宝」を探し出そうとしない。

一度も試し読みしていないネットで買った本を手にし、そしてガッカリしたら星1つにしてレビューする。

「思っていたのと違う」
「ありきたりな内容で、特に学ぶべきものはなかった」

そう。
悪いのは自分じゃない。
買った自分が悪いんじゃないんだ・・・

で、考えるべきだ。

もしも僕たちに適したものをオススメする優れたツールとして捉えられてきたレコメンド機能が、僕たちの世界や選択肢を狭めているのだとしたら、これは誤った意思決定を誘発してしまう非常に危険なものだと思う。

こういう世界で生きていると

他人は他人、自分は自分

という意思を何一つとして持つことができずに、ただただレコメンド通りの感情を追随し、失敗すれば「周囲のせい」にして逃げる人で溢れかえることにならないだろうか。

今、「親ガチャ」という言葉がトレンドワードになっている。

「親ガチャ」とはようするに、自分の市場価値は自分の意思とは関係なく、両親や生まれた家庭環境で決まる。いうなれば完全な運任せということで、「うまくいっていない人」が、こうなってしまった状況は最も身近な親が原因であるとするネガティブワードとして使う。

たしかに部分的には一理ある「捉え方」だと思う。

しかし僕が42年間、人生を歩んできた限りの見解ではあるが、人生なんていついかなる場面も全員が平等の環境なんて用意されていない。日常の至るところに「○○ガチャ」のようなものが潜んでいると言っても過言ではない。

シェイクスピアは「人生は選択の連続である」と言った。

たとえば、クラス替え、担任の先生、異性との出会い、入試や就職活動、職場の人事。

さらには自力ではどうにもならない災害や今まさに蔓延しているコロナといった疫病も加わりながら、世界中の人達がさまざまな「ガチャ」に左右されて今がある。

「親ガチャ」と揶揄されるように親の影響力を否定はしないが、しかし実態として親の影響力はそこまで大きくない。

むしろ時代、性別、生まれ育った地域、周りの友達、学校、それらの環境の方が圧倒的に自己形成に影響を及ぼす要素としては大きいように思う。

そして「良い環境」に身を置いたからといって、それだけで成功するわけではない。
「悪い環境」だから失敗するわけではない。

当たり前である。

同じ会社にいても、サボってダメになるおっさんもいれば、毎日必死に結果を残して出世していく人もいて「与えられた環境」だけでその人の能力が決まらない。

重要なのは「自分の能力を向上する環境を自らがどう作っていくか」である。

自分の環境がおかしいと思ったら、変化する意思を持つこと。

自分が環境に合わないと思ったら、辞める(避ける)意思を持つこと。

ゲームをやっても一発で当たりを引くのが難しいように、ガチャを回し続ける意思を持つことが大切なのだ。

と、いつ以来か分からないが真面目に語ってしまったが、、、

僕は友人の結婚式に20回くらい呼んでもらったかな。いつも馴れ初めエピソードを聞くのが好きだった。

その日、あと一本バスが違っていたらとくに出会うこともなく、二人の人生が重なりあうこともなく、淡々とそのまま続いていた。
でも、たまたま乗り遅れたことで出会って、愛を育み、結婚し、幸せを手に入れた。

僕にはこういった奇跡や運命、偶然の出合いが人生に絶妙なスパイスを与えて彩り豊かにしていると思っているが、こういう出会いもレコメンド機能で紹介される世の中になっていくのだろうか?

そんな世の中はとても効率的だし、それで運命的な出合いができた人はとても素敵なことだね、とは思うけど、古臭いかもしれないが損してないか?って思ったりしてね。

最初は大嫌いだったのに、第一印象が最悪だったのに……なぜかいつの間にか恋愛に発展、といった恋愛ドラマあるあるがなくなってしまうようになると、ロンバケで瀬名と南だったり、ラブジェネで哲平と理子であったり、そんな恋愛も非現実的って思って観ちゃうようになるよね…………

ってなんの話や…古っ。

話を戻そう。
リアル書店に足を踏み入れてすぐに、ざっと周りを見渡すと「買おうとしている本以外の本」の情報がいったいどれくらいの数、目に入ってくるだろうか。

「新しい本と出会う生産性」は、ネット書店のそれにくらべて桁違いに大きい。そこで目にした光景から、実は僕達は世の中の様々なリアルを学ぶことができている。

「あれ、最近やたらと株の本が多いな」
「ふるさと納税ってこういうことか」

目的外の本を手に取り、パラパラとめくり新しい情報を入手する。その目的までに辿り着くまでのプロセスに実は価値があるんじゃないのって。


結局、長くなった。意見をまとめよう。

これからの時代で自分をブランディングする歩き方とはなにか。

「この本を読んでいる人はこれも読んでます」
という本以外で、自分に合った本を見つけることの方がはるかに大事だと気づけるかどうか。

こんなレコメンド機能に頼ってばかりいたら、

「同じような本ばかり読んでる人の一人にしかなれないやん」

「他の人も『みんな』読んでるならむしろ自分は別のを読むべきやな。」

って思えるかどうか。 

それこそが、大きな分かれ道になるんじゃないかな、と僕は思う。

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